第六話 振り払えぬ影
2日後の早朝、朝食と一通りの下拵えを終えたアキは、普段よりも早足で、眠りから覚めた街へと繰り出していた。あることを確かめるために。
「ん? 」
潮風を浴びながら石畳の上を歩いていると、ふと、いつも通っている運河の様子がいつもと違うことに気が付く。
普段の石橋は撤去されており、川の側には、5パッススはあろうかという木材が二等辺三角形の形に組まれている。それには紐が結びつけられ、下部には恐らく紐を巻き取るための巨大な滑車があった。これはローラン人が建築に用いるクレーンだ。
「すいません」
クレーンの側にいる男に声をかけると、彼は薄い色の眉に皺を寄せて振り返った。
大柄な背丈、外套と長袖の衣服から見える青白い肌─恐らく北方人の奴隷だろう。
「ここは通行止めだ、見たら分かるだろ」
「橋が壊れたんですか? 」
「馬鹿な船が荷を積みすぎて、思い切りここの石橋にぶつかったんだよ」
「はあ、視察の日に災難ですね」
「面倒はいつ起きても同じだ」
北方人は無駄な会話を好まない。アキはさっさと頭を下げ、小走りで橋へと向かう。男の言うとおり、つい昨日まではアーチ型の見事な石橋が運河にかけられていた。あれを完全に作り直さなければならないとは、かなり大規模な衝突事故があったのだろう。
─派手な魔法が使えりゃさっさと直せるだろうに。
この世の動植物には全て、魔力という力が宿っている。その総量は種類、植生、個体によって異なり、人間の中でも民族や個人ごとに差がみられ、一般的に魔力量が多いほど頑健で長寿である。
そして魔法─魔力を自然の神々に捧げ、様々な現象を起こすその力を行使出来るのは人間のみ。
人間は魔法を以て大地の征服者となり繁栄した。
その中でも土、水、風、火からなる四大元素魔法は最も簡単なもので、どの民族でも多少なりとも行使することができる。その他の魔法は、専門機関での教育、個人的な素養、民族としての性質などが複雑に絡み合い、使いこなせる人間はそう多くはない。
特にローラン人は、大陸の中でも最も魔法を苦手とする民族だ。彼らの多くにとって魔法は、土を耕しやすくしたり、火起こしの火種を大きくしたりするような、生活の補助としての役割しか持たない。
彼らによると、魔法は難解な「理論」に基づく「技術」であり、数多の学者がその解明に心血を注ぎ、現在は四大元素ならびに、治癒魔法の理論や発動条件が解き明かされたらしい。
そう話には聞いていても、アキにはさっぱり理解できなかった。彼と、そして多くの属州民にとって、魔法は神から授けられた力、信仰に対する対価であり、教本を読んで修練するようなものではないからだ。
北方は頑健で長命な民族が多く、南方は魔法に練達した博学な者が多いとされている。そのどちらもが、橋を直すためだけに大層な道具を使わなければならない国に負けたのだ。
帝国による全土征服は、アキが生まれる前に完遂している。彼は生まれながらに亡国の住人、支配される属州民として育った。だからといって、それを当たり前のこととして受け入れることはできなかった。
『アクィルス、あの荒野の向こうには、おれたちの女王陛下が眠っておられるんだ。この世の誰よりも賢く美しい、偉大なるお方が─』
父はアキの肩を抱き、崖の上から幾度となく遠い地平を指し示した。冷たい潮風に吹かれながら見つめた荒野の奥は、ひどく淋しげに見えた。
─ああ、変なこと思い出しちまった。
アキは頭を振って歩を早める。そのとき、厚い掌が彼の肩を掴んだ。
『父さん?』
振り返りながら、思わず故郷の言葉が飛び出した。心配したよ、探していたんだ─そんな父の声が鮮明に浮かぶ。しかし、
「アキ、買い出しはクレアに任せると言っただろう」
振り返った先では、外套を目深に被ったルイスが、薄い茶色の瞳でアキを見下ろしていた。
「……あんなに量が多いのに?」
動揺は、あからさまに声に現れた。
「何かあったのか?」
「いや、別に……いいから、俺も行きますよ。気が利かないってクレアさんに怒られるし」
「クレアには俺から言っておく」
低音が空気を震わせる。影が落ちた外套の中の表情は判然としない。北方系住民の青白い肌は日光に弱く、彼らは日の下で殆ど顔を晒さないのだ。
「これは家長としての命令だ。昨日の夜言ったとおり、今日は2階にいろ」
「……昨日は命令なんてされなかった」
「それでお前が大人しくしていれば良かったんだが、「提案」だけではお前には弱かったようだな。命令ならば聞けるな?」
そう─昨日の夜、ルイスは妙にしつこく、アキに休暇を取って、しかも部屋で大人しくしているようにと促してきたのだ。
観光客が増えて治安が悪くなっているからだとか、いつも働かせ通しでは使い物にならなくなるからだとか、それらしい理由をつけて。
「帰るぞ。買い出しのことなら、常連に荷物持ちを頼んでいるから心配するな」
ぐいと腕を引かれ、アキは強制的に来た道を戻ることとなる。
「“ゲメッルス”様がいらっしゃるのと、何か関係があるんですか?」
「そうだ。まだローランの作法を知らないお前に接客させるわけにはいかない」
「……分かりました」
それ以上会話はなく、ふたりはマンティへと戻ってきた。クレアは既に買い出しに出ているようで、店は静まりかえっている。
アキは外套を剥ぐように脱ぎ、それを小脇に抱えて階段を上った。廊下をまっすぐ歩いた一番奥が、彼の私室だ。
「……フン」
アキは外套を放り出し、寝台に身を投げた。安いマットの感触が背中に伝わってくる。厨房や店内とは違う、未だ嗅ぎ慣れない匂いが鼻腔を満たした。
初めて泊まる安宿に似ていると思った。空き家ではなく、繰り返し繰り返し誰かが出入りし、生活していた場所の匂いだ。この部屋に住んでいたであろう少年は、影も形も見たことがない。
死んだのか、出奔したのか─とにかく夫妻は、戻らない息子の面影をアキに求めているように思えた。
─調子のいい奴ら。
そうだというのに、貴人が来るとなれば不用品のように部屋に押し込まれる。無作法で物知らずの奴隷が、その“ゲメッルス”の前で粗相をしないかどうかが不安なのだろう。
不意に父の顔が脳裏を過ぎった。ローラン人と子を成したことを蔑まれ、漁村の隅の小屋に追い立てられ、貧しく暮らしていたその横顔が。
ルイスに肩を掴まれた瞬間、ほんの束の間、父が探しに来たのだと思ってしまった。ホッとしたように眉を下げ、声を震わせて、「心配したよ」「帰ろう」とアキの手を引いて、抱き寄せてくる。母によく似た顔をじっと見つめて、泣きそうに笑うのだ。
『お前は、本当に母さんに似ている』
『お前を見ていると、母さんを思い出すよ』
アキは舌打ちをして、壁に向けて寝返りを打った。父を愛していないわけではない。ただ、己を通して母を見つめるあの目に、彼は耐えられなかった。
もう二度と、あの村には帰らない。
もう二度と、父に会うことはない。
もう二度と─
「俺は、誰の代わりにもならない……」
第一章【大衆食堂マンティ】完