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黎明は夜より出でて  作者: 伊勢谷照
序章【黎明の子】
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第二話 忌まわしき夜明けⅡ


 ローラン帝国。大陸のほぼ全域をその領土におさめる大国の西部に、広大な森がある。

太古の昔に火山が噴火し、その裾野に溶岩が流れ出した。あらゆる生き物を、草木をその凄まじい熱で焼き殺した波─永い時を経てそれは黒いいびつな大地となり、風が土と種を運び、草木が育ち、やがて再び命が生きるようになった。


 中天に上った太陽を覆い隠す木々の下、枝葉を通り抜ける風によって鮮やかな赤が揺れる。燃えるような赤毛の少年は、あちこちに穴が空いたいびつな地面を軽やかに進んでいた。


「坊っちゃん、お待ちください」


 その後を追うのは、簡素なチュニックを身に纏った、背の高い壮年の男だ。彼は淡い茶色の髪をかきあげ、再び少年を呼ぶ。


「その呼び方はよせエリック、俺はもう10歳だぞ」


 ようやく振り返った少年は、明るい緑の瞳を持つ目を睨むように細めた。


「申し訳ございません、レジナルド様」


 男─エリックはレジナルド少年に向かって恭しく頭を下げた。


「そんなことを言って、次の日にはまた坊っちゃんと呼ぶじゃないか」

「それは……ご幼少の頃より存じ上げておりますから」

「俺はもう子どもじゃない、山道だって転ばないで歩けるようになっ……」


 後ろ向きに歩いていたレジナルドは、石に踵をぶつけてそのまま引っくり返った。空を覆う枝葉に埋め尽くされた視界の端に、うっすらと笑みを浮かべたエリックがやって来る。


「後ろ向きに歩いてはいけませんよ、坊っちゃん」

「……気を付ける」


 差し出されたのは、胼胝やあかぎれが目立つ厚い掌だ。それに引っ張り起こされたレジナルドは、己の掌と見比べて溜め息をつく。


「どうされましたか? 」

「俺の手は赤子のようだと言われた」


 指の根元に胼胝が現れ始めたものの、彼の手はまだ白く柔らかい。


「毎日剣を振っているのに、筋肉だってあまり増えていないし、背も伸びない」

「あまり無理に身体を動かしていると、かえって背が止まってしまいますよ」

「そうなのか? 」


 そうとは知らず、ここ最近腕立て伏せや剣の素振りに精を出していたレジナルドは、ハッとしたように己の旋毛を触った。


「赤子のようだなどと失礼なことを申したのはフロールフでしょう? あの口の減らぬ奴隷には、私めからよく言っておきます」

「その言葉はこの前も聞いたぞ。監督奴隷殿」


 レジナルドは冗談っぽい言葉と共に、エリックが腰に巻いている赤い布を引っ張った。


「まあ仕方ない、フローは父上のお気に入りだからな」


 そう言って頭上を見上げると、木漏れ日の隙間から見える空に、1羽の鳥が飛んでいった。目で追いかけるが、それは翼をめいいっぱいに広げ、すぐに遠く火山の向こうへと消えてしまう。


「あの鳥はどこに行くんだ? 」

「アルトゥ山でしょう、あれは山の高いところに住む鳥ですから」


 エリックの指が、高くそびえ立つ火山を指差した。しかしレジナルドの指はその反対、鳥が飛んできた方に視線を向ける。


「ではどこに行っていたんだ? 」

「この森のどこかで狩りをしていたのでしょう、あれは肉食の鳥ですから」

「森の外には出ないのか? 」

「餌も巣作りの材料も森で事足りますから、その必要はあまりないでしょうね」


 レジナルドは少し考えたあと、「俺と同じだな」と呟いた。


「俺も、森から出たことはないがなんの問題もない」


 彼はこの森の中で生まれた。土の上を駆け回り、草の匂いがする空気を吸って、森の植物や動物を食べて生きている。そこに苦痛や不幸を感じたことはない。

その言葉に、エリックはどこか寂しげに笑ったあと彼の背に触れた。


「帰りましょうか、そろそろ昼食のお時間ですよ」

「……昼食か。腹の足しにならないな」


 家に向かって爪先を向け、レジナルドは口を尖らせた。朝と昼は軽食、夜にしっかりと食べる。それが彼の習慣である。正確に言えば、上流階級全体の習慣だ。


「お前たちは昼に沢山食べれて良いな、俺もそうしたい」

「我々は身体を動かしていますからね……でも夜は質素ですから、坊っちゃんにはお辛いかもしれませんよ」

「むー……」


 そんな話をしていると、レンガで作られた二階建ての屋敷が木々の隙間から見えた。


「良い匂いがする! 」


 食事に文句を言ったばかりだというのに、食欲に忠実な少年は途端に機嫌をよくして鼻をすんすんと鳴らした。


「今日はレンズ豆のスープだ、あと酢漬けの匂いがする! 」

「酢漬けですか、またフロールフの機嫌が悪くなりますね」


 エリックが一歩進み出て扉を押し開ける。その背後で、レジナルドはもう一度空を見上げた。先ほどと同じ鳥が羽根を広げ旋回している。豆粒に見えるほどの距離にいるそれと一瞬視線が交わったような気がしたが、鳥はすぐに身を翻してどこへともなく消えていった。


「……鳥は良いな」

「なにかおっしゃいましたか? 」

「ううん、なんでもない。早く戻ろう」


 レジナルドはエリックの袖を引いて、屋敷の中へと入っていった。




「……旦那様」


 それを、屋敷の窓の外から見つめる男がふたり。ひとりは椅子に座し、もうひとりはその傍らにじっと立っていた。


「やはりあれは、森のどこかに埋めておくべきでは? 」

「……フロールフ」

「それが御身のためかと。森に押し込めただけで真実を隠されたおつもりですか?」


 椅子に座す男は、窓の外─道を駆けるレジナルドに目を向ける。


「あの子に罪はない」


 すると、フロールフと呼ばれた男は主人と同じようにレジナルドの姿を眺めた。その顔は彫刻のように美しく、そして激しい憎悪に歪んでいる。


「この世に生まれたことが罪なのです。あの汚ならしい雌豚が産んだ、呪われた子です」


 フロールフは椅子に座す男の前に膝をつき、ずれて来ていた膝掛けを直してやった。


「あれが生きていることを許してはなりません、旦那様」

「……あの子は殺さない。あの子は私の子どもだ。絶対に隠し通し、守り抜く」


 しばしふたりは毅然と互いを見つめる。先に折れたのはフロールフだった。

 彼は雪の降りしきる空のような色の目を細め、立ち上がる。


「……全く、貴方の頑固は変わりませんね」

「おや、今日は物分かりが良いね」

「私は貴方の手足でございます故、貴方が望めば、如何様にも動きます」


 椅子に座る男は、自らの身体に目を落とす。左半身は完全に麻痺し、強張った関節は自ら動かすことは出来ない。しかし目の前には何よりも自由に、機敏に動く手足が存在する。


「では、ワインが飲みたいな」

「畏まりました、旦那様」

「それと、お前の分の酢漬けはあの子にあげてくれ」

「それは勿論、勿論、あのお方の好物でございますからね 」


 嫌いなものを食べずに済んだフロールフは、わざとらしく笑う。


「……あの子には、好きなものを食べて、美しい景色を見て、真っ直ぐに育って欲しい。必ず訪れる、夜明けの日まで……」


 真っ赤なワインが杯に注がれる。

 主人の祈るような言葉を横目に、フロールフの目は、窓の外に見えるレジナルドの笑顔をじっと睨んだ。





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