009:マーケット F
マーケットFの語源は誰も知らない。Fake(偽造)、Finesse(手際の良さ)、Freedom(自由)、Fear(恐怖)。利用客による解釈はさまざまだが、その多様性が店の本質を表しているのかも。ちなみに、個人的にはFetter(足鎖)だと思っている。
取引した回数は片手で数えるほど。依頼主にすっかり騙されて、企業スパイの濡れ衣を着せられた挙げ句、社内法務部に緊急身柄拘束の要請を出された案件B-38293。情報金庫の入退出キーを紛失して、顧客の偽装兵器を暗号化ボックスから取り出せなくなってしまった案件F-54729。軍事複合企業から依頼された要人の身辺調査で、内部セキュリティ部隊に監視経路を逆探知され、拠点のネットワーク防壁が陥落しそうになった案件M-20283。どの取引も、思い出したくもない仕事の失敗と収拾に関係したものばかり。
「はいはい。こんにちは。お久しぶりでございます」
通信経路が開通すると同時に聞こえる特徴的な波形。性別も年齢も感情すらも読み取れないが、それでいて人間味を微かに含むニュートラルな声。機械的なしくみで生成された合成音声だと思うが、似たような声は他所では聞いたことがない。多分、特注品。
「あらあら。経路の偽装は3段階と少なめ。暗号化スイートは処理負荷の低い簡易的なプロトコルで構成。通信防壁には割高の一時レンタルサービスを利用。通信ライムラグと経路偽装パターンを読み解くと、場所はバックアップ施設か署名付与検証センターあたりでしょうか。ずいぶんと危機的な状況に追い込まれているようにお見受けします。もっとも、弊社との取引を希望するお客さまはの多くは、危機的な状況が大好きなようですが」
「脆弱性の情報を探している。マークル・ウォール社による自立型エージェントでモデル名はT-19937」
「まぁまぁ。あの会社は、優秀な製品を創りますからね。しかも最新型となると、どこまでお力になれるか。しばしお待ちを…。そうそう、相棒のエリザベスさんはお元気ですか?あなた様も、ここまでの展開は予想外だったのではないでしょうか。とても興味深く、今後が楽しみで仕方ありません。是非よろしくお伝えください。…対象製品に関する脆弱性の情報が3件見つかりましたので、概要をお送りします」
・攻撃α:前面の情報表示エリアに任意のデータを表示できる。開発者が仕込んだ無害なお遊び。いわゆるイースターエッグ。
・攻撃β:[[検閲により消去]] 機能を利用して、[[検閲により消去]] を発生させる。対象に1回のみ適用可能。近い将来にセキュリティ・パッチにより塞がれる可能性が高い。
・攻撃γ:[[検閲により消去]]
脆弱性は不安定な情報の集合体。些細な情報が起点となり、その経済的価値が一瞬で消失することも多い。それゆえ、商品としての脆弱性は露出を最小限に抑え、その価値が棄損しないよう慎重に取り扱われる。まるで外界を知らぬ箱入り娘のように。
「ほんの少し、足止めできればいい」
「なるほど。本来であれば、罰則付き秘密保持契約への署名と情報展開に対する別料金をいただくところですが、弊社とあなた様の間柄を考慮して、今回は特別にサービスといたしましょう。攻撃βは強制的なシステム再起動を発生させます。おそらく、目的を達成できるかと」
「他の攻撃は?」
「攻撃γは、基盤OSに作用する汎用的な攻撃方法で、とてもとても高価です。そのため残念ながら、現状ではこれ以上の情報はお伝えできません。攻撃αは、例えば自立型エージェントの頭部を虹色に光らせて、切迫した雰囲気を和ませる、といった使い方が可能です」
「…どちらも遠慮しておこう」
「それでは、攻撃βの取引を検討いたしましょう。あなた様の信用情報と売上予測をもとに支払い方法をシミュレーションすると、売上の13%を返済する条件で、72回の分割払いが設定可能です。もちろん弊社としては一括払いが好ましいのですが、金額的に少し難しいかと」
難易度C+の小遣い稼ぎ程度だった仕事が、気がつけばハイリスク・ハイリターンの高額ギャンブルに様変わり。消耗した各種装備、施設へのバックドア、積み上げた信用スコア。撤退するという選択肢は残されているが、失うものを考えると手ぶらで帰るわけにもいかない。かといって、さらに賭け金を積み上げるのも躊躇する。
「どうやら、悩ましい問題のようですね。1つ提案がございます。弊社が請け負う、とある企業に対する調査案件において、脱落者が数名ほど発生しております。そこで是非、あなた様に補充要員として調査案件に参加していただけないかと。仕事全体の難易度はSとなりますが、担当いただくのは後方支援が中心ですので、難易度は緩和されます。もちろん、攻撃βの費用と案件参加の報酬は相殺させていただきます。また、仕事が失敗するようなことがあっても、ペナルティはございません」
難易度Sの企業調査。複数の脱落者。売上8ヶ月分の報酬。失敗に寛容。どう考えてもヤバい仕事。普通に考えれば断るべき。しかし。
「独立型の捕獲トラップ FL-A12を、追加で3ダース用意して欲しい。それで取引する」
好奇心は抑えられない。高度なAIの能力、高額な脆弱性、高難易度の仕事。こんなにも魅力的な事象をどうして見逃すことができようか。
「取引成立でございます。攻撃βの脆弱性情報と捕獲トラップについては、いつもの場所に格納いたしました。解錠もいつもの鍵をお使いください。参加いただく仕事の詳細については、後ほど詳細をお送りします。久しぶりにお話できるというのに、世間話の一つもできないのは至極残念ですが、今回はこれにて失礼いたします」
さあ、これで撤退という選択肢はなくなった。




