第九十八話 人ならざる心
「裁判所は、貴方を重要参考人として召喚することを決めたようですね、総督閣下」
翌日、ゲイルの遺体の移送が始まる直前、サイラスは最後の挨拶と称してレンブラントの屋敷を訪れた。
「貴殿も、私が兄君を殺したと疑っておられるのか?」
「いいえ。かの毒は非常に遅効性なもの、その性質を活かすことなく、わざわざ密室で手ずからそれを飲ませるような愚か者が、どこの世界に居るでしょう?まあ、ローラン随一の交易都市を統べる貴方ならば、未開の地の毒魚をご存知でも不思議ではありませんが……」
特注の椅子と足台のない状態で座る彼の身体は非常に不安定だ。それを支えるフロールフの眼差しは、どこか呆れたように主人を見下ろしていた。
「そういえば貴方は、中立を公言しながら心の中では兄の皇帝としての資質を疑っていた。それゆえに、クラヴィス様を皇帝として擁立するため、兄上を殺害したと噂されていますね」
「執政官の従者が、扉の外で耳をそばだてていたはずだ。執政官に皇帝となる意志はなかった。寧ろ、クラヴィス様を支持する私の背中を押してくださった」
「仰る通りですね。妙なことを尋ねて申し訳ありません」
不気味。レンブラントがサイラスに抱いた印象はその一言に尽きた。病身故に長らく俗世から離れ、研究にふけっていたというが、その仕草にも視線にも、世間に対する無知は感じられない。ゲイルのものよりも色濃い青は、いやに楽しげな光を帯びて、周囲を常に観察していた。
「私も、貴方は犯人ではないと思っていますよ。しかし世間はそう考えてはいない。従者は己の手足、勝手に愚かな振る舞いをしないものを、もっと慎重に選ぶべきでしたね」
「……」
「何か特別な理由でもあるのですか?」
「……上等な宝石を競り落とそうとしているうちに、余り物しか残らなかっただけだ」
若き日のレンブラントは、ルイスを従者にするため熱心に勧誘していた。たとえ氏族の名が失われても、あの高潔な精神と知性は、国のために使われるべきだと信じていたからだ。しかしルイスは首を縦に振らなかった。当てつけのようにカルロを従者に据えても、彼は「俺が代わってやろう」とは言わなかった。
「それは不運でしたね。そういえば貴方は熱心なノクティナ信者だと伺っていますが、ノクティナ信仰には何か─反政府的な思想でも存在するのですか?」
「それ以上は神に対する不敬だぞ」
ノクティナは夜の安寧を守る女神。争いを憂いこそすれ、求めることなど決してあるはずがない。レンブラントはそう信じていた。
「特にゲイル殿は太陽とすら呼ばれた御仁、太陽神ソリアの姉妹神であるノクティナが、姉の寵愛を受けた者を殺めることを望むはずも無かろう」
「神の意志を盾に兄を刺した者がいてもおかしくはありませんよ。ノクティナはとても無口で淑やかなお方でいらっしゃる故」
サイラスは真摯な意見表明といった態度で言葉を紡ぐ。しかし突然、その目はニヤリと弓なりに細められた。
「まあ、これ以上は時間の無駄ですね。貴方は何も知らないようだ。なァ、フロールフ」
彼は己を支える手を軽く叩き、堪えきれない笑い声を漏らす。
「……はあ、旦那様の“病気”がまた始まってしまいましたね」
「な、何だ突然……」
フロールフに肩を支えられながら、彼はぐっと前に乗り出した。
「貴方の総督としての手腕は素晴らしいものだ。多くのローラン人は、南方人を卑しい赤犬と蔑み、商売ごとを卑賤な仕事として忌み嫌う。世を回し、国を支えているのが、まさにその犬たちであることも理解せずに」
「……それに関しては、同意するが」
「閣下は南方商人に対し広く門戸を開き、商業の自由化を成功させた。この功績はローランの子々孫々に語り継がれるべき偉業。しかしそれをよく思わない役人が多いのも事実……もし貴方が逮捕され、総督の地位を解雇されれば、きっと貴方の体制に異を唱えるものが、この施策を次々に翻し、マーリス州を保守的な土地に変えるでしょう」
ゲイルの死について論じていたはずがいつの間にか政治談義となり、レンブラントは話に着いていくのがやっとだった。
「貴方が有罪となれば、現在副総督であるご子息も、奥方も、一族郎党が貴方と共に死ぬことになり、レンブラント氏族は取り潰される。それはマーリス州にとって、そしてローランにとってあまりに大きな損失だ。それだけは全力で避けなければならないのです。ここまではお分かりですか?」
「……つまり貴殿は、私の無罪の証明のために尽力すると?」
「はい、勿論。しかし事が長引けば、たとえ無罪の判決を受けても、貴方への疑心を民の心から払い切ることは出来ないでしょう」
