第百一話 神ならざる者、永遠にⅠ
それから23日後─
『アルタイル、その名には“飛ぶ鳥”という意味がある。お前は己を地に這う虫のように卑下するが、私はお前が生まれたとき、その背に生える大きな翼を見た』
ローラン歴820年、1年のうち、8番目の月である涼風至月月の30日。ゲイルの身体は帝都へと無言の帰還を果たした。
「父上……」
セレの屋敷の一室に安置された、美しい彫刻が施された棺の傍らに膝をつき、アルタイルは蓋に手を触れる。命のないものの冷たさが、蓋の上からでも伝わってくるようだ。
「……お義父様……」
共に屋敷を訪れたエイダは、目を赤く腫らし、白い睫毛の縁から止めどなく涙を溢している。
「どうして……」
「母上はレンブラント殿が毒殺したと仰っていたが……」
ヴァネッサによれば、彼はレンブラントとの密談の際に「新しく作られた不思議な味わいのワイン」を振る舞われたとのことだ。
「……しかし、そのようなあからさまに疑われる犯行をするだろうか。密室で、ふたりきりで毒を振る舞うなど」
アルタイルは思考に沈む。報告によればゲイルの体調が悪化する前に口にしていたのはレンブラントに振る舞われたワイン、そして持参していた麦酒。後者に関しては、デリラからサイラスへの土産物を譲り受けたようだ。こちらも、目を離した隙に誰かが毒物を混入した可能性は捨てきれない。
そこで彼は頭を振った。今の彼が考えるべきことは、あらゆる手続きや、葬儀の準備、皇帝への報告を目的とした謁見─次代の家長としての仕事だ。サイラスが家長代理として手伝ってくれているが、病身を押して長旅をしてきた彼に甘えてばかりではいられない。
「アルタイル様」
無意識に握りしめていた手に、エイダの掌がそっと重なった。
「わたくしに出来ることがあれば、何でもお申し付けください。これから起きるのはきっと想像もつかないほど恐ろしくて、困難なことばかりだと思います……けれど」
互いに微かに震える手を握り、ふたりは額を寄せ合った。
今までアルタイルたちを守護し続けた太陽は沈んでしまった。これから否応なしに全てが変わっていくだろう。その中で彼は、人々と家族を支え導かなければならない。
「ああ……エイダ、お前とならばきっと、私は自らの足で立ち続けることが出来る」
ふと、鋭い鳥の鳴き声が天をつく。一羽の鷹が窓の外─夜明けの空に羽を広げ、悠然と飛び去っていくところだった。
ゲイルが戦場に行く度に持ち歩いていた遺言書。その中でアルタイルに送られた言葉は、とても短いものだった。この名は、異国で“飛ぶ鳥”を意味するのだと。彼が生まれた瞬間、ゲイルはその背に空へ羽ばたくための羽根を見たと。ただそれだけ。
鳥は、太陽に向けて飛んでいく。例え太陽にはなれなくとも、己もそうあらねばならないと思った。
「行こう、エイダ」
「……はい」
ふたりは最後に棺に向けて礼をすると、部屋を後にした。すると、入れ替わりに廊下の奥からエドガーが歩いてくる。
「エドガー……」
「僕も、父上に最後のご挨拶に参りました」
薄く笑う彼の目は、赤く腫れていた。
「ルーカスはどうした? 」
「僕はルーカスがいると、彼に全部任せちゃうから、最期のご挨拶くらいは、自分で考えたほうが良いと思って……いや、思ったっていうのは嘘ですね。お祖母様にそう言われたんです」
「そうか……そうだな」
アルタイルに肩を優しく叩かれ、エドガーは部屋のなかに入った。誰もいないそこにポツンと置かれた棺。未だに、それにゲイルが横たわっているという実感は湧かない。
『エドガーよ、お前の名は亡き我が兄上から頂いたものだ。兄とは違い、お前は怠惰で勇猛さに欠ける男に育ったが、しかしアルタイルもルーカスも持たない強さをお前は持っている。それは揺るがない心だ。勇敢でなくともよい─その強さに従って誠実であれ。そしてゲメッルスとして、互いの不得意を補い合って生きていけ』
「なーんか褒めてんだか貶してるんだか……」
ゲイルは常に率直で正直な男だった。そして彼が言うとおり、エドガーは勇猛とは言い難い気質に育った。
剣も、魔法も、政治も、才能を認められた乗馬や戦車引きの技術も、すべては彼にとって煩わしいものだ。父ゲイル、長子アルタイル、そして早世した次男ユリシーズ、彼らの庇護の下に隠れながら、その日その日を楽しくのんびりと暮らせればよかった。
