ここにはない名前
林は体から血の気が引くのを感じた。きっと今の自分の顔は青ざめていることだろう。反発せずにはいられなかった。
「ちょ、ちょっと待てよ。こんなんでジャッジするなんて短絡的すぎないか?」
木村も声を震わせて言った。
「そ、そうよ。書けるヤツが犯人でさ、わざと書けないふりをしたってこともあるわよね。書けないヤツに罪を擦り付けるためにさぁ。」
動揺する二人をなだめるように、酒田が穏やかな口調で話しかけた。
「まあ、落ち着けよ。もしも、瀬川さんを殺した犯人がメッセージを偽造したとしたら、その場でスマホ使って漢字変換しているうちに思い出すこともあるだろうし、名前で勅使河原さんを電話番号登録してれば、一瞬でわかるだろう。スマホさえあればなんとかなるんじゃないか。ところが、瀕死の状態の瀬川さんなら、調べる余裕なんかないだろう。そうなると、瀬川さんが自分でメッセージを残した可能性が高いよ。」
勅使河原が無機質な声で口を挟んだ。
「そうとも限らないよ。何らかの事情で、犯人は犯行時にスマホを持っていなくて、取りに帰っている暇がなかったかもしれない。もしくは、調べてもわからなかったとかね。」
額から湧き出る汗をぬぐいながら、林は語気を強めた。
「おい、勅使河原さん!そんなに俺たちを犯人にしたいのかよ!酒田の言う通りだ。犯人ならあんたの名前を調べるぐらいの余裕は十分にあったはずだよ。だから、犯人はわざと書けないふりをしたか、そもそも瀬川さん自身が書いたか、そのどちらかだよ。」
木村も続いた。
「それにさ、犯人が犯行現場で勅使河原さんの名前を調べられなかったとしてもよ、私たちが駆け付けて死体発見するまでの間にいくらでも時間はあったわけよね。だから、この抜き打ちテストでは正解を書けたのよ。」
少しは冷静さを取り戻したようだ。林は落ち着いた声で加勢した。
「そうだよ、だから他の3人が犯人の可能性もあるわけだよ。それにさ、勅使河原さん、あんただって怪しいよ。自分の名前が難しいのをいいことに、わざと平仮名で書いて知らないことを装った。書いた本人が自分の名前を知らないはずがない。自分は真っ先に犯人候補から外れるわけだ。」
「もう、それぐらいにしましょう。とりあえず、この部屋を出ませんか?」
いつの間にか座り込んでいる田口を介抱しながら、酒田が優しい声で言った。
*
6人は食堂に集まってテーブルを囲んでいる。田口は顔色が悪かったが、何とか気持ちを落ち着かせたようだった。
白井が話を切り出した。
「田口さん、発見した時のことを教えてくれるか?」
「はい。私、夜中に目が覚めて、1階のトイレに行きました。それから、自分の部屋に戻ろうと、廊下を歩いているときです。悲鳴と何かが倒れる音が聞こえました。その時は、怖くてすぐに部屋に入ったんですけど、しばらくして、そのままにしておくのもまずいと思って、隣の酒田君の部屋をノックして、声をかけました。」
酒田がフォローする。
「それで、おれが大広間を見に行ったんです。りえが大広間の方から聞こえた、って言うし、確かに入り口のドアは少し開いていて、廊下に光が漏れていました。なので、大広間の中から悲鳴が漏れても不思議はないですね。それで、瀬川さんが倒れているのを発見して、みんなを呼びに行ったんです。」
白井は田口に質問した。
「田口さんはどうして、酒田に声をかけたんだ。」
林が代わりに答えた。
「白井さんも知ってるでしょう、二人は付き合ってんだからさ。ほんとは同じ部屋にいたんじゃねえのかぁ、お前らぁ。」
「まあいい。時間を追って整理してみよう。」
白川は全員から昨日の夕方からの行動についてヒアリングした。
