53. 嵐の中の平穏
ドゥアニの抵抗は、タラムの街の貧民区画に住む荒くれ者たちの矜持を刺激した。
なんの力もないはずだった孤児が、不思議な力を使って逃げ回り、それを未だに捕まえることができない。
その状況を受けて、最初は下っ端の仲間が、次はその少し上の者が、やがては犯罪組織の構成員が、ドゥアニを捕まえて実力を示してやろうと立ち上がりだした。
逃げ回るドゥアニには追い払う相手の誰もが同じように見えただろうが、犯罪組織の構成員から逃げ切ったところで、とうとう犯罪組織が本気になってしまう。
孤児1人捕まえることができないとなれば、暴力で身を立てている犯罪組織の沽券に関わってくるからだ。
面子を保つためなら、どんな手段でも講じるとばかりに、犯罪組織は多量の構成員を放って、ドゥアニないしは仲間の孤児たちを捕まえようと動き出す。
ドゥアニ自身を捕まえられれば最上で、仲間の孤児を盾にして逃げることを封じてもいいと狙って。
ここで予想外だったのは、貧民窟に屯していたはずの孤児の数が――特にドゥアニと親しくしていた孤児たちが激減していたこと。
しかも減った孤児たちの行き先が、真っ当な職業の弟子や丁稚だったことも、想定外だった。
職人や商人は横のつながりが大事な職業である。
支度金を貰って受け入れた弟子や丁稚を、犯罪組織が怖いからと売り渡しては、身内すら守れない腑抜けだと同業連中から信用を失ってしまう。そうなっては商売が成り立たない。
だから職人や商人は、犯罪組織に和解金を支払うことはあっても、従業員を渡すことは決してない。
犯罪組織にとって、いま重要なのは逃げ続けるドゥアニを捕まえる方法――ドゥアニの元仲間を使ってのおびき寄せであって、和解金ではない。
ドゥアニの元仲間が手に入らないと分かり、犯罪組織は原始的な手段を取るしかなくなった。
構成員の数を生かしての、人海戦術だ。
犯罪組織の面子を懸けての捜索に、ドゥアニと荷物持ち仲間は隠れることを選んだ。
隠れ場所は、細身の子供だけが入れる建物と建物の隙間を通った先にある、2メートル四方ほどの小さな空き地。
空き地に安置していた半壊れの板で出入口を塞いでしまえば、通りから隙間を覗いた者がいても建物の壁にしか見えなくなり、空き地の存在を隠せるようになっている。
ドゥアニは仲間と共に出入口を板で塞ぐと、共に地面に座り込んで安堵の息を吐いた。
「これで、しばらくは大丈夫なはず」
この空き地に入るには、細身な子供じゃないと無理で、それこそドゥアニの身体でギリギリ通れる上限だ。
犯罪組織の構成員が居場所を見つけたところで、入ってくることは不可能といえる。
しかし、大人が入る方法もなくはない。
それは、この路地を囲っている建物を打ち壊したり、建物の屋上から飛び降りてくるかだ。
それでも、建物を壊そうとすれば破壊音で把握できるし、屋上から飛び降りてくるのならドゥアニの喉に宿った力で対処することができる。
「あとは救援が来てくれるまで持ちこたえれれば」
ドゥアニは連続使用で掠れ始めた喉を摩りつつ、騒動が始まる前に買い込んでいた食料の包みを開ける。
走り回って逃げてきたため、小腹が空いている。
これから先、どれだけ騒動が続くか予想不能のため、この空き地で休んでいられるうちに栄養補給する必要があった。
ドゥアニが腹持ちが一番良い食べ物を選んで食べようとすると、共に逃げてきた仲間の1人がおずおずと声をかけてきた。
「ドゥ兄。水、ある?」
「水って、水筒の中身は?」
「逃げている間に、飲んじゃって」
この空き地に井戸はない。そもそも貧民が住む区画には、まともな数の井戸がない。そしてその井戸は、近場の有力者が占有していることが多い。
