第百二話 神ならざる者、永遠にⅡ
『ルーカス、その名は私が初陣で出会った兵士の名だ。古ローラン語で“光り輝く”という意味を持つ“ルキウス”に由来する。あの男は私に戦争の全てを、その美しさを教えてくれた』
『お前がいると、人々が明るく笑う。これからもその輝きで家族を支え、母を守り、民を導け。そしてエドガーと共に、ゲメッルスとして互いを補い合い、常に手を取り合って生きろ』
戦場に行くたび、ゲイルはルーカスを夜の闇の中に連れ出して、初陣の話を語って聞かせた。
戦場という場所の単純さ、美しさ、身分も善悪も思想も、なんの区別もない平等な生と死。満天の星空の下で命を終えたひとりの戦友。
彼は生涯、あの夜から帰ってくることはなかった。子らが生まれたときも、死んだときも、家族と穏やかな時間を過ごしたときも、議会で意見をぶつけ合っているときも、魂の芯は戦場に在った。
「……父上、前から思ってたけど早死した人の名前つけるなんて縁起悪いですよ。オレもエドガーも早死したらどうするんですか」
ルーカスは、遺言書の中の「母を守れ」という一文を思う。アルシノエは父にとって、戦友“ルーカス”と駆けた初陣を忘れないための肖像画であり飾り物だった。永遠に変わらないことを望まれた偶像だった。
人々がゲイルを太陽と崇めたように、ゲイルもまた崇拝と依存から逃れることは出来なかったのだろう。彼は、戦友と戦場が己の心から消えてしまうことを何よりも恐れていた。
「父上さ、母さんにすっげえ額の遺産遺してたの聞いたか?郊外の屋敷もだぜ」
「当然じゃない?アルシノエは人生の半分以上愛人やらされてるんだから。一生分の責任は父上が取らなくちゃ」
「そりゃそうだ。でも少しだけ、放り出されるんじゃないかって不安だったよ。父上と母さんは、恋人って感じじゃあなかった。母さんは何も分かってないし、父上は、あの人を神様の像とおんなじようなものだとお思いになってただろうさ」
ルーカスは時折、父がアルシノエのことを人間だと思っていないのではないかと不安になった。
そして彼女から生まれた自分もまた、美しい戦場を思い出すための偶像に過ぎないかもしれないと感じていた。実際、そうだった部分もあっただろう。
しかしゲイルはその中でも、家族を、妻を、そして彼女を愛していた。良き父、良き夫、良き主人であろうと足掻き続けていた。
「……父上はそんな方じゃないよ。アルスのことも、僕の母上のことも、勿論君のことも、僕のことも、大切にしてくださったよ」
突然自分に話題が向いて、ルーカスは言葉に詰まった。
「誰かと重ねてても、目の前にいる人を軽んじてるわけじゃない。昔、メルが似たようなこと言ってたでしょ」
「……」
ツンとした痛みを誤魔化すように鼻を擦る。エドガーと対等な存在と認められ、そう扱われていたが、心の何処かでは、愛人の子としての負い目があった。
「何で黙ってるの?君がいつも言ってるんだよ、僕たちは生まれた日も死ぬ日も同じ、一心同体のゲメッルスだって」
「……ああ、そうだな。うん、そうだ。当たり前だろ」
彼は視界が滲むのを目を強く瞑って堪えたあと、跳ねるように立ち上がる。
「そんなこと、生まれた瞬間から分かってる」
「嘘だぁ」
「嘘じゃねえ!さっきまでは、ちょっとそのことを忘れちまってただけだ。オレたちは父上の自慢の息子、そんで最強のゲメッルスだ。二度と忘れねえから安心しろ」
「だと良いけど」
エドガーも、膝に手を突いて立ち上がった。
「まずどうしようか。僕たちはどうやって、父上の仇を見つけて、その人から家族を守れば良いんだろう。ねえ、ルーカス隊長?」
「またオレが隊長かよ」
「交代でね」
「嘘つけ。まあいいけどよ……まずはどうするか。そうだな─」
そのとき、ふたつの足音と話し声が近付いて来た。噂をすれば影がさす─それらはメルヴィルとアルシノエのものだった。
「アルスよぉ、良いからちょっと覗いて来いってぇ」
「わたしが行ったら、奥さまにおこられちゃいませんか?」
とても主人が死んだとは思えない能天気なやり取りはやがて部屋の入り口に辿り着く。中にゲメッルスが居るのが分かっているのかいないのか、無遠慮に扉が開かれた。
「あ、ゲメッルス様」
珍しく酒が抜けているメルヴィルも、後ろで手を引かれるアルシノエも、喪服に身を包んでいた。今この屋敷に、黒以外を纏うものはいない。
「あ、じゃねえよメル。オレが父上の棺に縋りついて泣いてたら、一体どうするつもりだったんだ?」
「見なかったことにしてあげますよ。まあそんなことより、旦那様にご挨拶して良いですか?」
