第八話 邂逅する青Ⅰ
「なあ、ゲメッルス様はどの店にいらっしゃるんだ?」
「ここじゃあないみたいだぜ」
「来るならマンティだと思ったんだけどなあ……」
「まだ宿で休んでるんじゃねえか?」
「エドガー様はともかく、ルーカス様は真っ先に飛び出してくるだろ。あの人、レスタに入ってくるときも馬車の上で踊ってたぜ」
アキはベッドに寝転び、脳内でひたすら計算盤の珠を滑らせていた。掛け算の桁が百万に到達したあたりで不意に集中が途切れた彼は、ようやく表通りの喧騒に気が付く。
「なんだようるせえな……」
窓の端からちらりと下を覗いた彼は、思わず目を丸くした。街の漁師、奴隷、商人、兵士、それだけではない─恐らく街の外から来たのだろう風体の人々も混ざって、通りの混雑は石畳が見えないほどだ。
彼らは、“ゲメッルス”の姿を探してマンティまで足を運んだ野次馬だった。喧騒に混ざって、クレアが彼らを追い払う鋭い声が響く。
「ほらあんたら!客じゃないならいつまでも溜まってんじゃないよ!さっさと散りな!」
「なあクレア、ゲメッルス様は来てねえのか?」
「あんたの目はなんのために付いてるんだい?見りゃ分かるだろ、ほら行った行った!」
豪胆な女性とはいえ、ひとりで数百人の群衆を追い払うのは困難だ。
アキは彼女と人々の間に飛び込み手助けしてやりたかったが、朝のルイスの言葉がそれを阻む。
不貞腐れた彼は、窓に背を向けた。この客の入り具合では、「忙しいからやっぱり手伝ってくれ」と言われる可能性もあるが、もしそうだとしても決して応えてやるものかと思った。
ルイスの言う通り、一日ここに引きこもって過ごしてやろう。命令されても、鞭で打たれても、今日は食堂の仕事はしない─アキは唇を噛みながら、そう決意を固めた。とはいえ、現状はあまりに退屈だ。
「爪は切ったし……歯でも磨くか……」
今日は既に3回歯を磨いている。灰と水を混ぜた石鹸の味が口の中にまだ残っているような気がするが、既に部屋の掃除、服の修理、爪を切るなどの暇潰しは終えてしまったので、残されたものはこれくらいしかない。
物心つく前から一日中働いていた彼にとって、暇な時間というのは縁遠いものだった。当然、空いた時間を上手く使う知識も術も持ち合わせていない。
「暇だ……」
アキは廊下に出ると、中庭を見下ろす窓の枠に足をかけた。中庭ならば人に見られることはないので、彼は堂々と土の上に降り立つ。
そして端に生えた庭木から適当な枝を折り、歯でその先端をほぐす。
広がった枝先でガシガシと歯を磨きながら、アキは壁に寄りかかった。そのとき─足元にふわりと風が巻き起こる。それが魔力を纏っていることに気が付き、彼は口の中に産み出した水とともに灰を吐き捨てた。
「誰かいるのか?」
頭上に視線を向ける。中天に輝く太陽の眩さに思わず眇めた視界に白が翻る。
「……え」
魔力に操られた風を纏い、白は宙に踊った。それがドレスを纏った少女だと気付いたとき、もう彼女はアキの眼前に降り立っていた。
庭木の日陰から、彼は呆然とその姿を見つめる。美しい娘だった。少しも乱れずに編み込まれた栗色の髪、華奢で小さな体格、目尻が吊り上がった大きな目の中心に嵌め込まれた、海のような深い青─
「……誰だ、お前」
呆然としていたアキは、ややあってようやくその一言を絞り出した。
すると、少女の瞳がギョロリと彼を睨む。それは他人を見下すことに慣れた者の目つきだった。
「お前こそなんですか。そのようなところでコソコソと隠れて」
「別に隠れてねえよ、つうかここ私有地だぞ。あんたこそ何してんだよ」
尋問の応酬に、少女は片眉をピクリと上げた。
「偶然通りかかっただけですわ。少々、人目を避けて移動していますので」
「コソコソしてんのはあんたじゃねえか」
刹那、アキの眼前に赤い炎が迫った。殆ど反射的に産み出した流水が、肌を焼く前にそれを押し返す。
「なんっ……」
