隠れた名前
田口が林の顔の手当てをしている。林は痛そうに言った。
「痛てぇ。あいつ思い切り殴りあがったよ。」
白川が言った。
「なぁ、あいつの言い分も一応、検証したほうが良いよな。あいつが発見した時には自分の名前だけが書かれていたって。もちろんあいつは殺人なんてした覚えはない。真犯人は瀬川さんを殺した上に、その罪を酒田に擦り付けようとした。そうなると、この5人の中に真犯人がいることになるぞ。」
白川が続けた。
「そうなると・・・。田口は可能性が低いかな。付き合っているってこともあるけど、仮に酒田に罪を擦り付けようとするなら、彼が最初に1人で遺体を発見させるような方向にはもっていかないだろう。酒田以外の誰かに第1発見者になってもらった方が、今回のような偽装をする暇もないのだから、確実だ。となると、残り4人か。」
木村が言った。
「犯行動機の面から言うと、瀬川さんと酒田の両方に恨みを持っている人ってことよね。そうそう、林さ、りえに気が合ったりするんじゃないの。酒田がりえと付き合い始めてから、急に酒田にきつく当たるようになったじゃない。」
「はあ? お前だって、瀬川さんはもちろん、酒田のことも陰で悪口言ってたよな。誠実で優しいふりして、陰で女遊びばかりしてるって。」
「おい、りえがいる前で口を慎めよ。」
白川が皆をなだめた。気付けば、外は明るくなっていた。もうタイムリミットが近づいている。
*
朝8時に白川が警察に電話した。昨夜からの経緯をほぼ正直に話した。全員の事情聴取が終わったのが、昼近くだった。雨が上がり、沼の水面は光に揺れていた。
容疑者として拘束されている酒田以外の5人は、最寄り駅まで警察の車で送り届けてもらい、寂れた駅舎の向かいにある定食屋で食事をとった。食事中は皆、無言だった。電車が到着すると、ガラガラの車内にそれぞれは分散して座った。一晩寝ていない面々は転寝し始めた。
車窓に田舎ののどかな風景が流れていく。
電車が出発して1駅通過した後、勅使河原は皆から少し離れた席にいる犯人の隣に移動した。できれば、自首してほしい。そう思って、二人きりで話せる時間を探っていたのだ。
「どうしてそう思うんですか? きちんと説明してもらえます?」
勅使河原は犯人の問いに答えた。
「黒のインクが残り少なくなっていただろう。それで、酒田の文字の一部がかすれていた。問題はそのかすれている部分だ。通常の書き順で「酒田」名前を書けば、「田」の字の最後の横棒が掠れるはずだ。ところが掠れていたのは「酒」の字の上から三番目の横棒だ。つまり、その部分が後から付け足されたことを意味する。
それからもう一点、被害者からメッセージを挟んで反対側に飛び散っていた血。あそこまでの量の血があの距離を飛び散るのは不自然だ。となると、その血痕の近くで殺害が行われたと考えられる。殺害された後に、遺体が移動されたのだ。」
「あのー、それでどうして私なんですか? 私の頭では理解できませんね。」
「まだ、しらばっくれるのか? 君は瀬川さんを灰皿で殴って殺害した。ところが瀬川さんは君の名前を床に書いてダイイングメッセージとして残してしまった。それを見た君は困惑しただろう。メッセージは消せない。そこで思いついたんだ。
遺体を引きずって180度回しながら、メッセージの反対側に持ってくる。この状態で、遺体の方からメッセージを見ると、横文字で「口田」になる。その「口」に線を足して「酒」にした。」
田口の表情が変わった。いつものほんわかした雰囲気から一転、悪魔のような鋭い目つきで勅使河原をにらんだ。そして、急に甲高い笑い声を出した。
「あーあ。ばれちゃったか。詰めが甘かったですね。マーカーのインクがちょうどなくなる頃だったのが不運でしたよ。新しいマーカーを取りに行っても良かったけど、新しいの使っても、くっきりしすぎて、もとの字と色合いが変わっちゃう。科学捜査でわかっちゃうでしょう。」
「良かったら教えてくれないか? 今回は偶発的な要素がある。計画的に罪をなすりつけるなら、最初から自分の手で「酒田」の名前を書けば良かっただろう。何があったんだ?」
*
田口は語り始めた。
「あの噂、ご存じですよね。2年前在籍していた女子部員が、瀬川さんに性的暴行されて辞めちゃったっていう話。あれ、私の高校の先輩なんです。しかも、近所に住んでいて、子供の頃から良く世話してもらっていました。彼女は才色兼備で憧れのお姉さんのような存在でした。
