45.とても有能な秘書
「社長こんな所でなにしてるんですか!? さっさと逃げてください! わたしと別方向に!」
「足を怪我した! 頼む! 運んでくれ!」
「嫌です!」
どれほどの怪我をしたかは知らない。ズボンの上から右膝を押さえている。見たところ出血はしてない。
社長がいるのに気づかなかったのは、彼が事務机の陰に隠れていたから。
たぶん、膝を机の足にぶつけたとかだろう。勢いがありすぎて骨折してたなら申し訳ないけど、実際は打ち程度の怪我だと思う。それくらい我慢して走ってよ。
いや、それどころじゃない。
「そうだったゾンビ! うわー来てる!」
さっきのゾンビが至近距離まで来ていた。灯里はすぐに立ち上がって離れたけど、ゾンビの狙いは手前にいる社長みたいで。
「やめろ! 誰か! 助けてくれ!」
「かしこまりました、社長」
身勝手な理由でこんな所まで来た社長を、まさか助けに来てくれる人がいるなんて。
迫るゾンビに社長秘書の冴子が肉薄。素手だと思っていた彼女の手から、突如として光る棒が現れた。よく見れば先端に刃のついた、槍だった。
それでゾンビの体を薙ぎ払う。
横からの衝撃にゾンビは大きくよろめいた。その隙に冴子は一旦槍を消してからゾンビに向き直って再度槍を飛び出させるように出す。
ゾンビの脳天を背後の壁ごと貫いて殺した。
「お前……どうしてここに」
社長が驚きながら立ち上がり、冴子の方を見て尋ねた。
「配信の様子を見て、社長が敵に襲われる危険が高いと判断しましたので、勝手ながら行くことにしました」
「そ、そうか! さすがだ!」
危機的状況を救ってくれた秘書に感謝する社長。冴子も満足げに頷いた。この社長のこと、そんなに大事なのかな。
「わたしだけではありません。ルイスも一緒に……ルイス?」
あの人も来てたの? けどその姿は見当たらず、冴子も振り返って怪訝な声をあげた。
けど、本当はそれどころじゃなくて。
「あの! ふたりとも! 周り見て! うわー!」
横から二体のゾンビが同時に襲いかかってきた。
社長のことを尊敬しているはずの冴子は、横からの気配に社長ではなく自分を守るように咄嗟に槍を構えた。社長の前に出るみたいなことはしなかった。
そしてゾンビは、無防備な社長に襲いかかった。
もう一体のゾンビは灯里に襲いかかった。灯里も咄嗟に後ずさったけど、ゾンビの方が早かった。しかも体力も体重もあって、あっさり押し倒されてしまう。なんとかゾンビの両手首を掴んで押し返そうとするけれど、無理そうだった。
「あああああ! 誰か! 誰かー! 助けてください! 誰か! なんなら今度配信でコラボさせてあげますから!」
「そう簡単に自分を安売りするものじゃないよー、灯里ちゃん!」
灯里を助けたのは桃香だった。ゾンビの頭をスパナで叩いて灯里の上からどかせた。
「うわああああ! ありがとうございます桃香さん! コラボしますか!?」
「しないから。仲間でしょ? 助けるのは当然」
「桃香さん良い人ー! 一番頼れます……じゃなくて社長!?」
桃香と一緒にとりあえずゾンビから離れた灯里。社長はゾンビに襲いかかられて、一瞬で喉を食いちぎられたらしい。ゴボゴボと血が吹き出ている。もちろん、そんなことになったら人間は生きていられない。
「社長……?」
この人は社長のこと気にしてるのかしてないのか、どっちなんだろう。ゾンビに襲われている社長を咄嗟に助けることはなく、数秒の間呆然としながらなんとか新しい槍を作って助けようとした。
その目は社長の方にしか向いておらず、背後から迫るスケルトンに気づかなかった。それは剣を装備していて、直前に気づいた冴子もスケルトンの一撃を完全に避けることはできなかった。
肩に刃を受けて膝から崩れ落ちた冴子は、すぐさま槍を振って敵を排除しようとした。
できなかった。傷を受けたせいなのか、冴子の腕から槍は消えてしまって、そのままスケルトンに倒された。
顔だけ上げて、弱々しい目を向けていた。あなたが死ねばいいのにと言っていた人間が、こっちに助けを求めていた。
でも、灯里には助けることなんてできない。できるかもしれない桃香はといえば。
「あの穴……前に壊れたアンテナに開いてた穴に似てる?」
一瞬だけ、壁に開いた穴に気を取られて反応が遅れてしまった。さっき冴子が開けたもの。
なんの話をしているんだろう。たぶん桃香にしかわからないこと。
「た、助けて……」
ようやくそう口にした冴子だけど、直後にゾンビ化した社長がその体にのしかかった。キスするように、美人だった顔を貪り食っていく。ゾンビにしても必死な動きだった。
このふたりが愛人関係っていうのは真相不明の噂でしかない。けれど、社長が冴子さんのことを好きだったのは間違いないな。
社長と同じように喉を噛みちぎられて、ついでにキスするように唇や鼻まで貪り食われた冴子が死んでいくのを、灯里は見ていることしかできなかった。
――――
こんな混戦、いつ敵が肉薄してくるかわからない状況だ。その中で近接戦闘が苦手な弓使いが取るべき戦い方はひとつだ。できるだけ敵から距離を取る。
敵から逃げるという意味ではない。距離は、別に平面方向に限らない。垂直方向に逃れてもいい。
葵は弓使いとしての心構えをよく学んでいた。ダンジョン出現の影響で出来た、素人の有志の作った考察系ホームページで得た知識だとしても、無いよりはましだ。
だから葵は詰め所の隅にあった掃除用具入れのロッカーの上に登って、そこから矢を射た。スケルトンたちを一体ずつ、確実に殺していく。
しかし、この場所は目立ってしまう。登ってから数分も経たないうちに、複数のスケルトンが一斉にロッカーの方へ押し寄せてきた。
順番にその脳天を射抜く。重そうな、鎧のスケルトンからだ。
けど全部は無理だった。一体だけ、装備を持たないスケルトンがロッカーにぶつかった。
ただの骸骨は人間よりもずっと体重は軽いはず。だからぶつかっても衝撃は少ない。そう思っていたけど、ロッカーは想定よりも大きくガタガタと揺れた。
なぜか悲鳴みたいなのも聞こえた。
「あ、やばい」
その原因について考える暇もなく、葵は床に落下していく。