「おや、無学な自由民が“生成”をこなせるとは……いえ、異国混じりの奴隷ですか」
少女は小さく鼻を鳴らし、口から細く炎を吐いた。
“生成”とは言葉通り、魔力によって物質を無から生み出す技術だ。一般的なローラン人の魔力で行使することはほぼ不可能だと言っていい。この国でそれができるのは、異国出身の奴隷か、魔力量が多くまた優れた教育を受けることのできる上流階級の者に限られる。
アキは壁に背をつけ、少女の姿を観察する。地面に引きずるほど裾の長いドレスも、宝石があしらわれたベルトも、動けば崩れそうな複雑な髪型も、とても労働には向かないものだ。
「わたくしの名前は、レイチェル・ユリア・ヴァネッサ・セレ。二度とわたくしを下品な二人称で呼ばわるのはお止めなさい」
「……セレ?セレって、執政官様の?」
「ええ。執政官のゲイル・セレはわたくしの父にあたります」
次々に飛び出す固有名詞を何とか聞き取ったところで、アキは自分が恐ろしく面倒な事態に巻き込まれていることを知った。
「まあ少し計画と違いますが、この辺りも充分に人が集まっているようですわね」
「何の話?」
「そこの奴隷、今からわたくしを襲うふりをなさい。わたくしは悲鳴を上げて抵抗するので、兵士が来たら大人しく捕まるのですよ」
「なんで?」
「お前に説明する筋合いはありません。それとも今ここで焼け死にますか?焼死はこの世で最も苦しい死に方の一つだそうですけれど」
「……え、脅迫ってこと?」
何一つ理解できないうちに、レイチェルと名乗った少女は、深く息を吸い込んだ。
これから起きる事態を理解したアキは、日陰から飛びだしてその口を押さえる。
「むぐ……っ?」
「何してんだ馬鹿!……あっつ!」
唇に触れた掌に熱を感じ、思わず腕を跳ね上げる。口から火の残滓を漏らしながら、再びレイチェルは悲鳴をあげようと息を吸い─明るい太陽の下で、ふたりの視線が交わった。
「え……」
レイチェルがポカンとした表情で目を瞬かせる。その隙をついて、アキは彼女の身体を小脇に抱え、ひとまず一階の廊下に引きずり込んだ。
「ちょっと、離しなさい!」
「離すわけねーだろイカレ女!兵士に突き出してやるからな!」
「お前はここの奴隷なのですか?」
「関係ねえだろそれ今」
「いいから、話を聞きなさい!」
レイチェルはアキの脛を蹴飛ばす。たまわず離れた腕から転がり落ちた彼女は、爪が食い込むほどの力で彼の腕を掴んだ。
「いいからわたくしの目を見なさい」
「いててててっ、何なんだよホント!」
「わたくしに、2度同じことを言わせる気ですか?ほら!」
彼を見据える青は、向かい合った者を吸い寄せて離さないような、不思議な深みと輝きを宿している。ようやく混乱が収まった空間で、アキは眉を寄せた。
「目がどうしたんだよ」
「分からないのですか?わたくしとお前の瞳は同じ色をしています」
「はあ……そうですか」
突然目の色に言及されても、アキは何も返すことが出来ない。水や質の悪い金属鏡に映った姿を見て漠然と「青」だということは理解しているが、それだけだ。
火を吹いてきたり、虚言を吐こうとしたり、突然口説き文句のようなことを言い出したり、ひょっとしてこの娘は少々精神を病んでいるのかもしれない─そんな疑念を抱くアキをよそに、レイチェルは言葉を続ける。
「わたくしの父も、兄らも、妹も、叔父も、叔母も、我が血統は代々皆同じ色の瞳を持ちます」
「はあ……」
「公言されているわけではありませんが、この瞳は証なのですよ」
「証?」
レイチェルが立ち上がる。その身体は小柄なアキよりも頭ひとつ小さい。その眼差しが、毎日水桶に映し出される己のものに似ている気がして、アキは息を呑んだ。
「初代ローラン皇帝にして我が曽祖父、“神君”オーガスタスの子孫であるという、証ですわ」
「……え?」
炎の熱を残す吐息とは裏腹に、その言葉は鋭く冷たい。
「答えなさい、お前は何者ですか?」




