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黎明は夜より出でて  作者: 伊勢谷照
第10章【荒野の王国】

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第百九話 交わらぬ水Ⅰ


いかにも凡庸な田舎の漁師といった出で立ちの男は、外套を目深に被ったアキを視線におさめると、じっと動きを止めた。


「知ってる人?あ、村の人なんだから知り合いかぁ」


あまりにも共通点のない外見のせいで、レーネはは彼とアキの気付いていないようだった。


「……ああ、まあ」

「なんていう人?」

「……ラムフィス。神に仕える……とか、そんな意味。こんな田舎で大層な名前だよな」


父方の祖父母は、アキが生まれた頃には世を去っていたが、恐らく彼らもまた、貧しい漁師の夫婦だったのだろう。身寄りを亡くしたラムフィスは生計を立てるために、ローランへ出稼ぎに向かった。それがすべての始まりだった。

彼はそこでミレイと出会い、そして─


「良い名前じゃん。あのひと、アキって気付いてるのかな?」


黒い瞳は暫くの間、アキに注がれていた。何かを探るように、外套の中を確認しようとするように、その頭が動く。

彼は気が付いているのだろうか。それとも、単に余所者が珍しくて眺めているだけなのだろうか。心臓が痛いほどに鼓動して、口の中がカラカラに乾いていった。


「……」

「すみませ〜ん!」


硬直するアキを置いて、レーネはなんとラムフィスに駆け寄った。


「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

『?』

「ああ、わたしレーネです!レーネ!」

『レーネ?』

「そう!あなたは?」

『……ラムフィス』

「ラムフィスさん!質問してもいいですか?」


レーネは身振り手振りをまじえながら、ローラン語で果敢に会話を試みる。人見知りの父は、突然異国の娘が声をかけてきたことに、すっかり困り果てていた。


「れ、レーネ」


アキも彼女を追い、浜辺に向かって走る。

青い海が広がる白い浜、小さな漁船がいくつか停泊するだけの寂れた場所は、出ていった頃と何も変わっていない。そこに立つ、父も。


「アキ、ラムフィスさんにあのお魚のこと聞いても大丈夫かな?」


“アキ”─レーネが彼をそう呼んだとき、ラムフィスはひゅっと息を呑んだ。


『アクィルス……?やっぱり、そうなのか?』


野暮ったいアステリ語も、自信のなさが表れた口調も、記憶と寸分違わず同じだった。


『……アクィルス、その……何と言ったら良いのか……ああ、ええと……』

『何も言わなくていい』


辿々しい言葉の続きを聞きたくなくて、強引に遮ってしまう。今すぐここから逃げ出したいのに、足が砂浜に貼り付いて動かなかった。


『俺は帰ってきたわけじゃない。ただ、ここでやることがあるだけ』

『……そ、そうか』


自分で突き放しておいて、アキはラムフィスに苛立ちを覚えた。

なんで勝手に家を出たんだ、どこで何をしていた、心配した─思い描いていた言葉を、父はひとつも発しなかった。


『……あのさ、父さ─あんたって、いつも村の連中から離れて漁してるだろ』


マンティの匂いが、ルイスとクレアの顔が浮かんだ。ヒルデがうまく説明してくれているとは思うが、彼らは心配してるだろう。早くふたりのところに帰りたかった。

だから、本題について話さなければならない。


『……え、ああ。避けられてるからね』

『あんたの網にもさ、引っかかってたの?アーザクって』


その名を出した途端、ラムフィスはぎょっとして周囲を見回した。そして、口元覆いながら声をひそめる。


『な、なぜそんな話を……』

『アーザクについて調べに来たから。それが終わったら帰る』

『……帰る、か。その、さっきの商人に雇われてるのか?それに、そちらのお嬢さんは……』 

『教えられないなら、他をあたる』


話しながら、アキはどんどん苛立っていった。父に、そして自分に。


『……いや、話す、話すけど……僕に話せる範囲ならね。でも、ここでは無理だ。そうだな、夜にでも小屋に来てもらえれば』

『分かった』

「アキ、もしかして喧嘩してる?」

「してない」


レーネはただならぬ空気を感じ取ったのか、不思議そうに尋ねてくる。彼女はそのまま「そういえばアキのお父さんって……」と呟き、やがて勢いよくラムフィスの顔を見た。


「あっ、そういうことぉ」

「……お前、なんでこういうときだけ察し良いんだよ。とにかく、夜に小屋に来いってさ」

「アキってお父さんに会いに来たんじゃないの?」

「違う」


アキはラムフィスに背を向け、あてもなく浜辺を反対方向に歩き出す。今度はレーネが彼の後を追う番だった。


「ねえ、何か酷いことでも言われたの?」

「何も」


何も言われていないから、アキは苛立っているのだ。




『アーザク?』


屋敷に通され、ソファに座ったサフィエは、挨拶もそこそこに本題を切り出した。傍らでは、サリオンが焚かれた香を物珍しげに嗅いでいる。

アーザクの名を出すと、サリーマだけではなく麦酒を振る舞う使用人も、彼らに対して鋭い警戒心をまとった視線を向けた。


『なんでも、遅効性の毒を持つ魚だとか。古今東西、毒というのは一定の価値を以て取引される品です。是非とも、私はアーザクを手に入れたい』

『……なんのことやら』

『シラを切る必要はありません。近隣の村で聞き込みは済ませました。ョグレの村は随分と忌み嫌われているようですね。おぞましい毒魚の棲む呪われた土地だと。だからこそ私は取引を持ちかけているのですよ。呪いを金銀の鉱脈に変える機会を逃す手はないでしょう』


