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黎明は夜より出でて  作者: 伊勢谷照
第一章【大衆食堂マンティ】
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第四話 勇者の名を持つ者



 アクィルス─周囲からアキと呼ばれる少年は、南方の小さな港町で育った。

 その名は古いローラン語で“勇者”を意味する、大層名誉のあるものだという。しかし、出稼ぎの南方人とローランの女との間に生まれた彼にとって、それは重石でしかなかった。

 母はアキを産んで間もなく産褥熱で死去し、父は故郷に戻り、漁師として息子を育てた。アキの肌は赤みがかった白。それは母から受け継がれたローラン人の色だ。

 かつてアステリと呼ばれた故郷の地では、ローランとは王家を滅ぼし、国土を占領し、民を奴隷とした何よりも憎むべき敵だった。あの町は、その敵と同じ顔、肌、名前を持つ少年が幸福に生きていける場所ではなかった。生きていきたいとも思わなかった。

 父に置き手紙を残し、船をいくつも乗り継いでこのレスタの街に辿り着いた。それが半年前だ。

 アキにはひとつの武器がある。それは生まれ持った要領の良さだ。一度教えられれば大抵の仕事はこなせるし、人と話すのも得意だった。そして何より簡単な計算が出来て、多少なりともローラン語が話せるというのは、奴隷として働く上で重要な能力である。

 故郷は好きではないが、漁獲量を数え、ローランから来た商人と交渉させられたあの日々にだけは感謝していた。


「アキぃ、早くしてくれ。蜂蜜のねえ玉ねぎ煮込みなんて有り得ねえよ」

「肉にかけるソースもな!蜂蜜がねえと塩辛くて仕方ねえ」

「あ、その蜂蜜、ワインに入れて」

「だめでーす、蜂蜜ワインをご注文くださーい」


 買い物に行っている間に、蜂蜜の在庫は底を尽きたらしい。木製のテーブルに座る奴隷や労働者たちは、昼まで働いて空っぽになった腹を撫でて文句を言っている。

 蜂蜜がいらない料理を注文しろと思うが、この大衆食堂マンティの看板商品には、蜂蜜が使われる料理が多いのも事実だ。


「はい通ります、通ります。ほらケーンさん、床に寝てたらまた誰かに踏まれますよ」


 食べ物とワインの匂いが満ちる中、アキは人混みを掻き分け、石造りのカウンターに辿り着く。主人はカウンターの窪みに収められた鍋の中で、シチューをかき混ぜているところだった。 


「旦那様、随分盛況ですね」


 調味料の棚に蜂蜜を並べ、アキは鉄鍋で魚を煮込む男を見上げた。薄く口髭を生やし、その背丈はアキよりも頭2つ分大きい。薄い色の瞳が、蜂蜜とアキを交互に確認した。


「2本あるな」

「どっちもタダですよ。ああいや、ツケの支払いだからただじゃあないか」

「そうか。ハーブを取ってくれ」

「はーい」


 ラム肉とレンズ豆のシチューは、マンティの人気メニューのひとつだ。臭み取りのために酒に漬け込んだ肉は癖が抜けて柔らかく、ローズマリーの香りとよく合う。


「あとニシンをしめてあるから、竈に入れてくれ。火加減は分かるな?」

「この前の通りで良いですか?」

「ああ」


 彼の名はルイス、マンティの店主にしてアキの雇い主である。

 ローランの特権階級は労働を卑しむ。貴族たちの代わりに社会を回しているのは、人口の半数に上る奴隷たちと、自ら日銭を稼がねばならない貧しい自由民だ。

 奴隷の多くは、戦争捕虜などの強制的に連行されてきた属州民だが、一部の例外も存在する。自ら自由民の身分を捨てるローラン人、手を上げて己を売り込みに来る属州民などである。どちらも、大抵は金銭的に追い詰められたものの末路だ。その道は楽なものではない。

 しかしアキはそれを選んだ。故郷に二度と戻る気はない。計算と読み書きが出来るといえば、拍子抜けするほどあっさりと買い手が決まった。

 それが貴族ではなく大衆食堂の主人であることには驚いたが、ローランではよほど貧しくない限り、自由民でも奴隷を雇うのが普通なのだ。


「なんで今日こんなに混んでるんですか?もう下拵えの分がなくなっちゃいますよ」


 塩でしめられたニシンを竈に並べつつ、アキはその他の食材の在庫を確認する。芋も、百合根も、魚も、下準備を済ませたものはもう殆ど器の底が見えてしまっていた。


「見物人とそれに乗じた商人……彼らが連れている奴隷、といったところだろう」

「ああ、明後日でしたっけ。次期皇帝陛下の視察は」

「あの方はあくまで後継候補だ。陛下はまだ世継ぎをお定めになっていない」


 それは何とも悠長な話だと思った。第3代皇帝は今年で70歳、ローラン人にとってはいつ何が起きてもおかしくはない年頃だろう。

 継承問題は国を揺るがせる。人間としての権利を持たない奴隷とはいえ、この国に住む者としては早く決断してほしいところだと、アキは竈を閉めながらため息をつく。


「そういえば奥様はどちらに?」

「ルイス、ほら終わったよ」


 裏口から入ってきたのは、溢れんばかりの百合根が盛られたザルを抱えた、恰幅の良い女性だった。彼女はクレア、レスタ出身の自由民であり、ルイスの妻である。


「ありがとう、酢に漬けておいてくれ」

「今からこんなんじゃあ、明後日はどうなっちまうんだろうね。いっそ店じまいするかい?」


 ローランは厳格な家父長制を敷いており、妻も子も奴隷も、家の全ては家長たる父の財産である─という事前知識を得て、ある程度覚悟を決めた上でこの国に来たが、少なくともルイスは、クレアに自由に発言させ、行動させている。

 ローランとは対照的な女系社会である旧アステリで育ったアキにとって、大きな環境や文化の変化がないことは有り難かった。


「あ、じゃあ俺休み欲し……痛い痛い痛い」

「店が閉まってたってあんたは働くんだよ、あたしに全部家事させる気かい?」

「冗談です冗談です!」


 顔面を鷲掴みにされて、アキは必死に発言を撤回した。


「店は閉めない。食堂は全て通常通り営業せよという総督からのお達しだ」

「どういうことですか?」

「今回の視察には“ゲメッルス”様が同行されるからな」

「ゲメッルス様?」


 アキはローランに来てまだ二月に満たない。常識のように飛び出した言葉の意味が分からずに首を傾げると、ルイスは「ああ」と呟いた。


「お前にも、そろそろ仕事以外のことを教えてやる頃合いか」

「お気遣い感謝します、旦那様」

「その、旦那様というのはやめろ」


 ルイス夫婦は、アキが気安く無作法であることを望む。まるで実の子どものよう─と称したのはベニだが、アキにとってはそれは酷く不愉快な扱いだった。


「わかりました、ルイスさん」


 アキは年相応の明るい笑みを作って、そう返した。




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