第百十一話 交わる心
「この辺りの潮風は湿っぽいな」
「潮風なんてみんなそうだろ」
月が上り始めた浜辺を歩きながら、サリオンはすんすんと鼻を鳴らす。徐々に海の方に傾いていくその進路を腕を引いて直してやりつつ、アキは重い足を動かした。
「ハハ、おまえ、そんなに父親に会うのが嫌なのか?まあそういう年頃か」
「そういうことじゃない」
からかうようにニンマリと笑う足元に砂をかけて、アキは頭を掻きむしる。
「おまえ、父親の一番になりたいのか?」
「は!?」
突然の指摘に、ひっくり返った声が口から飛び出した。
「旦那様への質問の意図は、そういうことだろう。ハハハッ」
「……うるさい」
「いや、まあ、わからんでもない」
冷たい水が、足元に寄せては海に返っていく。海と陸との境目が、生まれては消える。
「わたしとて昔は旦那様の一番に、唯一になりたかった。目を病んだ男が主人の庇護なしにどう生きていける。それに人間というのは、誰しもそういう欲求を持っているものだ」
サリオンの告白は堂々としていて、なんの負い目も感じさせなかった。アキと同じような思いを抱いていたというのに、彼はそんな自分を受け入れて、過去のものにしているようだった。
「今は違うのか?」
「サフィエさまにはお嬢さまたちがいらっしゃる。あの方たちを捨て置いて、わたしが一番だと囁いてきたら、お嬢さまたちが哀れでならない。わたしとて、男の身分とはいえおふたりの親だからな」
「……サリオンの一番は?」
「旦那様と対外的には答えるが、実際の答えは無いな。旦那様、お嬢さまたち、自分の親兄弟、誰を一番だと選んでしまえる時点で、それは不健全な考えだ」
「あんたって、けっこうマトモな人間だったんだな」
はじめは、如何にも主人に甘やかされた婿といった印象だったが、彼の言葉には一本曲がらぬ芯が通っていた。それを聞いているうちに、アキの凝り固まって歪んでしまったものが、少しだけ正されたような心地を覚える。
このために、サフィエはサリオンを連れて行くように言ったのかと、ぼんやりと思った。
「当たり前だろう。旦那様とお嬢さまが、わたしをそういう人間にしてくださった。人は誰かの力を借りて初めて、人として生きられる」
言葉の真意は分からなかったが、その短い言葉には、彼の長い物語が秘められているようだった。
やがて、浜辺の近くに小屋が建っているのが見えてくる。今にも風で飛ばされそうな、腐りかけの板を打ち付けただけのそれもまた、記憶から少しも変わっていなかった。
「あれが俺の家」
「あれと言われても困るが。着いたなら早く済ませよう」
「そっちじゃない、左、左」
適当に進み出すサリオンを制していると、歪んだ扉が内側から開かれた。人目を避けているのか、ランプすら灯していない暗闇の奥に、ラムフィスの顔が浮かぶ。
『アクィルス……と』
『やあ、わたしの名はサリオン!麗しき我が旦那様の寵愛著しい……』
『あの商人の女の人がいただろ、その人の婿だよ』
『おまえがアーザクについて何やら訳知りだというのでな、話を聞かせてもらいに来たんだが……』
サリオンは手探りでアクィルスの肩を引き寄せると、ラムフィスの方へ突き出した。
『本題に入る前に、おまえこいつの親なんだろう』
『『え?』』
ふたりの声がピタリと重なる。
『え、じゃない。こいつは突然家出して、連絡もよこさず、何ヶ月も経ってケロッと戻ってきたんだろう。そういうとき、親なら言うべきことがあるはずだ』
『……そ、それは』
『サリオン、そういうの良いから』
『子どもには聞いてない』
ラムフィスはしばらく視線を彷徨わせたあと、やがておずおずと口を開く。
『アクィルスが出ていったのは、僕─私が至らないせいですので……その、あまり良い親とは言えませんし、何よりこの子は、私の敬愛する女性の忘れ形見で─』
『おまえは良い親どころか親でもない。男も女も、種を撒いただけで、腹を痛めただけで親になれるわけではない。おまえは意気地のない種馬だ』
『………そ、それは』
『もう一度だけ聞いてやる。何か、お前の息子に言うべきことはないのか?』
永遠のような沈黙の中、波がざわめく音だけが耳を掠めていく。アキは逃げるように後ずさろうとしたが、真後ろに立っていたサリオンにぶつかってよろめいた。
『……し、んぱい、していました』
かすれた声が絞り出された。
『朝目覚めて、息子が居なかったとき、心臓が止まるような心地がしました。村中に聞いて回って、近くの村でも尋ねて、結局行き先は分からず、それからはずっと、医術神に無事を祈っておりました……金もツテもない私には、そうすることしか出来ず……』
『ではどうして、そう言ってやらない』
『……あなたの言うとおり、私は……親と言えるようなことは……』