当時高校3年生の私は彼女と同じ大学を目指して受験勉強していたところでしたが、受験が終わるころ、彼女が亡くなったって知らせを聞きました。近所の大人たちは死因を隠しているようでしたが、だいたい察しがつきました。それで大学入学後にいろいろな人に話を聞いているうちに分かったんです。
憧れの先輩の人生を狂わせた人間に仕返しをしたかった。だから、このミステリー研究会に近づいたんです。まずは真意を確かめる機会を探していました。そして昨晩その機会が訪れました。」
*
なかなか寝付けなかった彼女は、トイレに行こうと廊下に出た。すると、大広間から明かりが漏れていて、部屋の中を覗いてみると、瀬川がスマホを見ながら、たばこを吸っていた。
「おお、田口、まだ起きてたのか?こっちこいよ。」
彼女はポケットの中に忍ばせたスマホの録音ボタンをこっそり押した。二人きりになるのはこれが始めてだった。心臓が大きく波打ち、手の平が汗で湿るのを感じた。震えそうになる声を押さえて、訪ねてみた。
「先輩、前から聞いてみたかったんです。先輩の良くない噂を耳にしちゃって、あれって誰かのでっち上げですよね。そうは思っても、何か気になっちゃって、へへへ。」
「ああ、あれか。あれは、あの女の妄想だろう。自分から誘っておいて、被害妄想を抱きあがって。こっちがいい迷惑だよ。まあ、こっちは存分に楽しめたから、いいんだけどな。それにしても顔も体もいい女だったな。記念撮影でもしとけば良かったよ。」
心の奥底から、不安を凌駕するほどの怒りが込み上げてきた。
「その人がその後、どうなったのか知ってるんですか?」
「なんだよ、急に怖い顔してよ。」
彼は立ち上がって、入口のほうに歩きだした。ドアの前に来ると内側から鍵をかけ、蛍光灯のスイッチを押した。中央の一か所を除いて灯が消えた。
「お前、もしかして、あの女の知り合いか? まあ、いいや、ついでに一つ、良いことを教えてやるよ。お前が付き合っている酒田、あいつもああ見えて、女遊びが激しいんだぞ。あいつの甘いマスクとトークに女は弱いんだな。これ見てみろよ。」
彼はスマホを取り出して、そこに映る写真を彼女の目の前に突きつけた。そこには酒田が見知らぬ女性と裸でベッドに入っている姿が映っていた。
「動画もあるんだぜ。あいつはそれを業者に売りつけてるんだよ。同じことやってる部員が他にもいるぞ。それに比べたら俺の方がましだろう。お前はあいつともうやったのか?」
「き、鬼畜め・・・」
「実はな、お前の知り合いっていう女、あれも酒田と二人で犯したんだよ。酒田は俺と同郷なんだ。当時高校性だったあいつが、どうしても大人の女性とやってみたいっていうからさ。
ん? おい、お前! 何か細工してるな、スマホ見せてみろよ。」
彼女は怖くなって逃げようとしたが、瀬川に腕をつかまれると、声も出せないうちに、口に布を詰め込まれて、押し倒されてしまった。
「お仕置きだ。お前にも同じことしてやるよ。」
彼女は傍にあった灰皿をつかんで、瀬川の頭を殴った。彼は動かなくなった。頭から血が流れ出ていた。
怖くなった彼女は彼を振りほどいて、ドアまで走って鍵を外し、もう一度室内を振り返った。うつ伏せになって動かない彼の手にはマーカーが握られており、床に何かの文字が書かれている。彼の近くに戻って確認した。自分の名前を示す黒い文字が見えた。彼はもう息をしていなかった。
*
「それから先はあなたが推理した通り。酒田に裏切られた怒りもあった私は、彼に罪を擦り付けることにも躊躇はなかった。もっとも、彼を第1発見者にする必要はなかったんだけどね、どう反応するか興味があっただけ。結果的に二重トリックになって私にとっては有利な方向に働いたけどね。」
「そうか、じゃあ、その録音データを提示すれば正当防衛も可能だろう。自首したほうが得だと思うね。それで、あいつらと同じことをやっている部員が誰なのかは言ってたか?」
「うん、言ってましたよ。ちゃんと録音されてます。後日のお楽しみですね。私自首することに決めましたから。」
話し終えると、田口はいつものほんわかした表情に戻っていたが、その裏に潜む狂気を勅使河原は感じ取っていた。