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黎明は夜より出でて  作者: 伊勢谷照
第三章【斜陽の兆し】

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第二十話 女王の耳


「じゃあ、街ぶらついて来るよ」

「帰って来てもやることないからね。邪魔だから夕方まで遊んできな」

「はーい」


 アキはひらりと手を振って、朝日の差す通りへと出た。その心と足取りは、夢を見ているように不安定だ。


─とんでもないことが起きた。


 夕闇の中の邂逅、レイチェルが語った子供じみた、そして恐ろしい野望。それを理解したわけでも、共感したわけでもない。しかし彼女の言葉は、アキが最も欲していたものだった。


『他でもない、お前自身を』


 渇望し続けた言葉を、彼女は拍子抜けするほど簡単にアキへと与えた。提案に頷く理由としては、それだけで充分だとさえ思えた。

 レイチェルに言い渡された最初の命令は、とりあえずひとつ。レスタの街の伝令ラブルムと接触することだ。

 彼女の情報網には、2つの役職が存在する。ひとつは古ローラン語で「耳」という意味の名を冠する密偵アウリス、これがアキに与えられた役目だ。街ごとに数名ずつ配置され、それぞれが独自の方法で情報を収集する。

 もうひとつは「唇」を意味する名を持つ伝令ラブルム。これは密偵アウリスが得た情報を集め、直接レイチェルに報告する役割を指す。

 レイチェルに指定された集合場所は、埠頭近くの民間宿だった。外部から来た商人たちが利用することの多い場所だが、一階には奴隷が利用するような安酒場も併設されており、アキが出入りしても怪しまれることはないだろう。


 半時間もしないうちに、彼は目的の場所に辿り着いた。薄い木の扉を開くなり、食べ物とワインが混ざった匂いが鼻腔に広がっていく。

 朝だというのに、店の中は奴隷や商人たちで既に混雑していた。夜に働く者、アキと同様に暇を与えられた者、商売の休憩に来た者、彼らは安いワインやポスカ─酢を水で割った飲み物─と簡素な料理を食べながら、雑談や盤上遊戯に興じている。

 ドアが開いたことに反応し、数名の客が入り口を振り返った。その中には、顔馴染みも混ざっている。


「アキ?珍しいな、ここに来るなんて」

「ちょっと商人に、仕入れのことで確認があってさ。ここに泊まってるって聞いたんだ」

「ああ、昨日は店がスッカラカンになったんだろ?」

「何他人事みたいに言ってんだよ。お前も来てただろ」

「ははっ、ゲメッルス様が飲んでるって聞いて飛んで行かねえ男はいねえよ!」


 雑談を交わしながらも、その心臓は激しく胸を叩いていた。主人ではない者の命令で動き、親しい者に嘘をつく緊張感と背徳感が、高揚と恐怖の入り混じった感情を湧き上がらせる。

 アキは軽く知人に手を振り、客室に続く階段を上っていく。指定された部屋は、2階の一番奥だ。

 軋む廊下を歩き、その入り口に立つ。一呼吸置いたあとに扉を叩くと、変声期もまだ始まっていないような子どもの声が返ってきた。


「何の用?」


 少し驚きながらも、レイチェルから教わった合言葉を口にする。


「……旦那様が買い付けられた商品の引き取りに参りました」

「何の商品だ?」

「絨毯、燃えるような赤百合の刺繍をあしらった絨毯でございます」

「……ああ、それなら用意があるよ。中にどうぞ」


 扉を開いた瞬間、深い藍色が目に飛び込む。

 柔らかい藍の髪と同色の瞳、純粋なアステリ人よりも赤みが薄い肌、痩せた体躯に粗末なチュニックを纏っている─そこにいたのは、12か13歳ほどの少年だった。


「あんたがアクィルス?」

「……アキで良い。そっちは?」

「おれはニコラ」


 ローラン風の名を名乗った彼は、アキを頭から爪先まで観察する。


「レイチェル様から聞いてたけど、ホントに青い目なんだね。見た目もローラン人みたいだし」

「母親がローラン人なんだ。目も母さん譲りだよ」

「へえ、おれも混血だよ。島育ちだから」


 ニコラ少年は、気怠げな態度で言った。

 旧アステリ王国とローランの領海の間には、南方諸島郡と呼ばれる島々が存在する。古来から二国の交易の場となっていた土地で住人は大半が混血だ。神君の時代に無血降伏し、現在はローランの属州となっている。