『ふぅん。わたしはこいつに、お前を父親だと、唯一の肉親だと紹介されたが、聞き間違いだったらしい』
ラムフィスはハッと顔を上げた。生まれてはじめて知る事実を突き付けられたような、そんなことまったく予想もしていなかったと言いたげな表情で。
『……聞き間違いじゃない』
アキはポツリと言った。今言わなければ、二度と機会はないと思った。
『父さん、俺は……』
『みなまで息子に言わせる気か』
サリオンがアキを制する。
『ぐちぐちと言い訳をしているが、本当は分かっているのだろう。おまえの息子が、どんな言葉を求めているか。そうでないのなら、おまえは本当に親ではなくなるぞ』
それは鞭のような言葉だった。ラムフィスは肩をびくりと跳ね上げて、口を動かしたあと、意を決したように震える息を吐く。
『……待ってくれ、アクィルス』
彼はアキを遮り、恐る恐るといった様子でその肩に手を置く。
『その、アクィルス、本当は心配していた。ずっと。会った瞬間にそういうべきだった……すまない。顔を合わせた途端、うまく話せなくなってしまって、酷い態度を取ったように見えたろう』
口下手で、要領を得ない話し方は相変わらずだったが、黒い瞳はアキの目に浮かぶ青をしっかりと覗いていた。いや、青をこえて、アキの芯を捉えているようにも思えた。
『……何も言ってこないから、父さんは俺のことなんてどうでもいいんだって思ったよ』
『……そんなはずはない』
肩の腕がゆっくりと、壊れ物を触るように背中に回っていく。父に抱き締められたのは、幼い頃以来だ。ルイスよりも、クレアよりもずっと弱々しく頼りないが、暖かさは同じだった。
『心配した……とても』
『それだけ?』
『……父さんは酷い親だと思うけれど、悩んでいたなら相談してほしかった。いや、相談させなかったのは父さんの態度のせいだな。本当に、本当にすまなかった』
サリオンがゆっくりと小屋を離れていくのが、視界の端に見えた。
人は、誰かの力を借りてはじめて人として生きられる。その言葉が正しいのならば、対話こそが、ふたりを人として親子として形作るのかもしれない。少なくともアキは、生まれて初めて父親と会話したような感覚を覚えた。
『……父さんは、いつも俺と母さんを重ねてた。それが嫌だった。俺には父さんしか居なかったから……捨てられたら、他に何も無くなると思って』
『父さんが、お前を捨てるだなんて、そんなことあるはずないだろう』
『じゃあそう言えよ!』
アキは初めて、父を怒鳴った。
『寝ても覚めても、母さん母さん母さんの話ばっかりで、一回くらい、さすがは自分の息子だとか言えないのかよ』
『……そう、思ってたのか?』
『当たり前だろ。だって、母さんなんて顔も知らないし、知らない人に似てて凄いだのなんだの言われても意味分かんねえし。俺は!あんたの息子なんだよ!あんたはそう思ってないかもしれないけど!』
ヤケクソになって捲し立てる。荒い息をついて顔を背け、アキはラムフィスの言葉を待つ。
『……お前の母さんは』
『またその話?』
『違う。違わないけれど─僕は幸運によって彼女と出会い、そしてお前が生まれた。とても嬉しかったよ。同時に申し訳ないとも思った。学も家柄もない自分が、あの人の運命を縛ってしまった気がして。お前に対しても同じだ……父さんの勝手で、ここに連れてきてしまったから』
それはあまりにも不器用で、自信のない、父らしい言葉だった。彼はいつも自分を卑下していた。しかしそれはアキも同じだ。ふたりは、酷く似ている。
『だから、知らないって言ったろ。俺には、今この人生が全てなんだ』
この寂れた小屋が、ふたりきりの生活が、アキの世界の全てだった。幸いも不幸も、この場所にあった。他の人生を生きることは出来ない。運命の道を後戻りすることも出来ない。ただ彼は、父と共に少しでも幸福に生きていたかった。
『俺のことを、家族だって言ってくれる人たちがいる。友達もできた。でもやっぱり、父さんを忘れて、何もなかったように新しい人生を始めるのは無理なんだよ』
この世には、決して歩み寄ることのできない家族もいるだろう。同じ血が必ずしも魂を通わせるとは限らない。しかしそれでもアキは、父と対話をしたかった。自分が知る、心を通わせあった親子たちのように。
『……父さんは、俺がいなくても、むしろいないほうが─新しい人生を始められるのか?』
『ば、馬鹿を言わないでくれ。父さんは、お前の親……って名乗るには情けない男だけど、でも、お前がそう呼んでくれるから……応えたい。応えさせてくれ。アクィルス、父さんをお前の親にしてくれるか?』
『……だから、いちいちお伺いたてる癖やめろって』
アキは父の肩を叩いた。
『ずっと、ずっとそうだよ。そうじゃなかったときなんて、一度もない』




