メロンパン
キノさんは結婚歴はなく、女性に慣れている風でも無いが、こういうお店での女性の言うことを真に受けたりはしない。
諦めというとややネガティブだが、諦観しているような雰囲気があった。
キノさんの隣に座ってから五分と経たずにまた呼ばれてしまった。
きっと私が席を立っても、キノさんは穏やかに見送ってくれるだろう。
呼ばれている席は少々圧しの強いお客様だ。そちらを先に対応した方が無難にこの場を乗り切ることができるのはわかっていた。
しかし。
そもそも今日のこの状況は私が招いたことだった。
歩合を得るために、リストのお客様の多くに営業メールを送ったのだ。
内容は率直に、しばらく出勤日が減ってしまうこと。なので、貴重な出勤日にはぜひ会いに来て欲しいと言ったもの。
ある意味稀少性を煽っての集客だ。
そういうやり方で呼んでおいて、ろくに対応されなかったなんて経験を残してしまえば、お客様は簡単に離れて行ってしまうだろう。
順調に固定客を増やし、調子に乗ってお客様をないがしろにしてしまい、転落していく元人気店の末路のようなことになるのは目に見えている。
キノさんはそうはならない可能性が高いお客様ではあるが、だからといって、楽なお客様を後回しにして難しいお客様に腐心するなんて筋が違う。
呼んだのは私なのだから、楽なお客様も、難しいお客様も平等に。そのうえで、どちらとも満足させなくてはならない。
「ごめんなさい、もう少しキノさんと話したい。おかっちには『アルテリア・ベーカリー』のメロンパンあげるから待っててって謝っておいて欲しい」
このメロンパンは冷えてもおいしいのでお土産に適している。浅草に行く予定のあった友だちに買って来てもらった。
この仕事はお客様と席を共にし、たいていの場面ではドリンクをいただけるが、フードは必ずご相伴に預かれるわけではない。
フルーツの盛り合わせなど豪勢なものを頼んでもらえる場合もあるが、食事という感じではない。接客の状況によっては、お腹に何かを入れるタイミングがほとんど取れないこともある。
そんな時に備えて、キャストはさっと食べられるパンやおにぎりを準備している。意外と賄いやお客様のご厚意で主食を食べれてしまうこともあるので、私は用意したものは明日食べられるようにと日持ちのするパンを用意することが多かった。
このメロンパンもその用途で持ってきていた。
食事する暇もないくらいのカロリー補給となった場合、心の栄養となるように。食べずに済んだとしても、仕事頑張ったご褒美としてあとで食べられるように。そんな心の拠り所のメロンパンだったが、この際仕方がない。