第百七話 帰郷
「ョグレ?」
まだ夜の寒さが残る早朝、サフィエが操るラクダが荷馬車を引いて街を出る。アキたち3人はラクダの傍らを歩き、サリオンは荷馬車の縁に腰掛けていた。
「ふうん、聞いたことのない地名だな。一体どんな辺鄙な田舎なんだ?」
相変わらず綺羅びやかな衣装に身を包んだ彼は、荷馬車の中から手探りでパピルスの巻物を引っ張り出す。
「ほら、多分地図」
「どうも。多分載ってないと思うけどな。昔から忌み地扱いだったし……」
「それって、そのアーザクのせい?」
「ああ。気味悪い生き物が住んでる、呪われた土地っていわれてたから」
革紐を解き、パピルスを広げる。そこにはこの辺りの詳細な地図が描かれているが、海沿いを東に向けて歩いた先にあるはずの、小さな漁村の名は記されていなかった。
「やっぱ書いてない。この辺にあるんだけどな」
「背後は山か。地形も閉鎖性に一役買っているのだな」
「ひとつ疑問なんだが─」
地図を眺める3人を、サフィエがちらりと振り返る。刃物のような視線はレジナルドに注がれていた。
「レジナルドと言ったか。奴隷にしては随分と所作も言葉遣いもお上品だが、それはサイラス殿の教育の賜物か?」
「そ……」
「はい、その通りです!旦那様はレジー……くんを子どもみたいに可愛がっているので!」
レーネが反射的に誤魔化しを口にする。
「ふうん、アレの一番のお気に入りは、随分な無作法者だったと記憶しているが……もしや隠し子か?」
「父う……我が旦那様は、奴隷に手をつけるようなお方ではない」
「潔癖だな。奴隷と寝るなんて小便をするようなものだろう」
「旦那様?!わたしのことはあれだけ束縛しておいて、ご自身は奴隷と火遊びしていらっしゃるのですか?」
レジナルドへの追及は、サリオンの焦りを隠さないひっくり返った言葉によって阻まれた。
アステリの婿は主人の財産の一つであり、生殺与奪権を握られている。主人からの寵愛を失うことは、男にとって人生を左右する一大事だ。
「一般論だろうが、大声を出すな。お前を手に入れる為に私がどれだけ苦労したと思っている」
「はあ〜……下手な冗談はおやめください」
「というかお前、私に束縛されていると言ったか?」
「いえ、いえ、アステリ中を探しても、旦那様ほど寛容な主人はいらっしゃらないでしょう」
調子の良い彼にサフィエはフンと鼻を鳴らし、ラクダに鞭を打つ。ふたりにとってはいつものやり取りなのだろう。
街道を歩きながら、アキは日が昇り始めた内陸の方に視線を向ける。古の墳墓が光を浴び、荒野に色濃い影を落としていた。
『見ろアクィルス、あの墓は2000年前の王の墓なんだ。10歳で即位した少年王で……』
父は読み書きすらままならなかったのに、妙にそういった歴史に詳しかった。彼は骨の髄までアステリの民で、この地に刻まれた悠久の歴史を誇っていた。
明日の食事もままならない貧しい漁師の家で養われる価値観とは思えない。母との出会いが、彼になにか影響を与えたのだろうか。
「見れば見るほど、ローランとは全然違いますね〜」
「エイレーネー女王の死後、アステリはローランに対し無条件降伏をしたからな。ローランという国は、よほど激しく抵抗しない限り、征服地の文化や風習を弾圧することはない」
「ええ〜、わたしのおじいちゃん世代ってどれだけ抵抗したんだろ……」
少しずつ熱を孕む風を受けながら、彼らは荒野を進む。幼い頃、魚を売るために歩いた道は、殆どその姿を変えていない。この辺りは水害や嵐の少ない、平和な土地だった。
休憩を挟みながら半日ほど歩いたところで、二股の道に差し掛かる。サフィエがちらりとアキを振り返った。
「村はどちらだ、アクィルス」
「……」
「アキ、どうした?」
「…………み、右です」
「違う」
退屈そうにしていたサリオンが、焦点の合わない目で周囲を見回す素振りをした。
「左だ。右のほうが恐らく海には近いが、勾配がきつくて時間がかかるだろう。この辺りの地形は粗方頭に入れた、わたしは優秀な男だからな」
その通りだ。右の道を通ると、最短経路よりも3時間は長くかかってしまう。通る者も少なく舗装も行き届いていないので、それ以上の時間を必要とするかもしれない。
「そ、そういえばそうでした。すいません、街からの道には慣れてなくて」
「なんだお前、親父と喧嘩でもしたのか。前に会ったときよりも、随分声がしおらしいじゃないか。ハハハ」
サリオンが白い歯を見せ、ケラケラと笑う。
「それとも、親父に売られたか?そいつもバカだな、若い男なら、アステリで子種として売った方が儲かるのに」
「父さんはそんな人じゃない」
「まともな親父だったら、お前はローランの奴隷になんてなってないだろう?」
小馬鹿にした調子の言葉に言い返すことが出来ないでいると、レジナルドが声を上げた。
「今の言葉は、アキの父君への侮辱だ。撤回してもらおう」
「侮辱かどうかは、着いてみないと分からないな。身軽になったことで、悠々と婿入りでもしているかもしれないぞ」
「何を……」
「……そこまでだサリオン、あまりお喋りに興じていると舌を噛むぞ」
サフィエは婿の皮肉を咎めはしなかったが、話を無理やり中断させた。彼は肩をすくめたあと、大人しく口を閉じる。
「ありかとな、レジー」
「友人を侮辱されるのが嫌だっただけだ」
「……あの人なんかフローさんに似てますね。嫌な感じ」
レーネがボソリと囁くと、サリオンは「聞こえてるぞ」と笑った。
「盲いた者は、耳が良いからな。気を付けたほうが良い」
「やっぱ似てる〜……」
忠告してくるだけフロールフよりは相当マシな性格をしている─普段ならそんな軽口を叩くところだが、アキは遠目に見える砂岩で出来た家々を見て心臓がとまる心地がした。
「あれか。思っていたより質素な村だな」
「わたしを一晩売ってみますか?子種が欲しい女など山程いるでしょう」
からかい混じりの言葉は、サフィエがそうしないと確信しているからこそだろう。彼の態度には、愛されているという確固たる自信が存在した。
「静かにしろ、もう入り口だ」




