第五話 海を抱く瞳
レスタの街を一望する白亜の塔─属州統治の場である総督府の壁には、東西にふたつの日時計が取り付けられている。東の時計は午前に、西の時計は午後にその役目を果たすが、わざわざ反対に回って時間を確認する人間は滅多にいない。
マンティから見える日時計が、15時を指している。貴族は執務も風呂も終えて奴隷が作る夕食を待ち、商人たちは店じまいをして、汗を流した奴隷や自由民たちは公共浴場に足を運び、夜に働く者たちは起きて支度を始める。
マンティもまた、今日の営業を終えて店内の清掃を行う時間だ。アキは扉を閉めると、床に立てかけていた閂を掛けた。
「明日は店を閉める」
「え?」
厨房に跳ねたシチューを拭っていたルイスの言葉に、アキは首を傾げた。
「定休日じゃないですよね?」
「明後日に備えて準備がある。注文したワインとビールも届く頃だ」
「視察の日ってそんなに忙しいんですか?」
誰かが床に転がしていった皿を拾い、アキはカゴに積み上がった残りの皿とともにそれを持ち上げた。
「明後日いらっしゃるのは、ふたりの執政官様のうちのひとりだ」
「執政官?」
「平時は皇帝の内政を補佐し、戦時は軍の司令官を担う役職だ。これに任命されるということは、皇帝の後継候補である証にもなる。現在は陛下のご子息のクラヴィス・ディア様と、甥のゲイル・セレ様が就任されている」
「ああ、ローラン語だと執政官っていうんだ、あれ。今回来るのはゲイル様ですよね?ほら、ローランの太陽とかいう」
執政官ゲイル・セレ。戦の天才である。国家の太陽、ローランの剣、その熱狂的な人気と名声は、南方の片田舎でも轟いていた。
「でも、そんな偉い人がこの店に来ないでしょう?」
「ゲイル様は、視察にも軍務にも必ず家族をお連れになる」
「そりゃあ仲良しなことで」
「ご子息の“ゲメッルス”様は、下町の食堂に片端から入っては庶民に酒と料理を奢り、朝まで呑み明かす。それこそ、店の在庫が空になるまでな」
記憶が正しければ、執政官ゲイルには少なくとも5人以上の子どもがいるはずだ。それだけいれば、放蕩者がひとり混ざっていても何ら不思議ではない。
つまり明後日は、丸一日馬鹿息子のお遊びに付き合わされる可能性がある、。そう考えると、アキは今から憂鬱な気分になった。
「はあ〜、まあ稼ぎ時ってことですかね」
「アキ、何突っ立ってんだい、早く洗ってきな」
振り返ると、8本の縦溝が掘られた板、計算盤の溝に珠を滑らせて、クレアは素早く今日の分の勘定をしている。
「今日はいくらですか?いたっ」
銅貨と計算盤が並ぶテーブルに跳ねるように近付くと、ピシャリと額を叩かれた。
「子どもが見るようなもんじゃないよ」
「俺、計算盤が使えるって触れ込みで売られてたんだけどなあ」
「ガキはさっさと片付けして風呂入ってきな」
「はーい」
奴隷は家長の財産であり所有物、生殺与奪権さえも家長に握られている。どう扱おうが雇い主の自由ではあるのだが、ルイス夫妻のそれは些か奇妙なものだった。ふたりは、彼を年相応の少年として扱う。
アキは皿の山を抱えたまま、中庭に通じる扉を足で押し開けた。今頃は、同じ目的を持つ者たちで街の公共水道は混雑しているだろう。
「……まあ、このくらいの量ならいけるか」
アキは皿を地面に置くと、庭の隅に置いてあった水桶を引き寄せた。
そして両の掌を広げ、深く息を吸う。熱い奔流が血管を通じ、指先へと流れていく。熱が溢れんばかりに満ちた瞬間、桶の底から透明な水が湧き出た。それは縁まで達し、桶の側面を伝って地面を濡らす。
「よし」
地面にあぐらをかき、灰と水で皿の汚れを落としていく。マンティに勤めて3ヶ月がたち、この作業もすっかり慣れたものだ。
クレアがわざわざ公共水道から水を汲んできているのを見たときは驚いたが、ローラン人の“魔力量”では水流を操る程度が関の山、魔力を実体のある物質に変化できるほどの能力を持つ者はほとんどいないらしい。
─まったく、なんでそんなしょうもない国に俺たちは負けたんだ?
