第十一話 夜明けの女神
『ウーヌスよ』
それと出逢ったのは、赤く燃える朝日に焼かれんとする、夜明けの港だった。
船から卸された荷物を抱えていた男は、埠頭の端に立つその姿に目を奪われる。
女だった。それ以外のことは何も分からなかった。異様に赤い陽光は彼女の全てを染め上げ、吹き荒れる潮風にもてあそばれた髪が、その顔を殆ど隠してしまっていたからだ。
『……』
いつの間にか、目の前の船から船主の姿が消えていた。それだけではない、船を降りて早速商売を始めようとする商人も、荷下ろしをする奴隷も、船を係留する船員たちも、港に溢れていた人々は影も形もなく消え去っている。
冬の夜にさえ眠りを拒むこの街を、耳鳴りがするほどの静けさが包む。男は驚きのあまり口が利けぬまま、ただただ女の姿を見つめていた。
『ウーヌス』
『……あ』
女が紡ぐ単語は、成人の折、父に与えられた名だった。ようやくそのことに気づいた彼はしかし、唇を噛んで首を振る。
『自分に、そのような大層な名を名乗る資格はございません』
『……』
『では、ルイス』
髪の隙間から見える口が紡ぐのは、それもまた男の名であった。父母が共に彼を抱き、その誕生を祝福した日に与えられたもの。
『……貴女は』
神の顔を描いてはいけない─男は神殿に礼拝に赴いた際の父の言葉を思い出した。
古き神々は顔を持たない。彫刻も、絵画も、指先ひとつ、毛髪の一房まで精緻に形作られた神々を讃える全てが、その顔だけは映さない。
そして目の前に立つ女もまた、不自然になびく髪と降り注ぐ朝日によって、瞳の色さえ捉えることが出来なかった。
『アクィア神……?』
港町で広く信奉される水の女神の名を出せば、女は緩慢な仕草で首を横に振った。
『あの娘は、人の望みによって顕現する。それは真摯で、忠実で、あの娘にのみ注がれる心から生まれ出でるものでなくてはならない』
『……スピカ神』
『あの娘は、決してその半身と離れることはない。2つの肉体、2つの魂、1つの絆を縁とする。決してその瞳が、半身の眼差しから引き剥がされることはない』
『ノク……いや……───?』
男はやがて、ひとつの神の名を口にした。刹那、赤く染まる髪に、黄金の輝きが宿る。
『今このとき、この地にひとりの男児が生を受けた』
『……何を』
『お前は自らの息子を左腕に抱き、そしてその男児を右腕に抱くだろう』
男は息を呑む。彼には、妻との間に息子が生まれたばかりだった。生まれた我が子を左腕に抱き、右手で生業の料理をする日々は、既に日常になりつつある。
『その子とは、何者なのです』
『お前は、息子の命の親であると同時に、あの男児の魂の庇護者となるのだ』
女の言葉は答えにはなっていなかった。黄金の光の粒は、やがて髪を滑り落ちるように広がり、指先までを包み込む。炉の火のような熱さが男の頬を焼いた。
『命の子と別け隔てなく心を尽くせ。空に上る太陽の光のごとく──』
「いやあ、気っ風の良い坊ちゃんだったね。店の掃除までしてってくれたんだから。他の男も見習ってほしいもんだよ」
計算盤の珠を滑らせるクレアは、上機嫌に店の中を見回した。
レイチェルの腹違いの兄だというルーカス・ゲメッルスの人気は凄まじく、街の男衆が皆集まったような行列が店に押し寄せた。その騒ぎは仕入れた材料が空になるまで続いたが、不思議と目立った混乱は起きなかった。
ルーカスは人々と共に荒れた店内を片付け、手早く彼らを解散させ、レイチェルの言う通り色を付けて支払いを済ませたという。
「そんで、あんたは何をしでかしたんだい」
クレアは、アキが皿を洗いに行った中庭の方を一瞥した。
「……レイチェル様と、エドガー・ゲメッルス様がいらっしゃった。裏口か中庭から忍び込んだのだろう……偶然に、アキはあの方たちと鉢合わせてしまった」
「躾の悪いガキどもだね」
彼女は、厚い掌で陶器を掴み、杯が溢れる寸前まで中のワインを注いだ。
