第三話 潮風の街
見渡す限りの長大な港に、海面が見えないほどの数の船がひしめく。帆を畳んだそれらの上や側で忙しなく荷を下ろす男たちの顔は、誰も彼も日差しと潮で赤く荒れ、滝のような汗を流している。
ここはローラン帝国の西端に位置するマーリス州、その首都にして最大の商業都市レスタだ。帝国は征服地を属州として区分し、それぞれに属州総督を任命することで統治している。40ある属州の中でも、マーリス州、そしてレスタの街の発展は一二を争うものだ。
「悪い、通るよ」
隙間なく敷き詰められた石畳の上を、通りを行き交う人々の隙間を、ひとりの少年が器用に通り抜ける。年の頃はおおよそ15か6、黒い髪と金色の瞳、赤みがかった白い肌を持つ、凡庸な出で立ちの少年だった。
服装もまた、袖のない膝上丈のチュニックに、適当に巻いたベルト、編み上げのサンダルと、見るからに労働者であることが分かるものだ。事実そういった身分である彼は、主人から渡された財布を片手に目的地へと急ぐ。
「南方のシーラ州から仕入れた女だよ、ほらそこの旦那、ひとりどうだい?」
ややあって少年は、露店が港の船のように連綿と立ち並ぶ通りへと出た。首から己の「品質」や「価値」の書かれた看板を下げた裸の女たちと、早口の奴隷商の脇を抜け、その目は目当ての店を探す。
商人たちが広げた絨毯の上には、あちこちから輸入されてきた品々が所狭しと披露されていた。
「おい坊主、魚はいらないかい」
「それ腐ってんだろ、水かけても誤魔化せねえからな」
「ちっ、ガキが一丁前に」
「あんたが話しかけて来たんだろうが」
不自然なほど艶のある魚を並べた商人の言葉を一蹴したところで、ようやく見慣れた大壺が視界に入る。
「おはようございます、ベニさん」
「おおアクィルス、ご苦労さん」
「その呼び方やめてくださいよ、堅苦しいんで」
絨毯の上に並んだ大壺に囲まれるようにあぐらをかいているのは、顎髭を蓄えた壮年の男だ。彼は南方出身の蜂蜜商人ベニ。少年─アキの主人はここの蜂蜜を大層贔屓にしている。10を超える数の大壺には、それぞれ溢れんばかりの黄金が満ちていた。
「それより、まだ露店を出してるんですか?レスタ随一の蜂蜜商が」
「奴隷に御用聞きさせて、おれは屋敷でふんぞり返ってろって?そんなの退屈すぎて死んじまうよ。いいか、おれは奴隷の身分から成り上がったんだ。それを忘れず─」
「あ~あ~、また今度聞かせてください。蜂蜜、いつもの量でお願いできますか?」
「んだよつれねえなあ。まあゆっくり店で話してやろうかね」
「奥様から伝言、ツケを払うまで店には入れないそうですよ」
財布の紐を解きながら、アキはため息をついた。
「あ?お前んとこのご主人サマが受け取らねえんだよ」
「払うなら銅貨で払ってくださいよ。金貨銀貨なんてどうやって使うんですか」
アキは大衆食堂で雇われている奴隷だ。労働者の多いこの街では大変繁盛しており、ありふれた調味料のひとつである蜂蜜は毎日のように使われる。
「じゃあこの蜂蜜タダにするから、それで解決にしてくれや。ほら、もう一瓶やるよ」
「さすが大商人様。太っ腹ですね」
「そう畏まんなよ、同じ南方人じゃねえか」
「俺はそんな適当な名前の民族じゃありませんよ。アステリ人です」
「ふん……アステリねえ、あの国までローランに負けちまうとは思わなかったなあ」
ベニは蜂蜜を汲みながら溜め息をつく。ローランでは、全土征服開始前の版図を基準に、その以北に住む者を北方人、以南に住む者を南方人と、大まかに分類している。
北方人は青白い肌と大柄な体躯を持ち、南方人は赤褐色の肌と細身の体格が特徴だ。とはいえ出身地域によって差異があり、文化も言語も異なる。
「ほらよ、今夜も美味い飯を頼むぜ」
「今日はちゃんと払ってくださいね」
「わーってるよ」
アキは瓶を受け取り、財布をベルトに巻き付けて露店を後にした。
「ほらほら、南方の亡国アステリの貴族が遺した金のブレスレットだ!稀代の名工、カルによる一点ものだよ!」
「帝都で大流行の蜂蜜ワインですよ、ほうらそこのお方、どうぞ一口召し上がれ」
あちこちから商人の口上が飛び交い、客が彼らを囲む。ある者は青白い肌を持ち、ある者は赤褐色の肌を持ち、ある者は小柄で、ある者は見上げるほどに大きい。大陸のすべてを呑み込んだ帝国には、あらゆる人種が暮らしている。
勿論、平等に仲良くとはいかない。街で働いているのは南方か北方出身の奴隷か、それらを雇う余裕のないローラン人ばかりだ。
来た道を歩くこと数十パッスス(1パッススは約2メートル)。大通りに出ると、魚を焼いた香ばしい香りが潮風と共に漂ってきた。
やがて、その目には看板を掲げた一軒の大衆食堂が映る。席数が30に満たない店内は既に満席で、入り口に座って飲み食いしている者も目立つ。
“大衆食堂マンティ”
古びた木に刻まれた文字の下をくぐり、アキは両手の瓶を掲げた。
「ただいま戻りました、旦那様!」