第百五話 信仰と商売Ⅰ
「ほら、見えてきたぞ」
日が暮れる頃、一行の視界にランプで照らされた街が見え始めた。
白い砂岩で作られた、四角い屋根の建物が並ぶその地の名はアルァディラ。幼い頃に何度か魚を売りに来た以来、訪れるのは実に10年ぶりだった。
風が砂とともに潮の匂いを運ぶ。レスタの潮風よりも乾いたそれに頬を撫でられながら、彼はぼんやりと街を見つめる。
「ねえアキ、ここはどういう街なの?」
「……この辺の経済の中心ですよ、お嬢様」
「土地勘があるようだな。そちらの坊やは、ここらの出なのか?」
サフィエがラクダの上から声をかけてくる。
「はい」
「こんな辺境にまで奴隷の調達に来る者がそういるとは思えないが、親にでも売られたか?」
「まあ、当たってるような、いないような」
「ローランでは、“当たらずとも遠からず”と表現するそうだぞ。ところで、そちらの坊やは大丈夫か?」
彼女は荷馬車の隅でポスカを飲むレジナルドに声をかける。沿岸に近づくにつれて強まる潮風が汗を冷やしたのか、彼の体調はさきほどよりもずっと良くなっているようだった。
「はい、ありがとうございます」
「北方人にこの暑さは辛いだろう。荒野の開拓のために北から奴隷が連れてこられることもあるが、誰も彼も一年ともたずに死んでしまう」
「でもレジーさ……レジーは混血だから、純血の北方人よりは暑さに強いのかな?」
「恐らくな。ローランの夏程度なら、俺も問題はない」
「ほう、坊やはふたりとも混血か。最近は随分増えてきたな」
アステリは古来からローランと交易しており、混血が生まれることも珍しくなかったものの、ローランによるアステリ征服後は、彼らに対する風当たりは確実に強くなっている。
しかし、微笑むサフィエの横顔に嫌悪の感情は見えなかった。
門をくぐり街に入れば、弦楽器の音色と歌声がどこからともなく聞こえてくる。潮と香辛料の風味が混ざったような匂いの風が頬を撫で、アキの胸にじわりと懐かしさが広がる。
この陽気な音色も、弾むような歌声も、赤褐色の肌をした人々も、香辛料の香りも、荒野から吹く砂煙も、身体で感じるすべてがローランとは違う。ここは間違いなく、アキが生まれ育った旧アステリ王国の地だ。
『サフィエ様、此処までご案内してくださり、まことにありがとうございます』
両手の指を組み、2度頭を下げる。アステリ風の謝意を示せば、サフィエはヒラヒラと手を振った。
『なに、礼を言われるほどのことではない─ああ、いや』
真っ赤な紅を引いた唇をぺろりと舐め、彼女は言葉を切った。アキの経験上、この流れはかなり話が長くなる。素早く身を引こうとするも虚しく、彼女はマントをはためかせながら、華麗にラクダから飛び降りた。
「そうだ!3人とも、私の別宅に泊まると良い。私の、この世で最も美しく聡明な婿を紹介してやろう」
「え、良いんですか─」
アキは慌ててレーネの口を塞いだ。
「ああ、それは大変ありがたいお誘いなのですが─」
「日が暮れきった海など眺めても仕方ないだろう。朝まで私の家で過ごせ。我が婿も喜ぶはずだ」
提案だった言葉があっという間に命令口調に変わる。彼女は深い色の瞳を嵌め込んだ目を眇め、低い声で問いかけてきた。
「どうしたアクィルス坊や、表情が固いぞ」
「……」
「アキ、せっかくのお誘いだし、お邪魔しない?あ、それともアステリだと失礼になっちゃうのかな」
「…………では、お言葉に甘えて」
アキが返答を絞り出すと、サフィエは満足げに頷き、そのままラクダの手綱を引いた。調子を取り戻したレジナルドが荷台から降りて、アキに囁いてくる。
「アキ、どうした?何か問題があるのか?」
「……婿いる家は面倒なんだよ。“ナジュ・ファリダ“が始まるからな」
「なあにそれ?」
サフィエの後ろでヒソヒソと話し合う3人を、街の人間は物珍しげに眺め、時に話しかけてくる。それを適当にあしらいながら、アキは説明を続けた。
「アステリってのは、遺伝のせいか土地のせいかわかんないけど、男が生まれにくいんだ。多分女の方が3倍は多い。だから婿を取れるってのはそれだけで成功者の証なんだよ。ここまでは良いか?」
「うん」
「婿になった男は基本的には家庭に入って、権威の象徴、あと子種として丁重に扱われる。宝石や絹を身に付けさせて、歌や踊りを覚えさせて……そうやって飾り立てた婿を他人に見せびらかす習慣を“ナジュ・ファリダ”っていうんだよ」