「それで?」
「間近で見たあの方々の目は、アキのものと同じに思えた。お二人も─特にご令嬢はそう確信されたのだろう。父上のご落胤ではないかと疑念を抱いていらした」
「へえ、ご落胤?そりゃあまた、戯曲が一本書けそうな話だね」
「……俺が、神の啓示を受けたと言った日のことを覚えてるか」
クレアはピクリと眉を動かす。彼女は、昔の話をすることを好まない。
「あれは俺に、青い瞳の男児を……息子とわけ隔てなく育てろと……魂の庇護者となれと告げた」
「預言だってなら、とっくに外れてるじゃないか。この16年何事もなかったし、一緒に育てろって言われたあたしらの息子だって……いなくなっちまった。あいつがあの日、奴隷市場にいたのはただの偶然さ」
「……」
「神様が適当なこと言って、あたしらをからかうのはいつものことだろう?」
数ヶ月前、ルイスは顔馴染の奴隷商人に呼び止められた。「人手」が減って困っているだろう、奴隷を雇うのはどうか。他人の悲劇さえ商売の切り口としか考えない姿勢に、南方人というのは皆こうなのかと苛立ちを覚えた。
しかし、市場で裸にされて立つ少年の、その瞳を見て、遠い日の夢幻のような記憶が蘇ったのだ。
年は同じ。背格好も、あなたの息子によく似ている。商人の売り文句は殆ど聞こえなかった。それでも、海を注いだような青から目を離すことが出来なかった。
─お前は、息子の命の親であると同時に、あの男児の魂の庇護者となるのだ。
人手がなく店の経営に支障が出ていたのは事実だった。あの啓示がなくとも、市場にアキがいなくとも、いずれは奴隷を雇っていただろう。
ただ、裸に剥かれ並べられた奴隷の中、選ぶならば彼が良いと思ったのも事実だ。
「大体、あたしにはゲメッルス様とアキの目の色なんて……まあ似てるとは思ったけど、あんまピンと来なかったよ。ウーヌス坊ちゃんほど目が肥えてないからね」
「その呼び方はやめろ。啓示を思い出したことは全ての理由ではない……お前も分かるだろう?アキは、あいつによく……」
「似てない」
ドン、とクレアは空になった杯を強くテーブルに打ち付けた。
16年前。神はルイスに「今日生まれた男児を庇護しろ」と告げた。そして息子が「居なくなって」3ヶ月が経った日、アキはレスタの市場に立っていた。
『あの日、市場で俺を買ったのって、偶然ですよね?』
アキの言葉に返事をすることは出来なかった。
ルイスは胼胝や火傷の目立つ、己の右手に目を落とす。料理をしながら息子を抱くのはいつも左腕だった。この右腕は、未だ子の温もりを知らない。
「あんた、あの子の代わりにするためにアキを買ってきたなんて言うんじゃないだろうね」
「……」
「なんで黙るんだい、言ったろう。似ちゃあいないってね。服だって丈が合わなくて、あたしが直してやったんだ」
「分かっている、クレア。あの子は……アキとは違う」
しかしルイスは、アキに無作法と生意気な態度を許している。あの年頃の子どもに傅かれるのは、あまり気分が良くなかった。
「いっそ、よそに売っちまえば良い。厄介の種になるよ。働きもんなんだから、どこかのお貴族さまが雇ってくれるさ」
クレアは、ルイスの杯に腕を伸ばし、ワインを注ぎ直す。いつの間にか、殆ど飲み干してしまっていた。
「お前も意地の悪いことを言うな。アキがいなければ店が回らない」
「そう割り切っちまえば良いのさ。ただの、あんたの持ちもんだって」
彼女は立ち上がると、廊下へのドアを開けて中庭に声を張り上げた。
「アキ!終わんないなら一回入ってきな!飯が冷えちまうよ」
「えーでも」
「冷えた飯食いたいのかい?違うだろ、ほら早く!」
幾度か呼びかけられ、ようやくアキは「お腹すいたなー」と廊下から顔を出す。
クレアはその頭を乱暴に撫でると、彼を椅子に促した。
「……割り切れてないのは、お前もじゃないか」
食卓を囲んで座った姿は、どこにでもいる自由民の親子のように見えた。




