第百十話 交わらぬ水Ⅱ
夕刻、村の端にある空き家を使う許可を得たアキたちは、持参した絨毯を敷いたり、埃を掃除したりと、数日の間は滞在できるように準備を整えていた。
「サリオン、お前絶対ひとりで外を歩くなよ。歩いたら耳も潰してやるからな」
「こっわぁ、そんなこと言っちゃだめですよ」
壁に背を預けるサリオンは、主人とレーネのやり取りを完全に慣れきった態度で聞き流している。迫害を受けるョグレの村では、他所の男から子種をもらってくるということもままならない。先細って滅んでいくだけの村の中、子孫を増やしたいと望む者たちが常軌を逸した行動に出る可能性はあった。
アキも、混血という身の上でなければ、とっくに村の女と結婚し、他の女とも夜な夜な床を共にすることを強いられていただろう。
「まったく、この村はどこもかしこも黴が生えたような場所だな。あの老いぼれのような輩が、オーガスタスを小僧と侮ってアステリを滅ぼしたのだろうよ」
「そういえば、アステリってなんで滅んじゃったんですか?」
床に敷いてあった布をカーテン代わりに窓に張りながら、レーネが問う。無知ゆえの無遠慮な質問に、不機嫌なサフィエは舌打ちで答えた。
「負けたからだ」
「それはうちもそうですけど、アステリって国も大きいし、食料も沢山ありそうだし、人も多いし、魔法も得意だし、なんで負けたんだろ〜と思って」
「……さっきも言ったろう、驕りさ」
サフィエは麦酒の瓶をひとつ手に取ると、それをサリオンに手渡してやった。
「都市国家時代を合わせ、アステリには5000年の歴史があった。人々はそれを誇りに思い、同時に驕っていたのさ。ここは比類なき世界一の大国だと。それ故に、ローランの共和制崩壊と、独裁者の誕生にすら無頓着だった。最初の独裁者ガーダ・テラが5年もたたずに議員たちによって暗殺されたのも、それを助長しただろうな。しかしその後継者、20年ぽっちしか生きていない若造が、とんでもない狼だったわけだ」
彼女は、自らもまた麦酒に口をつけ、深く息を吐く。
「それまでのローランの男は、エイレーネーがその美貌と教養で愛を囁くだけで籠絡されていった。しかしオーガスタスは違う。あれは情欲を完璧に律することのできる男だったし、何より─愛妻家?というんだったか。そういう類の人間だった。エイレーネーがどれだけ言葉を紡いでも、心底面倒臭そうに頬杖をついていたそうだ」
「……そういえば、神君はひどく冷徹な人間だったが、母后様の説得で捕虜を解放することも多かったと言うな」
アイロンがけを眺めていたレジナルドが顔を上げた。
母后リーリア。神君オーガスタスの愛は、生涯彼女に注がれた。彼は妻の冗談にだけ笑みを見せ、妻の懇願のみを聞き入れたという。
そんな男が敵に回った時点で、アステリ、そしてエイレーネーの運命は決まっていたのかもしれない。
「リーリアの人望は、オーガスタスのもとに良い部下が集まる切っ掛けにもなったらしい。名軍師、用兵の名手、無名の若造はそういった者たちを従えて、アステリに攻め込んだ。エイレーネーは、オーガスタスの政敵であった執政官のデズモンド・ルーファと手を組みそれを迎え撃ったが、まあ結果は知っての通りだ。戦で負けた要因は色々あるが、ひとつは各地の貴族が非協力的だったことだろうな」
「ええ、国の危機なのに?」
「ああ。アステリは魔法戦に長けるが、近接戦になればローランに劣る。当然だ、兵は女ばかりだからな。エイレーネーはそれを見越して各地に男を徴兵するよう命じたが、高官や市民の大反対によって成し得なかった。まさかアステリの魔法兵が破られるとは思っていなかったし、男が死んでしまったら、勝っても負けても家は滅んでしまう」
男女の生まれる比率の偏り。それはアステリの致命的な弱点だった。しかし貴族たちは、5000年の歴史の中でその原因を探ったり、改善しようと試みたりすることはなかったのだ。
上流階級では、女に生まれたならば富と権力を我が物にすることができ、男に生まれたならば宝飾品のように丁重に扱われて安穏と生きることができる。永遠の繁栄を疑う者はなく、彼らは己の世界の平和を享受し続けた。