レンブラントはようやくサイラスの言わんとすることを理解し、戦慄した。
「人間は物語を好む。物語こそが、理屈や真実を越えて、人々の心を惹きつける。まともに内政の一つもこなせない兄が、国家の英雄と賛美されていたように」
薄い舌が唇をなぞる。獲物を品定める蛇のようなその動きから、レンブラントは目を離せなかった。
「私は真実の解明に全力を尽くします。法の神レキと、我が敬愛するアーウラ神の名にかけてお約束いたしましょう。そして総督閣下、貴方にも誓ってもらう」
気分が昂ぶっているのか、口調が少し乱れた。
「もし、そうするべきだと判断したら、あるひとりの商人に接触してほしい。接触の方法は─」
レンブラントは、サイラスの言葉を一言一句漏らすまいと耳を傾けた。死を望んではいない。しかし人には死すべき時、死ななければならない時がある。古き貴族の家に生まれた彼は、そう考えていた。
「以上の手順を踏めば、後は私が貴方の死を彩ろう。美しく、悲劇的に、壮大に─貴方の死はローラン帝国末代までの伝説となる」
「……まるで私が死ぬのが楽しみで仕方がないといった様子だな」
饒舌な様子をそう揶揄すると、青い目がキョトンと見開かれる。意表をつかれたような仕草に、驚きよりも怖気が襲った。
「まさか、違いますよ。貴方が築き上げた体制は、このマーリス州、果ては国家の要、それを理解する者が、貴方の死を惜しまないはずがない」
悲しげに、悔しげに語る表情には、悍ましいことに微塵の嘘も詭弁も感じられなかった。
「しかし、貴方が死ななければならない時、ただ冥界の門をくぐらせるだけでは“勿体無い”でしょう」
「……勿体無い?」
「はい。人は一度しか死ぬことが出来ないのですよ。その生涯たった一度の機会を、最大限有効に使わない理由がありますか?」
サイラスが生まれたばかりの頃、レンブラントは父に同行しその祝賀行事に参列した。夫たる英雄ドルスの死によって、一時は自死を選びかねないほど落胆していたフィアナは、手足に麻痺のある赤子を慈しんでいるように見えた。
それが10年も経たぬうちに、彼を怪物と呼ばわり、最後には半ば放逐と言っていい形でマーリス州に送ったことを不思議に思ったものだ。
しかし今ならば分かる。フィアナは彼の身体ではなく、心に怯えたのだ。レンブラントの命を惜しみながら、同時に意気揚々と自死の計画を提案する、その理解し難い悍ましさから逃げようと彼を遠ざけたのだ。
「……」
額に汗が伝う。この怪物の手を払い除け、罵り、すぐにでも追い出してしまいたい。しかし追い詰められたレンブラントにとって、彼の誘いは恐ろしくも甘美だった。
「私は、生きるために最後まで足掻くぞ。貴殿もそうしてくれるのだろう?」
「当然です」
「それを前提に、貴殿の提案を呑もう。私は、死すべき時に死ぬ。そして我が氏族の名誉を、子らの命を守り抜く」
「ご英断、感謝いたします。貴方と氏族の名誉を守るため、私も身命を賭しましょう」
サイラスは胸に手を当て、斜めに傾いた礼をした。不格好だとは思わない。自分では椅子にも座ること出来ない男に対し、レンブラントは確かな畏怖を感じていた。
「くれぐれも、判断を焦らないで下さい。私は父を知らないが、親族の死が苦しく耐え難いものであることはこの身を以って理解しています。御子息たちのために、奥方のために、決して希望を捨ててはいけませんよ」
悲しげに眉を下げ、サイラスは真摯な口調でそう諭す。それはまさに、彼が今まで公に見せてきた、温厚な学者としての顔だった。
「相変わらずでございますね、旦那様」
「何がだい?」
フロールフは主人の問いには答えず、ため息混じりに顔を上げた。
「申し訳ございません、総督閣下。我が主人はこのように、心というものを好きなときに落としたり拾ったりが出来る─ああ、簡単に言えば、“イカれ”野郎であるゆえ、混乱なさったでしょう」
サイラスという人間は、自在に良心を切り離すことが出来ると、従者は事もなげに語る。それはますますレンブラントに畏怖を与えた。
それは果たして、本当に心と言えるのか。心と呼べたとして、それは人間のものと同じであるのか─
「では総督閣下、出立の時間が近いので、これにして失礼させて頂きます」
「……あ、ああ。道中の安全を祈っている」
サイラスは再び礼をとった。
「ありがとうございます。それにしても、これが貴方との最後になるかもしれないと思うと、少々感慨深いですね」
柔らかな笑みを残し、彼はフロールフに支えられて総督執務室を後にした。