しかし次兄は夭折し、そして父も居なくなった。次代の権力者としての道は、確実に目の前に迫っている。あとは一歩踏み出すが、尻尾を巻いて逃げ出すかだ。
「揺るがない、ねえ……」
エドガーは棺の前に膝を抱えて座った。
ルーカスと双子として扱われ、共に過ごしてきた。彼がいるから、他民族に対して差別的な感情を抱くことはない。
常に力強く勇敢な彼がいるから、どんな状況でも動じないでいられる。
「それ、僕じゃなくてルーカスが凄いんですよ。父上」
「おいおい、分かってねえなあお前は」
そのとき、背中が力強く叩かれた。
「ルーカス……」
「さっき街をひとりで歩いてたら、エドガー様は?って聞かれたぜ」
双子として育てられた片割れは、いつも話したいと思った瞬間に現れる。ルーカスはエドガーの隣にどかりと腰を下ろした。
「お前はゲメッルスっていやあオレのことだって思ってるみたいだけどよ。街の奴らはそうじゃねえんだ。エド、お前とオレはふたりでひとつ、父上と神々がそう望まれた。そんで今は皆が望んでる。勿論オレもな。お前は勇敢な貴族の男って柄じゃないが、誰に対しても適当でかったるそうで……そんですこぶる優しい」
「それ褒めてる?」
「肌の色も母親も違うガキが、自分と双子扱いされてたら、普通の貴族は嫌がるもんだぜ?」
エドガーはそう言われ、過去を思い起こす。
幼い頃は、街で遊んでいても、学校に行っても、ルーカスは奇異と嫌悪が混ざった視線を向けられていた。エドガー自身に対し、「きみが父上に軽んじられている」「あんな奴隷のガキと共にいては悪い影響が」「抗議するべきだ」などなと、好き勝手にのたまう輩が尽きなかった─ような気がする。彼はその全てを聞き流していた。
何故なら、ルーカスと共に過ごすのは何よりも楽しかったからだ。
「ルーカスと居ると楽しいし、何でも決めてくれるし、気楽だし。まあ時々面倒だけど」
「オレもお前といると楽しいぜ。何でも好きなことが出来るし。気楽だし。まあ時々面倒だけどな」
ふたりは顔を見合わせ、どちらともなく笑った。
「僕らって同時に生まれたんだよね。でも例えば、瞬きの間くらいは差があったりするのかな」
「あるわけねえだろ、オレたちはゲメッルスなんだから」
双子に順序や優劣はない。そういったものを定めることは許されない。帝国法に記されたしきたりによって、彼らは常に隣に並び立って生きてきた。それぞれの名前を呼ばれることよりも、ゲメッルスと一括りにされることのほうが多いほどだ。
しかしゲイルは、ふたりの連帯を誓わせると同時に、それぞれに違った言葉を残した。これが意味することを、まだ彼には理解しきれていない。しかしその足が向かう先にはいずれ、ルーカスの足跡を辿るだけでは歩むことのできない道があるのだろう。
「ルーカス、父上に……」
なんて言ったら良いかな─と尋ねようとしたところで、ルーカスが首を振った。まさに祖母の懸念が当たっていたことに気が付き、エドガーはため息をつく。
「……父上」
なかなか言葉が出てこない。昔から、偶には自分の意見を話せと何度も促され、その度にのらりくらりとかわしていたことを思い出す。
「僕には僕の強さがあるって仰ったけど、正直よくわからないです。だから、いつかわかるようになれば良いな〜って思いながら、胸の中に置いておくことにします」
前半はエドガーらしいのらりくらりとした答えだったが、ふと彼の声が低く芯の通ったものに変わる。
「……今は、僕が出来ることをします」
穏やかな垂れ目の中に浮かぶ瞳の青は、ゲイルと同じ色を持っていた。
「そして、父上を殺した人間を見つけて、その人たちから家族を守る。どれもこれも僕一人では無理だけど、でも僕たちはゲメッルスだから、父上の仰った通り、出来ないことを補い合って、助け合っていきます」
曖昧で優柔不断にも取れる言葉だったが、ルーカスは茶々を入れずに耳を傾ける。エドガーが自分の意見を真っ直ぐに言い表すのは、とても珍しいことだった。
「……一応、こんな感じ。どう?上手く話せてたかな」
「……」
「ルーカス?」
「オレたちってやっぱ、ゲメッルスって言われるだけはあるな」
彼はターバンの位置を直し、意を決したように息を吐く。
「エド、オレと父上の話も、聞いてもらっていいか?」
「聞く聞く。自分だけ秘密の話するとかずるいし」