「お前、父上に挨拶することなんてあるのか?」
「全く、全然、少しも。アルスを連れてきただけなんで」
メルヴィルは彼女を顎で指しながら、へらへらと笑う。その様子はやはり、家の主人を失った奴隷とは思えない態度だ。彼は一事が万事このような調子である。
「母さん、大丈夫か?」
「うん?うーん、大丈夫。お世話になったからあいさつしたくて。あいさつが終わったら、どうしたら良いかわからないけど」
「母さんは何も心配しなくて良い。父上は母さんの今後のことも、全部考えてくださってたから」
「うーん、そっかぁ」
アルシノエは艷やかな黒髪をくるくると指に巻き付け、小首を傾げる。受動的でとにかく自己主張をしない彼女がゲイルをどう思っているのか、彼の死を悲しんでいるのか、それは息子であるルーカスにも分からなかった。
「ルーカスは大丈夫?」
「え?」
「おとうさんが死んじゃったから、かなしいでしょう。ええと、ほら、よしよし」
彼女はその身分ゆえ、ゲイルの正式な息子として認められたルーカスの養育には殆ど参加していない。幼い頃は、母親というよりも遊び相手のような感覚だった。そんな彼女が頭を撫でる手付きはぎこちないが、褐色の掌は優しい暖かさを伝えてくる。
「母さん、ありがたいんだけど月桂冠がずれる……」
「あ、そうだね、ごめんね。エドガーさまは大丈夫ですか?」
「うん。僕のことよりアルス─」
目元までずれた月桂冠と前髪を直すルーカスの横で、エドガーは不思議そうにアルシノエの全身を眺めた。
「何か服の大きさおかしくない?生地の質も粗いし」
アルシノエが纏う喪服は、以前彼女のためにしつらえたものとは違う、どこかの露店で慌てて買ってきたような簡素な素材で出来ている。まさかまたヴァネッサに服を切り裂かれたのかとエドガーが不安を抱いていると、彼女は服の端をつまんでヒラヒラと振った。
「あ、これ、他の人に借りました。前に作ってもらったの小さくなってて」
「母さん、結婚式のドレスもきついって言ってたよな。仕立てのやつは何してんだ?」
アルシノエ相手だからと適当な仕事をしているのか─ルーカスは母の扱いに頭を抱えずにはいられなかった。喪が明けたら、早々にゲイルが遺した屋敷へ引っ越させるべきかもしれない。
「ルーカス様もまだまだ若いなぁ……女の服がキツイって言ったら」
メルヴィルは下世話な冗談を言うときの軽薄な笑顔を浮かべようとして、ふと表情を曇らせる。
「え……アルス、お前マジか?」
「なにがですか〜?」
メルヴィルのワイン色の瞳が、アルシノエの頭から爪先までを観察する。
「オイ、お前。人の母親のことジロジロ見てんじゃねえよ」
「いやあ、そういう訳じゃなくて……」
「どうしたの、メル?」
「アルス、お前葬式出るのやめた方が良いんじゃねえのぉ?」
彼はゲメッルスの問いには答えず、不意にそのような提案をした。もとより、愛人の出席が許されるかどうかは怪しく、アルタイルたちとも相談して欠席を決めかけたところではあったが、わざわざメルヴィルがそれに言及することに強い違和感を覚える。
「メル、どうした?」
「どうしたって……この場で言うのもちょっとアレなんでぇ……アルス、お前転ぶなよ、酒も飲むなよ」
いよいよ混乱するゲメッルスを振り返り、彼は「大奥様がお呼びですよ」と入り口を指す。父に最期の挨拶をすると祖母に告げてから随分と時間が経っていることに気が付き、ゲメッルスは青ざめた。
「ほら、またどこで油売ってんだ〜ってご立腹だったんで、早く戻んないと」
「……葬式が終わったらちゃんと話せよ?母さんにも、オレにも」
「わたしがどうかしました?」
「わぁ〜ってますよぉ」
酒が入ったようにふらついた態度と言葉で返事をして、メルヴィルは緩慢に頷く。結局彼は、思わせぶりな態度の真相をこの場で打ち明けることはなかった。
「レイチェル、様。旦那様のところ、行かなくて良い?ですか?」
屋敷の一室。ゲイルの遺体が安置された部屋を窓から眺めるレイチェルに、スヴィンが気遣わしげに声をかけた。
「ええ。もうお話することはございません」
喪服に身を包み、装飾品を取り去った姿は、普段よりもずっと小柄に見えたが、その背筋は真っ直ぐに伸びている。
レイチェルにとって、星空の下で交わした今際のときの言葉が全てだった。父の信念、葛藤、愛、あらゆる思いが、重ねた掌から伝わってきた。
「……そろそろ式が始まりますわね」
葬儀を以て、国家の太陽ゲイルは真に人としての死を迎える。そのときは、確実に目の前に迫っていた。




