ベルメールの作法教育
夫への愛。
子どもへの愛。
「私はいったい何をすればいいんだろうか」
子育てガイドラインが欲しいと、本気で思った。
学習指導要領があれば、子どもたちに何を教えればいいかが載っているはずだ。
必要最低限のことをわかりやすく教えれば、大体の子は理解できる。
理解できるが、期限付きだ。
一生懸命、私が教えたとしても、彼らは面倒くさそうに学び、年を経るごとに忘れていくだろう。
だから、必要最低限で良い。
ならば、娘に対する愛情はどうだろうか。
子どもなら、どうせ思春期になり、親に対して反抗的になるだろう。それならば、子どもへの愛情ですら、必要最低限で良いのではないだろうか。
「ベルメール・アンペラール皇后のおなりです!」
オランジェ姫の居室や教育の場は父親である皇帝と同じ「マルス宮」にある。
そこの大広間で、オランジェ姫は作法の練習をしていた。今日の作法は「歩き方」らしい。
そういえばと、私は自分の歩き方を意識した。もともとが「王国」の王女だったから、必要な作法や知識は身に着けていたらしい。
自然とこの帝国の言語や皇室の作法を身に着けている。
自分が自分でないように感じた。
私は開かれた扉から、オランジェ姫のいる大広間へと入った。
そこには厳格そうな細い灰色の瞳と年輪を重ねた顔を持つ女性がいた。年は60から70歳ほどであろうか。
その女性の前を、紫色のふわっとしたくせのあるボブヘア。髪の色に合わせた紫の瞳。白い肌に、赤みがかった頬。人差し指で押してしまったら潰れてしまいそうなほどに繊細な子どもが緊張した表情で歩いていた。
第一印象は「思ったよりもかわいかった」ということだ。
幼児性愛者ではないが、純心無垢な顔は庇護欲をくすぐってくる。
思わず、ベルメールの過去の記憶が頭の中を駆け巡った。
彼女は「私が憑依する前」は、執拗にオランジェ姫をいじめていた。
いじめ、だと生易しいのかもしれない。
虐待。
彼女の頭を思い切り叩いたり、本や皿、ティーカップを投げつけたり。
彼女はもともと、漆のように艶のある長い黒髪だった。
しかし、ベルメールは魔法で彼女の髪の毛を染め、そして理容師に金を渡してバッサリと切り刻んだのだ。
「なんてひどいことを……よりによって髪の毛を」
私は小さい声でつぶやいた。
ベルメールの記憶では、オランジェやオランジェの侍女たちは彼女の美しい黒髪をとても気に入っていた。何よりも、前皇后(つまりはオランジェの実の母親)が彼女と同じ黒髪であり、皇帝は見惚れていたという。
ベルメールは決して醜い女性というわけではない。
神々しいまでに輝きを放ったプラチナブロンド。前髪はぱっつんと整えており、腰まで伸びている。
「王国」の王女の中で、ベルメールはとりわけ容姿にも恵まれていた。宝石のように青い瞳、スレンダーで華奢な身体。シルエットや体型が重視されるようなドレスは、たいてい着こなすことができた。
しかし、「帝国」に彼女の居場所はなかった。
前皇后以下の皇后。皇帝がベルメールの初夜を共にしなかったことは、彼女のプライドを深く傷つけたのだ。
「愛されなかった人間が、愛を与えないといけないとは……最悪だな」
神の采配は非常に残酷で、冷酷ではないだろうか。
私がやってきたことで、オランジェ姫の顔色は青くなった。
虐待をしていた継母が予告もなくやってきたのだから、楽しいことではないだろう。
「帝国の偉大なる月に、ご挨拶申し上げます」
教育係である老齢の貴族、アレッサ・ウィンター侯爵夫人は皇室の礼儀作法で挨拶をしてきた。これも授業の一環であるとオランジェ姫に例を見せつけている。
模範的な綺麗なカーテシーであった。
「て、帝国の……」
オランジェ姫もウィンター夫人に倣って、私に挨拶をしようとした。
白い小さな手が青色のドレスの裾を握りしめ、片足を斜め後ろにひこうとする。
しかし、足元がおぼつかず、震えていたこともあって、オランジェ姫は赤色の絨毯の上で尻もちをついて転んでしまった。
その場の空気が凍り付いた。
ピシっという音まで聞こえてきた気がする。
周囲の侍女たちも、扉の前にいた護衛の騎士たちも、どうしたものかと緊張した面持ちで状況を見守っていた。
