第百九話 交わらぬ水Ⅰ
いかにも凡庸な田舎の漁師といった出で立ちの男は、外套を目深に被ったアキを視線におさめると、じっと動きを止めた。
「知ってる人?あ、村の人なんだから知り合いかぁ」
あまりにも共通点のない外見のせいで、レーネはは彼とアキの気付いていないようだった。
「……ああ、まあ」
「なんていう人?」
「……ラムフィス。神に仕える……とか、そんな意味。こんな田舎で大層な名前だよな」
父方の祖父母は、アキが生まれた頃には世を去っていたが、恐らく彼らもまた、貧しい漁師の夫婦だったのだろう。身寄りを亡くしたラムフィスは生計を立てるために、ローランへ出稼ぎに向かった。それがすべての始まりだった。
彼はそこでミレイと出会い、そして─
「良い名前じゃん。あのひと、アキって気付いてるのかな?」
黒い瞳は暫くの間、アキに注がれていた。何かを探るように、外套の中を確認しようとするように、その頭が動く。
彼は気が付いているのだろうか。それとも、単に余所者が珍しくて眺めているだけなのだろうか。心臓が痛いほどに鼓動して、口の中がカラカラに乾いていった。
「……」
「すみませ〜ん!」
硬直するアキを置いて、レーネはなんとラムフィスに駆け寄った。
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
『?』
「ああ、わたしレーネです!レーネ!」
『レーネ?』
「そう!あなたは?」
『……ラムフィス』
「ラムフィスさん!質問してもいいですか?」
レーネは身振り手振りをまじえながら、ローラン語で果敢に会話を試みる。人見知りの父は、突然異国の娘が声をかけてきたことに、すっかり困り果てていた。
「れ、レーネ」
アキも彼女を追い、浜辺に向かって走る。
青い海が広がる白い浜、小さな漁船がいくつか停泊するだけの寂れた場所は、出ていった頃と何も変わっていない。そこに立つ、父も。
「アキ、ラムフィスさんにあのお魚のこと聞いても大丈夫かな?」
“アキ”─レーネが彼をそう呼んだとき、ラムフィスはひゅっと息を呑んだ。
『アクィルス……?やっぱり、そうなのか?』
野暮ったいアステリ語も、自信のなさが表れた口調も、記憶と寸分違わず同じだった。
『……アクィルス、その……何と言ったら良いのか……ああ、ええと……』
『何も言わなくていい』
辿々しい言葉の続きを聞きたくなくて、強引に遮ってしまう。今すぐここから逃げ出したいのに、足が砂浜に貼り付いて動かなかった。
『俺は帰ってきたわけじゃない。ただ、ここでやることがあるだけ』
『……そ、そうか』
自分で突き放しておいて、アキはラムフィスに苛立ちを覚えた。
なんで勝手に家を出たんだ、どこで何をしていた、心配した─思い描いていた言葉を、父はひとつも発しなかった。
『……あのさ、父さ─あんたって、いつも村の連中から離れて漁してるだろ』
マンティの匂いが、ルイスとクレアの顔が浮かんだ。ヒルデがうまく説明してくれているとは思うが、彼らは心配してるだろう。早くふたりのところに帰りたかった。
だから、本題について話さなければならない。
『……え、ああ。避けられてるからね』
『あんたの網にもさ、引っかかってたの?アーザクって』
その名を出した途端、ラムフィスはぎょっとして周囲を見回した。そして、口元覆いながら声をひそめる。
『な、なぜそんな話を……』
『アーザクについて調べに来たから。それが終わったら帰る』
『……帰る、か。その、さっきの商人に雇われてるのか?それに、そちらのお嬢さんは……』
『教えられないなら、他をあたる』
話しながら、アキはどんどん苛立っていった。父に、そして自分に。
『……いや、話す、話すけど……僕に話せる範囲ならね。でも、ここでは無理だ。そうだな、夜にでも小屋に来てもらえれば』
『分かった』
「アキ、もしかして喧嘩してる?」
「してない」
レーネはただならぬ空気を感じ取ったのか、不思議そうに尋ねてくる。彼女はそのまま「そういえばアキのお父さんって……」と呟き、やがて勢いよくラムフィスの顔を見た。
「あっ、そういうことぉ」
「……お前、なんでこういうときだけ察し良いんだよ。とにかく、夜に小屋に来いってさ」
「アキってお父さんに会いに来たんじゃないの?」
「違う」
アキはラムフィスに背を向け、あてもなく浜辺を反対方向に歩き出す。今度はレーネが彼の後を追う番だった。
「ねえ、何か酷いことでも言われたの?」
「何も」
何も言われていないから、アキは苛立っているのだ。
『アーザク?』
屋敷に通され、ソファに座ったサフィエは、挨拶もそこそこに本題を切り出した。傍らでは、サリオンが焚かれた香を物珍しげに嗅いでいる。
アーザクの名を出すと、サリーマだけではなく麦酒を振る舞う使用人も、彼らに対して鋭い警戒心をまとった視線を向けた。
『なんでも、遅効性の毒を持つ魚だとか。古今東西、毒というのは一定の価値を以て取引される品です。是非とも、私はアーザクを手に入れたい』
『……なんのことやら』