「それで、あんたが伝令ラブルムなのか?」

「そうだよ。ガキで驚いた?」

「まあ、そりゃあな。でも俺も対して変わんねえよ」

「話が早くて助かるね。ガキだと思って舐めやがって話にならないやつもいるんだ」


 ニコラはアキに向かって軽く背伸びをする。アキも少し屈んで、互いの額を触れ合わせた。南方の一般的な挨拶だ。


「改めてよろしく。おれはこのマーリス州担当の伝令ラブルムね。あとあんたの身辺調査も任されてる」

「身辺調査?」

「その目の色について。あんたはホントになんの心当たりもないって聞いてるけど、他にも調べようはあるからね」

「調べてくれるなら助かるよ。俺も出来ることがあったら協力する」


 アキも、瞳の色について全く気にしていない訳ではない。自分の素性を明確に証明することが出来るならば、積極的に協力するつもりだった。


「じゃあさっそく、あんたに仕事の説明をするついでに、色々聞かせてもらおうかな」


 ニコラは部屋の隅に置かれた椅子を引き、アキを手招いた。


「そういや、アキはアステリ?」

「ああ。南西の方だよ」

「ローランに来る南方人ってアステリの奴らばっかだよな。島の話ができるやつがいたら楽しいんだけど」


 彼の表情はあまり動かなかったが、声色には落胆があった。


「島が恋しいのか?」

「そりゃそうさ。親に売られなきゃ、ずっとあそこに住んでた。生まれて、死ぬまで」


 アキはその言葉に同意することはできない。流れた沈黙に何かを察したのか、ニコラもそれ以上、その話題を続けることはなかった。


「じゃあ本題なんだけど……」


 ニコラは自らも椅子に座り、更に並んだクッキーを一口つまんだ。


「あんたのご主人について調べたい。協力してくれる?」

「ルイスさんを?」

「レイチェル様からの情報を聞く限り、そいつはただの自由民じゃない。多分、アキを買ったのも何かの意図がある」


 エドガーとレイチェルに対し、洗練された言葉と仕草で応対してみせたルイス。下町で暮らす労働者とは思えない整然とした口調─ニコラの言う通り、ルイスは多くの謎を抱えている。

その正体についても、アキを手元に置く理由についても。


「俺を買ったのは、息子に似てるからだ」

「って言ってたの?」

「見てれば分かるよ」


 するとニコラは、背もたれに身を預けて椅子の足を宙に浮かせた。


「お前、そんなんじゃ密偵アウリス失格だよ」


 ぎし、ぎし、とひっくり返らん勢いで椅子が傾く。


「お前の仕事は情報を集めること。推測して決めつけることじゃない。それに人間の心なんてわかんないよ、聞いてみないと」


 それは、今までアキの常識には無かった言葉だった。村で迫害されていた立場である彼は、いつも村人の、そして常に母の面影を追い求める父の顔色を伺って生きてきた。本当の思いなど、聞こうとしたこともない。

 ニコラは皮肉っぽく笑い、椅子を揺らすのをやめた。

 彼は今、アキが密偵として「使える」かどうかを見定めているのだ。


「……わかった。聞いてみる」

「よろしく。それともうひとつ……」


 ニコラの背後にある窓が、潮風を部屋に吹き込む。視界の端で捉えたその奥に、アキは一瞬、燃えるような朝日を見たような気がした。




 朝日を思わせる赤色が、潮風に揺れる。その青年は、人がひしめく埠頭を危なげな足取りで歩きながら、地平線まで続く海を見つめた。


「ここが、森の外……これが、海か」


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