「その結果が、滅亡だ。誰がどう足掻いても何かを変えることは難しかったかもしれない。だだ足掻きもしなかったことが不愉快だ。エイレーネー女王は、最期までアステリという国のために戦い続けたというのに」
サフィエの瞳がふと壁越しに遠くを見た。その方角には、いつも父とともに眺めた荒野がある。荒野の遠く遠く向こうには、エイレーネー女王の霊廟が建立されているそうだ。
「女王は完全無欠の名君というわけではなかったが、勇敢で思慮深い王だった。周りの高官共は、彼女の言葉を思い過ごしだ考え過ぎだと一蹴していたそうだがな」
それはアステリ出身のアキですら初めて聞くような話だった。彼が知るのは、エイレーネーが名君であったこと、最期は捕虜として鎖に繋がれて歩くことを拒み、神君オーガスタスを出し抜いて自害したこと、その程度だ。
「サフィエ様は何で、そんなに王宮の事情?に詳しいんですか?」
アキが尋ねると、彼女は突然立ち上がり、右足を引いて空の酒瓶をサリオンに突き付けた。
「おのれカーラー!貴様、偉大なるローランに、我らが主君オーガスタスに、よくも仇をなしたな!」
「……え?」
「“眠る女王、数多輝く星々の子”という叙事詩の一節だな。神君は凱旋行進の折に女王を鎖に繋いで歩かせようとしたが、彼女はそれを拒んで自害した。異変を察知した見張りの兵士が踏み込んだ頃には女王の息は無く、彼らは女王に殉じ瀕死の状態だった侍女カーラーにそう叫んだ、といった場面だったと思う」
「ふ、レジー坊やは教養豊かだな。奴隷に叙事詩を読み聞かせるとはサイラス殿らしい」
サフィエはくるりと酒瓶を回し、今度はそれで自分を指し示した。
「その侍女が私の母だ。私も幼い頃は王宮で学んでいた」
「本当に?」
「勿論。母は、女王陛下の最も忠実な臣下だった。そんな母を見て育ったからこそ、私は閉鎖的で保守的な老いぼれが嫌いなんだよ」
サフィエの意外な素性に、サリオン以外はしばらく開いた口が塞がらなかった。
やがて好奇心旺盛なレーネがあれこれと質問をして、彼女がそれに答えていく。その隙間を縫うように、アキはポツリと呟いた。
「でも、嫌じゃなかったんですか?」
「なにがだ?」
「サフィエ様のお母様は、その、家族を置いて女王と亡くなったから……なんていうか……」
「お前ぇ、ローラン語が下手なんだからアステリ語で話したらどうだ?」
サリオンがけらけらと笑う。ローラン語なら無遠慮でも明け透けでも許されるかもしれないが、母語では言い訳できない。それは勇気のいることだったが、アキはしばしの葛藤の後に言葉を続けた。
『……自分より、女王陛下を取ったんだと、お思いになったことはありませんか?』
『…………』
意外な質問だったのか、サフィエの返答には間があった。ややあって彼女は、堂々と腕を組んで首を振った。
『ない』
『……そう、ですか』
『当然だろう、お前以外はすべてどうでも良いと投げ出してしまうことだけが愛ではない。母は女王に殉じたが、私を親として真っ当に愛していた』
親として真っ当に愛する、というのはどのようなことなのか、アキには分からなかった。分からないまま、父との約束の時が迫りつつあった。
「日が沈んだな。アクィルスよ、父親に呼び出されたんだろう、そろそろ向かっておくと良い」
「……はい」
煮えきらない態度のアキを友人ふたりは気遣い、サフィエはため息をつく。彼女は部屋の隅で金を勘定していた婿の名を呼んだ。
「サリオン!お前が着いていってやれ」
「外に出て良いのですか?」
「お前は交渉上手だし、良い意味で遠慮がないし、何よりアステリ人だ。ただアクィルスから決して離れるなよ、それと、万が一のことがあったら死ぬ覚悟はしておけ」
「アクィルス、わたしの服を掴んで離さないでおいてくれ」
いつになく必死な調子のサリオンを、アキは適当にあしらった。
『アクィルス、お前は母さんによく似ているね』
ラムフィスは何も変わっていなかった。
もういっそ、縁を切ってしまおうか、マンティの話をして、家族として自分を愛してくれる大切な人がいて、もう父親の愛など必要ないのだと、言い切ってしまおうか─ラムフィスと目があった瞬間も、そんな考えが脳裏をよぎったはずなのに、結局は何も言えなかった。