ポスター作製が一段落した午後7時に大広間に机を並べて食事をとり、酒を飲んだ。そのときは、瀬川も含めて全員がその場にいた。
女性二人は8時に切り上げて、食器を洗った後、シャワーを浴びた。それから木村の部屋で10時まで話をした後、田口が自分の部屋に戻った。
白川と勅使河原は9時半に切り上げて自分の部屋に入った。
林と酒田はいつの間にか眠りこけていた瀬川を放っておいて、10時頃に大広間を抜けた。
そして、遺体が発見されたのが、翌日の深夜1時ごろ。
「10時以降、全員のアリバイが成立していないってことか。」
白川がまとめると、沈黙が部屋の空気を支配した。降りやまぬ雨が沼地の水面を打ち続けている。林が耐え切れなくなったのか、口を開いた。
「おい、本当にこの中に、殺人犯がいるってことか。だれだよ、正直に言ってくれよ。」
白井は林をなだめようとした。
「落ち着け、お互い疑心暗鬼になるのはわかる。そうやって感情的になって真実がねじ曲がってしまうのがいけない。」
勅使河原が立ち上がった。
「俺はもう少し現場を観察してみるよ。ここで考えても埒が明かないだろう。」
食堂を出ようとする勅使河原に林も続いた。
「俺もいくっす。一人にして証拠隠滅されたらたまりませんからね、へへへへ。」
長身の勅使河原の後を小太りの林が付いていく。
二人が食堂を出て行ったあと、酒田が言った。
「部外者の仕業と言うことはないのでしょうか。空いた窓から侵入したとか。俺たちが来る前から部屋に潜んでいたとか。まあ、従業員証のIDで玄関を開けたなら記録に残りますかね。」
「ああ、それをこれから確かめに行こうと思うんだ。それは男性陣の仕事だな。一緒に行こう。」
白川はそう言うと立ち上がった。
*
白川は酒田と共に空き部屋のドアを開けて、明かりをつけ、ドアの鍵を確かめて回った。建屋は2階建てで、宿泊部屋は計30になる。7人はすべて1階の部屋を取っている。高さのある2階からの侵入は難しいと思われたが、念のため全部屋を調べることにした。
こんなときにも穏やかな表情を崩さない酒田が話しかけてきた。
「先輩はだれが犯人だと思います。やっぱりこの中の誰かが怪しいですかね。」
「瀬川さんのことはみんな嫌ってる。でも、このメンバーの中に殺意までを持つような人間がいるようには思えない、ってのが正直なところかな。いたら、ほんと人間不信になるよ。できれば、部外者であってほしいわ。」
「そうなるとあのダイイングメッセージは偽装になりますよね。俺たち全員を殺人犯に仕立て上げようとした部外者の仕業ってことですね。」
「なんか腑に落ちないんだよ。それならあんなメッセージなんてなくても、この研修所自体が密室みたいなものだろう、どうせ俺たちが疑われる。だいたい、6人で殺すってどんな状況だよ。5人が瀬川さんを押さえつけて、1人が灰皿で頭を殴る、ってな状況を部外者である犯人は想定したわけか。」
「確実に俺たちに罪を擦り付けたかったんですかね。とすると、ミステリー研究会に恨みを持つ人間の仕業ですか?それとも何かの挑戦状でしょうか?お前ら、この謎を解いてみろ、みたいな。」
「わざわざ、俺たちに学園祭の発表ネタを提供してくれたってわけか。だが、俺たちに恨みを持つ者も、実際に殺人を犯してまで挑戦状をたたきつけるヤツも、思い当たらないがね。」
そのとき、白川は不意に2年前に在籍していた女性部員を思い出した。白川が1年生の時のことで、彼女は1つ上の学年だった。彼女なら瀬川はもちろん、部員の何人かに恨みを持っているかもしれない、しかし、それは不可能だ。彼女はこの世にいないはずなのだ。
「あれ、ここの窓の鍵、掛かってませんよ。」
酒田の声でふと我に返った。
それは1階の西の隅、大広間にもっとも近い部屋の一つだった。