アキはマンティの2階を見上げた。そこにはいくつかの倉庫と、夫妻の寝室、アキの私室がある。雇われてその日に私室が与えられるなんてありえないと、露店で意気投合した奴隷に驚かれたことは記憶に新しい。
しかしアキは知っている。今身につけている衣服も、あの部屋も、全て誰かが使っていた形跡があることを。それはきっと、アキとそう年も体格も変わらない少年であることを。
─奴隷のガキを息子代わりにするなんて、悪趣味なやつ。
ローラン人の考えることを理解したいとは思わないが、その悪趣味によって、寛容な主人と安穏な暮らしを手に入れたことは、アキにとって幸運だった。
しかし彼は決してそれに満足しない。身一つで海を渡ったときから、アキにはこの国で生き抜き、身を立てねばならない理由があった。
「……」
深い青の瞳が空を見上げる。遠く、遠く、空の果てを。やがて彼は、小さく息を吐きその目を伏せた。
レスタ近郊の街道─石畳の上で揺れる馬車の中、全く同じ色をした目が開かれる。
「ふああ……よく寝た」
窓に肘を付き、ガシガシと頭を掻くのは赤褐色の肌と螺旋を描く濃紺の髪を持つ、非常に華やかな顔立ちの青年だ。頭には見事な金の刺繍が施されたターバンを巻いている。
「ルーカス、その下品な欠伸をおやめなさいと言ったはずですわよ」
そんな彼をじろりと睨むのは、裾に花の刺繍が施されたドレスを身に纏った少女だ。艷やかな栗色の髪は、後れ毛1つこぼさずにきっちりと首の後ろで編み込まれている。その肌色はローラン人の特徴である赤みがかった白であった。
「欠伸に上品も下品もねーよ」
青年─ルーカスは小言を聞き流し、ワインのコルクに歯を立てた。
「ワインを開けるのもおやめなさい。何本目だと思っているのですか」
「うるせえなあ、今からでも父上たちの馬車に乗れよ、レイチェル。ここにいたって何も面白くねえぞ」
「わたくしの行動に口を出すのはおやめなさい」
レイチェルは小さく息を吐く。赤い炎が唇の隙間から噴き出した。
「あっつあっつ!!」
「ルーカス、飲み過ぎは良くないよ。もうすぐレスタに着くっていう話だし」
「もうすぐねえ……オレは3日も前から同じ台詞を聞いてるぜ、エドガー」
「帝都から半月かけてきたんだから、2,3日ぐらい“もうすぐ”でしょ」
向かい合う椅子に足を乗せ、うんざりとした様子を隠さないルーカスを宥めるのは、栗色の髪を丸く切り詰めた垂れ目の青年だ。その肌色はレイチェルのそれと同じである。
「エドガー兄様、御者を急かして来てくださいな」
「ええっ、だめだよ。困らせちゃうし、事故になっちゃうかも」
「なら暇つぶしに父上たちの馬車に行こうぜ、このくらいの距離なら飛び移れるだろ」
「ドレスが汚れるので嫌です」
「よし、エド」
「ぼ、僕も行くの……?」
性格も、振る舞いも、容姿も異なる3人。しかし彼らにはひとつの共通点がある。顔の中心で輝く、海を思わせる深い青の瞳─それは彼ら一族にとって、何より尊ぶべき重大な“宝”とされていた。