だからドゥアニのような孤児たちは、貧民区画の外の井戸で汲んだ水を革の水筒に入れて、それを日々の飲用水にしている。
そんな貴重な水を飲み切ってしまうことは、往々にしてないことだ。
しかし、貧民区画で大勢の人間に追われるという非常事態を受けて、焦りと恐怖で乾く喉を潤すために水の残量を気にせずに飲んでしまったようだった。
それは声をかけてきた孤児だけでなく、ドゥアニ以外の全員が水を切らしているようだった。
ドゥアニは溜息を吐きたい気分だったが、自分の水筒にある水を人数で等分にした。
「次に水を汲めるのがいつか分からないから、少しずつ大事に飲むんだぞ」
「う、うん。ありがとう」
仲間が嬉しそうに水を口に含む中、ドゥアニは喉の渇きを唾で誤魔化すために食料を必要以上に噛んで食べて行く。
そうやって多少は腹が満ちたところで、ようやく1口だけ水を取った。
それは喉の渇きを潤すためではなく、発声に使う喉の調子を整えるための水だった。
「さて、逃げ道の確保もしておかないと」
この空き地は、四方を建物の壁で囲われている。
だがその壁は建物のものだけあって、出っ張りが多くある。
身軽な子供なら、その出っ張りを手足を使うことで、壁を上ることが可能だ。
問題があるとするのなら、風雨にさらされた外壁が汚れているため、その汚れで掴んだ手や踏んだ足が滑る可能性があること。
いざというときに逃げだせるよう、それらの汚れを払っておく必要があった。
ドゥアニは、ボルダリングのように外壁の出っ張りを手と足で登りつつ、その出っ張りの一つ一つを払って汚れを落としていく。
そうして屋根の上までの道を掃除し終えたところで、今度は逆の順序で降りていく。
屋根まで上った際に周囲の様子を確認してみたが、建物の屋根にまで登ってドゥアニたちを探しているような人物はいなかった。
「まだ休む猶予はありそうだ」
ドゥアニは空き地の地面に降りた際に、仲間にまだ安全だと身振りで示した。
それからドゥアニたちは小一時間ほど、探して走り回る犯罪組織の構成員の声と足音を遠くに聞きながら、ゆっくりと休憩をとった。
ドゥアニが休み飽きて、救援はまだかとやきもきし始めた頃、空き地の空が陰った。
構成員が覗き込んできているんじゃないかと、ドゥアニが焦って上を見上げる。
確かにそこには空き地を覗き込む人物がいた。しかしそれは、犯罪組織の構成員ではなく、ドゥアニの見知った人物。
1人離脱させて才牙に助けを求めにいった、軽身のエッセンスを身体に宿した少女だった。
少女はドゥアニたちの姿を見つけるや、嬉しそうな笑顔になって屋上から地上へと飛び降りてきた。
普通の子供なら大怪我確定の高さからの自由落下だったが、軽身のエッセンスのお陰で怪我なく着地してみせた。
待ちわびた救援の登場に、孤児たちが喜びの声を上げそうになるが、ドゥアニが大慌てで口を塞いで阻止した。ここで歓喜の声を上げたら、近くの犯罪組織の構成員が聞き咎める可能性があったからだ。
「――それで、君1人だけってことはないよね?」
才牙が質問すると、少女は答えを返す。
曰く、ドゥアニたちが宿屋まで逃げきらないと、才牙は助けようとしてくれないこと。ミフォンとアテタが助けに来ようとしてくれたが、貧民区画に入る手前で犯罪組織の構成員に他の住民と同じように足止めされてしまっていること。
それを聞いて、ドゥアニは最善ではないが、最悪でもない状況だと胸をなでおろす。
「なら、宿屋まで逃げ切らないとだね。ミフォンさんとアテタさんが居る場所は、どこかわかる?」
少女が力強く頷いたのを見て、ドゥアニは空き地から出て宿屋まで逃げる決断をした。
仲間と共に壁伝いに屋根まで上り、そしてまずは貧民区画の外にいるという、ミフォンとアテタに合流することを目標にいして走り始めた。