【幕間】 マレ 〜輝きを失った湖面と静かに滾り輝く溶鋼〜
幻想のように美しいその人は、間違いなく卓越したダンサーだった。
彼女はそダンサー生活の中で、数多のコンテストに出場し、そのすべてで入賞を果たしている。
業界内でも高い評価を得ている教室にあって、長らくトップダンサーのひとりとして見做されていた彼女は、教室の内外から高い評価を得、相応の知名度を有していた。
入賞数で言えば、同世代で随一だった。一方、彼女を評するにあたって、『無冠の』という言葉が使われることも多かった。
誰よりも多くの入賞実績を持ちながら、トップを獲れたことが一度もなかった彼女は、同世代で随一の技術と表現力を持ちながらも、『なにかが足りていない』という不名誉な評がついてまわっていた。
彼女の妹分のような存在が、彼女とそっくりの表現力と技術を身に着け、彼女が持っていなかった『足りない何か』を携えて現れたとき、業界はにわかにざわついたという。
あの人のようになりたいと思ったわたし。
あの人のようになるには邪魔になっていた要素。
それはあの人に足りないとされていた資質。
どうせなくせないならばと受け入れたわたしの本質を、開放すればするほどわたしは評価を上げていった。
「ずっと一緒にやろうね。いつかオペラ座で同じ舞台に立ちたいね、なんて言っていたのにね」
その申し訳なさそうな顔を、わたしは忘れない。
「ごめんね。私が……」
力が及ばなかったと、わたしに謝りながら流していた涙を忘れない。
わたしは知っている。この人がどれだけの努力と研鑽を重ねていたのかを。
その先の道に、どれだけの想いを募らせていたのかを。
だから、ここで流すべきは、自ら断つ決意をした悔し涙のはずだ。
絶たれた道を想う悲しみの涙のはずだ。
わたしを慮る涙でなんてあるはずがない。
それなのに、この人は……。
「ごめんね、泣かないで」
わたしに泣く資格なんてない。
最もつらいこの人にこんなことを言わせてはいけない。
でも、耐えられなかった。
細く険しい道を分け進み、狭き門を抉じ開ける。
そんな世界では優しすぎた彼女の、どこまでも透き通った美しくも儚い水面は、静謐さを保ち続けることはできなかった。
それが、わたしにはわかってしまっていた。それが、悔しかった。
わたしは彼女の存在で鋭くも脆い先端を保護してもらっていたから折れずに来れた。
でもわたしは、美しくも儚い彼女の湖面を護ることはできなかった。
止めたい。
でも、その言葉を口にすることはできない。
だからと言って、労いの言葉で終わりを認めることもできない。
悔しい。口惜しい。
なんでもっと、強欲になってくれなかったのか。
それさえあれば、わたしなんかよりも遥か高みにいけたはずの人だ。
でも、その雫を垂らしてしまえば、きっとあのどこまでも透き通った水面にはもう戻れないのだろう。
わたしが憧れた、なりたいと思った、わたしではどうやっても辿り着けない彼女の領域。
その緊張感すら漂う儚く静かな美しさが、評価されるべき世界がここに無いことが、本当は悔しかったのだ。
わたしは今、追求すべき道の半ばにいる。
伴走したかった相手はもういない。
ただの道行きの途中だ。途絶えたわけではない。降りたわけでも。
それでも、今わたしは彼の国を離れ住み慣れた故国に身を寄せている。
わたしは身の裡に認めた弱さを否定しない。
とにかくあの人に、会いたかった。