『シラを切る必要はありません。近隣の村で聞き込みは済ませました。ョグレの村は随分と忌み嫌われているようですね。おぞましい毒魚の棲む呪われた土地だと。だからこそ私は取引を持ちかけているのですよ。呪いを金銀の鉱脈に変える機会を逃す手はないでしょう』
サフィエはベルトに下げていた革袋を手に取ると、その中身をテーブルにばら撒いた。カーテンの隙間から差す陽光に照らされた金貨は、テーブルをコロコロと転がっていく。
『……近頃の若い女は、礼儀も分別も弁えていないようですね』
サリーマは目を細め、転がった金貨をサフィエの方に滑らせた。老いと病に冒された指先は震えていたが、動きに迷いはない。
『私はョグレの村長です。村人たちの平穏のために尽くす義務がある。そのために、あのおぞましい呪いをこの地に封じております』
『黙って隠していれば、何事もなく日々が過ぎると?ハハ、保守的な考えに逃げるのは老いぼれの悪い癖だな』
サフィエは敬語をやめると、テーブルを強く叩いた。音に驚いたサリオンが、びくりと身体を跳ねさせる。
『もう遅いんだよ、村長。呪いはもう広がっている』
『……何が言いたいのです?』
『執政官ゲイル・セレの死については聞き及んでいるか?あれは死の間際、激しい手足の痛みと麻痺、腎不全の症状に苦しんでいた』
皺に埋もれた目が見開かれた。
『嘘だと一蹴して、私達を追い返すならそれも良い。しかし、偉大なる国家の太陽を沈めたものが真にアーザクであると証明されれば、この村の者はただでは済まないだろうな』
『……まさか、アーザクが外部に持ち出されるなど、ありえません』
『ありえない、ね。神君オーガスタスがアステリに宣戦布告したときも、皆そう言った。たかが700年と少しの歴史しかない国に、たかが30年しか生きていない若造に、アステリが敗北するはずがないと』
しかしアステリは滅んだ。エイレーネーは死に、国の名は失われ、人々は女王の臣民ではなくローランの属州民となった。
『オーガスタスは寛容な君主だった。彼の予言によって、我々の言葉や文化はこうして守られている。そして此度はテオドールの慈悲に期待するか?』
『……』
サリーマは杖を握りしめ、麦酒を数口呑み込んだ。
『……皇帝は、執政官の死の原因があの忌まわしい生き物にあると、そう思っているのですか?』
『皇帝の意見までは知らんが、セレ氏族の間ではその疑いが強まっている。つまりあなた方は容疑者だ。国家の太陽を沈めた大罪人とみなされる可能性がある。それを踏まえた上で考えれば……何か話すべきことがあるんじゃないか?』
この村の人間しか知り得ない毒でゲイルが殺害された。噂が出回れば、数日中に村には駐屯軍や開拓民が暴徒となって押し寄せ、殺戮と略奪の限りを尽くすだろう。
『……』
杖を握るサリーマの手に筋が浮く。軋むような音を立てるそれを突いて、彼女はゆっくりと立ち上がった。
『……アーザクについて知ることは、決して不可能ではないでしょう。現に、近隣の村でも噂程度は伝わっているのですから』
『そうだろうな』
『しかしこの村に赴き、直接それを尋ねてきた者は、私が知る限り居ません。居ませんが……疑わしき者ならばふたりほど』
『誰だ?』
『ひとりは、この村に住んでいた少年です。村の男がローラン女と作った子どもで、出稼ぎから戻った折に連れて帰って来た者です。しかし数ヶ月前に出奔して─』
アクィルスのことだとすぐに分かった。毒殺犯として余所者に名前を出されてしまう程度には、この村では鼻つまみ者だったらしい。
『もうひとりは?』
『6月にここを訪れた女です。あなたと同じように、行商人を名乗っていました』
若い女。それはサリオンに毒について尋ねてきた者の特徴と合致する。
『人種は?』
『さあ、余所者の違いは分かりません』
『何をしにここに?』
『あなたと同じように行商人を名乗りましたよ。髪飾りや指輪などを村人に売ろうとしたり、この辺りの貝や珊瑚を加工用に集めて、半月とたたず去っていきました。いくら出ていけと追い立てても眉一つ動かさず、無作法な者でしたよ』
半月。それだけ滞在していれば、いくら狭い村とはいえ、人目を避けてアーザクを探すことは不可能ではないだろう。
『その女について、村人に尋ねて回っても良いか?』
『……駄目だと言っても、勝手に振る舞うのでしょう。一介の商人が何を企んでいるのかは知りませんが─』
『サリオン、行くぞ』
大人しく座っていた婿の手を掴んで立たせると、サリーマが口を開いた。
『良い婿ですね。従順で、美しい。それに盲目というのも、偉大なるレキ神を思わせます。あなたのような無作法者には勿体ない』
『は?サリオン、お前この老いぼれに色目でも使ったか?』
『えっ、いや、いや、まったく!』
『サリーマ殿、村の女どもによく言い聞かせておいてくれ。このサリオンに声をかけたら次にアーザクの餌食となるのはそいつだとな』
歯を剥き出したサフィエの言葉に、サリーマは溜息混じりに頷く。労うような視線がサリオンに向いたが、彼には届くことがなかった。
『……わたし、生きて帰れるだろうか』
彼は引きずられるように部屋を後にしながら、額を手で押さえた。