サフィエはベルトに下げていた革袋を手に取ると、その中身をテーブルにばら撒いた。カーテンの隙間から差す陽光に照らされた金貨は、テーブルをコロコロと転がっていく。


『……近頃の若い女は、礼儀も分別も弁えていないようですね』


サリーマは目を細め、転がった金貨をサフィエの方に滑らせた。老いと病に冒された指先は震えていたが、動きに迷いはない。


『私はョグレの村長です。村人たちの平穏のために尽くす義務がある。そのために、あのおぞましい呪いをこの地に封じております』

『黙って隠していれば、何事もなく日々が過ぎると?ハハ、保守的な考えに逃げるのは老いぼれの悪い癖だな』 


サフィエは敬語をやめると、テーブルを強く叩いた。音に驚いたサリオンが、びくりと身体を跳ねさせる。


『もう遅いんだよ、村長。呪いはもう広がっている』

『……何が言いたいのです?』

執政官コンスルゲイル・セレの死については聞き及んでいるか?あれは死の間際、激しい手足の痛みと麻痺、腎不全の症状に苦しんでいた』


皺に埋もれた目が見開かれた。


『嘘だと一蹴して、私達を追い返すならそれも良い。しかし、偉大なる国家の太陽を沈めたものが真にアーザクであると証明されれば、この村の者はただでは済まないだろうな』

『……まさか、アーザクが外部に持ち出されるなど、ありえません』

『ありえない、ね。神君オーガスタスがアステリに宣戦布告したときも、皆そう言った。たかが700年と少しの歴史しかない国に、たかが30年しか生きていない若造に、アステリが敗北するはずがないと』


しかしアステリは滅んだ。エイレーネーは死に、国の名は失われ、人々は女王の臣民ではなくローランの属州民となった。


『オーガスタスは寛容な君主だった。彼の予言によって、我々の言葉や文化はこうして守られている。そして此度はテオドールの慈悲に期待するか?』

『……』


サリーマは杖を握りしめ、麦酒を数口呑み込んだ。


『……皇帝は、執政官の死の原因があの忌まわしい生き物にあると、そう思っているのですか?』

『皇帝の意見までは知らんが、セレ氏族の間ではその疑いが強まっている。つまりあなた方は容疑者だ。国家の太陽を沈めた大罪人とみなされる可能性がある。それを踏まえた上で考えれば……何か話すべきことがあるんじゃないか?』


この村の人間しか知り得ない毒でゲイルが殺害された。噂が出回れば、数日中に村には駐屯軍や開拓民が暴徒となって押し寄せ、殺戮と略奪の限りを尽くすだろう。


『……』


杖を握るサリーマの手に筋が浮く。軋むような音を立てるそれを突いて、彼女はゆっくりと立ち上がった。


『……アーザクについて知ることは、決して不可能ではないでしょう。現に、近隣の村でも噂程度は伝わっているのですから』

『そうだろうな』

『しかしこの村に赴き、直接それを尋ねてきた者は、私が知る限り居ません。居ませんが……疑わしき者ならばふたりほど』

『誰だ?』

『ひとりは、この村に住んでいた少年です。村の男がローラン女と作った子どもで、出稼ぎから戻った折に連れて帰って来た者です。しかし数ヶ月前に出奔して─』


アクィルスのことだとすぐに分かった。毒殺犯として余所者に名前を出されてしまう程度には、この村では鼻つまみ者だったらしい。


『もうひとりは?』

『6月にここを訪れた女です。あなたと同じように、行商人を名乗っていました』


若い女。それはサリオンに毒について尋ねてきた者の特徴と合致する。


『人種は?』

『さあ、余所者の違いは分かりません』

『何をしにここに?』

『あなたと同じように行商人を名乗りましたよ。髪飾りや指輪などを村人に売ろうとしたり、この辺りの貝や珊瑚を加工用に集めて、半月とたたず去っていきました。いくら出ていけと追い立てても眉一つ動かさず、無作法な者でしたよ』


半月。それだけ滞在していれば、いくら狭い村とはいえ、人目を避けてアーザクを探すことは不可能ではないだろう。


『その女について、村人に尋ねて回っても良いか?』

『……駄目だと言っても、勝手に振る舞うのでしょう。一介の商人が何を企んでいるのかは知りませんが─』

『サリオン、行くぞ』


大人しく座っていた婿の手を掴んで立たせると、サリーマが口を開いた。


『良い婿ですね。従順で、美しい。それに盲目というのも、偉大なるレキ神を思わせます。あなたのような無作法者には勿体ない』

『は?サリオン、お前この老いぼれに色目でも使ったか?』

『えっ、いや、いや、まったく!』

『サリーマ殿、村の女どもによく言い聞かせておいてくれ。このサリオンに声をかけたら次にアーザクの餌食となるのはそいつだとな』


歯を剥き出したサフィエの言葉に、サリーマは溜息混じりに頷く。労うような視線がサリオンに向いたが、彼には届くことがなかった。


『……わたし、生きて帰れるだろうか』


彼は引きずられるように部屋を後にしながら、額を手で押さえた。




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