【頂に至らんとする者】
湖のような人だと思った。
どこまでも澄んでいて、静謐。
幻想的な物語に登場するような湖。
物語の場面を表現する音楽をその身に受け、身体のすべてを使って発露される感情。
物語の概要をあまり知らなかったわたしにも、悲恋を貫くジゼルの静かで深い情動が伝わってきた。
その日。
床に入って目を瞑っても。
スポットライトを浴びて優雅に舞う肢体が、わたしの脳裏に焼き付いていた。
その人の名がわたしのものと似ていると知った時は、運命めいたものを感じたものだ。
父が取引先の人からもらったチケットで観に行ったバレエ教室の発表会。
家族もそれなりに見入ってはいたが、魅入られたのはわたしだけだった。
簡単に辞めないことを約束し、誕生日もクリスマスもいらないと決意を見せて両親を説得し、あの人を追うように教室に入った。(両親は結局誕生日もクリスマスもやってくれた)
その人とは三年の年齢差があったため、レッスンは低学年と高学年に分かれていて違うスタジオだったが、フリーの自主練では彼女の近くを陣取り、真似るように踊った。
やがて、その人もわたしを気にかけてくれるようになった。
プリエやタンデュなど、基本的なステップでも、細かいところをどう意識するかで全然美しさが変わってくる。そんなことを目の前で見せながら教えてもらったり、コンテストのことなどを聴かせてくれたりした。
わたしには、努力をしている自負があった。
こんなに頑張っているわたしが持っていないものを、日々を場当たり的に生きている者が持っているのが気に入らなかった。
それを欠落だとするなら。
姉のように接してくれるこの人が、わたしのそれを埋めてくれるような気がしていた。
教室の発表会で初めて役をもらったとき。
出番直前の舞台袖で。
緊張を押し殺し平気そうなふりをしていたわたしの隣に立ち、出番まで手を握っていてくれた。
あの日が。
衣装の着方やドーランの塗り方などの面倒を見てくれた。
学校との両立の仕方を教えてくれた。
算数を教えてもらったこともある。
手作りチョコレートの作り方も教えてもらった。
気になる男の子への渡し方なんてのも。
あれらの日々が。
あったから、今わたしはこの場に立てている。
そして、この先へと進むのだ。
更なる高みへと挑むのだ。
そんなわたしの傍には。
もうあの人はいない。
鏡の如き湖面のような美しさをもつ彼女のダンスには、見るものに呼吸を忘れさせるような緊張感があった。そして、小石の投擲ひとつで細波が立ち、壊れてしまう儚さがあった。
いつしかわたしは、あの人が越えられなかった壁の先にいた。
それもまた、あの人がこの世界を去る要因になっていたのだとしたら。
わたしはもう、栄光を掴むまでステージを降りることなど許されない。