「じゃあわたしたち、今からサフィエさんのお婿さん自慢を聞くってこと?」
「ああ。しかもただ聞くんじゃなくて、自分の言葉で丁寧に感想を言うのが礼儀だ」
アキも、村長の“ナジュ・ファリダ”に招待されたことがある。金細工のように着飾った美しい男をソファに座らせ、村長は興奮気味に、彼のどこが素晴らしいか、手に入れるのにどれだけ苦労したか─などを長々と語っていた。
正直に言うと面倒で仕方ない悪習だが、道案内と宿の礼と考えれば安いものだ。アキは無理やり己を納得させた。
「でもサフィエさん、突然3人もお邪魔して大丈夫ですか?ほら、わたしたちローランからきてるし、お婿さんが嫌がるかも」
「嫌がったから何だと言うんだ?一家の主人たる私が決めたことに、アレが口を出す権利はない」
「ローランとは真逆だね。あっちは男の人が偉そうだもん。あ、旦那様は違うけど」
レーネは小さな声でそう言った。
焼石を嵌め込んだ道をしばらく歩けば、やがてサフィエは他の建物同様に砂岩で作られた、小さな一軒家を指差す。
「あれが我が家だ」
家の土台部分や石膏の柱には、いくつかの象形文字と、目を閉じた男性を描いた彫刻が施されている。盲目、そして右手に持つ秤は、彼が法と約定の神レキであることを示していた。
「美しい彫刻だな」
レジナルドが真っ直ぐに伸びるそれの一つを撫でる。
「砂岩は火に強いが衝撃には弱い。アステリの空き巣は壁を壊して入ってくるんだ。だからこうしてレキ神に見守って頂いている」
「出たなあ、うちの村にも……壁ぶっ壊して入ってくる野盗」
「混凝土を使えば良いのではないか?」
「あれはローラン秘伝の建材、製造法は未だ公にはされていない。火薬といったか?それと同じだ。ローラン人は魔法こそ下手だが、技術の探求となると、我々にはない創造性を発揮するらしい」
それが、アステリ敗北の最大の要因だ。たった80年そこらしか生きることの出来ない弱い生き物。そう侮っていたからこそ、かの大王国はオーガスタスという青年に敗北したのだろう。
サフィエの顔に一瞬だけ影がさしたような気がしたが、彼女はすぐに頭を振って、両開きの扉の前へと立った。
いささか乱暴な手付きでそれを叩くと、しばらくして慌ただしい足音が聞こえてくる。
『はい、今参ります』
よく通る、伸びのある男の声だ。何処かで聞いた覚えのあるそれに首を捻ったそのとき、何かがぶつかるような音と共に、内側から扉が開かれる。
『サリオン、落ち着きのない態度はとるな』
『申し訳ございません、旦那様』
現れたのは、赤褐色の腕に白いタトゥーを施した男だった。色鮮やかなターバンや衣装で着飾り、指には金の装飾が光る。そして赤く縁取られた目の奥にある瞳を見た瞬間、アキの記憶が浮上した。
「あ!あんた……」
白濁し、視力を失った瞳。アキの声に反応したそれがパチパチと瞬く。
「おや?その声は」
サリオンと呼ばれた男はニヤリと笑う。彼は以前一度だけレスタで出会ったことのある、レイチェルの密偵、盲目の商人サリオンであった。
「なんだサリオン、知り合いか?」
「ええ、ええ、その通りでございます。例のご令嬢絡みの縁で」
「ほう。それは─とんでもない偶然もあったものだな」
サフィエの顔がアキに近付き、細い指は頬を鷲掴みにする。
「変性魔法は単なる化粧代わりかと思ったが、肌や瞳の色を誤魔化しているのか?」
図星をつかれ、アキは息を呑んだ。
「旦那様、よろしければ、わたしにも事の次第を説明願えますか?」
いまいち話についていけていないサリオンが、どこか不安げに問う。以前会ったときはもっと尊大な男だったと記憶しているが、主人の前では殊勝な態度になるらしい。
「密偵がここにいるということは、ご令嬢はこの南方の地で探しものがあるということだ」
商売道具を見つけた商人は、ニヤリと下卑た笑みを見せた。
「もしやそれは、件の執政官暗殺に関係しているのか?だとしたら、私達もぜひ一枚噛ませてもらいたいものだ」
「……そんな楽しい話じゃない」
「楽しい話さ。なあ愛しの我が婿サリオン、そうだろう」
切れ長の目が、天で灯り始めた星明かりを受けて怪しく輝く。発言を求められ、サリオンは堂々と頷いてみせた。
「ええ、ええ、その通り。人の死は絶好の商機でございます。我が麗しき旦那様」