ウィンター侯爵夫人も青ざめた顔をして「私の教育不足でございます」と、それでも礼を失しずに頭を下げたまま私に接していた。
オランジェ姫は、今にも泣きそうな顔で私を見上げていた。
どうしたものかと、私は逡巡する。そして、ゆっくりと彼女に近づいた。
オランジェ姫はとっさに自分の頭を両手でかばう仕草をした。おそらく、条件反射になってしまうほどに、ベルメールに殴られる日々を送ったのだろう。
私は、そんなことしない。
する必要もないし。
私はオランジェ姫の両脇を抱えて立ち上がらせた。
「レディがいつまでも地面に座るものじゃない……」
私はそう言ってオランジェ姫のドレスについた埃を手で払う。
オランジェ姫は私がドレスをはたくたびに、びくりと肩を震わせていた。
「オランジェ。あなたはまだ子どもだから、カーテシーは多少、省略しても構わない。裾を力強く握りしめるのではなく、指先でつまむ程度で良い」
私はオランジェ姫の手を握り、ドレスの裾を指先でつまませる。オランジェ姫は顔色は悪かったがおとなしく従っている。
「あと足は、別に動かさなくていいから。私はあまり気にしないわ。陛下はどうかわからないけれど、一度聞いてみなさい。あなたが敬意を払う必要があるのはこの国では二人だけ。父親である陛下と義理の母親である私だけだから」
私はオランジェ姫の足を直立姿勢に整えた。
「皇妃殿下はどうするのですか?」
オランジェ姫は恐る恐る私に尋ねてきた。
「あの人は皇后よりも格下よ。あなたのお母さんは皇后だったのだから、皇妃に敬意を払う必要はないわ」
ベルメールは皇妃を嫌っていた。皇妃も彼女を嫌っていたが、同時に前皇后の娘であるオランジェ姫のことも嫌っていた。
だからこそ、皇妃がベルメールを挑発するときは常にオランジェ姫が引き合いに出されたのだ。
その挑発に常に乗っかり、ベルメールはさらにオランジェ姫への憎悪を増幅させていた。
しかし、「帝国」の序列としては皇帝がトップに君臨しており、二番目に帝国の中で権力を持つのは政務の一部を担っている皇后だ。そして、その娘は序列としては三番目になる。
もし、男の子が産まれてしまえば、オランジェ姫は序列が四番以下になるが、今のところ皇子が産まれたことはない。
そして皇妃は現状、四番目の序列であり、ベルメールよりも権力はない。
「あの人があなたに何か言ってきたとしても、無視しなさい。あなたはあの人よりも偉大なのだから」
私はオランジェ姫に略式カーテシーの反復練習をさせながら、淡々と教える。
「あなたへの挨拶を覚えている? “偉大なる帝国の花 オランジェ・アンペラール皇女”をつけなければならないわ。それは覚えておきなさい、オランジェ姫。この正式名をつけないということは、あなたの権威に歯向かうということだから」
「は、はい……」
本当は歩き方の作法にも一言物申しておきたかった。
つい教育者になりたかったという思いが先だってしまい、教え込んでしまった。
オランジェ姫は緊張で汗をびっしょりとかいていた。呼吸も少し乱れているし、まだ震えが止まっていない。
しかも、何が起きているのか理解していないのか、混乱したように私の顔色を伺っていた。
これ以上はオランジェ姫の精神衛生にもよくないのかもしれない。
虐待しつづけてきた継母が、いきなり礼儀作法を教えだす。
子どもにとっては、とてつもない恐怖と焦りがあったかもしれない。
「今度はお茶にでも呼ぶわ。ウィンター侯爵夫人にはきちんとお礼を言いなさい。彼女ほど、皇室に詳しく、忠義を尽くしてくれる女性はいないから」
これは本音だった。
ベルメールは、ウィンター侯爵夫人とはあまり面識はなかったが、評判は知っていた。貴族の中でも、人気の作法の先生として知られている。
教え方は厳しくもあるが、貴族令嬢には身分に関係なく親身に教えてくれる良き師範だ。
ベルメール自身は侯爵夫人に対しては何の感情も抱いていなかったから、トラブルになることもなかったようだ。
記憶の中では、遠巻きにオランジェ姫の作法の授業を見てはいたが、私が憑依する以前のベルメールの目には「憎きオランジェ」しか入っていなかった。
私は大広間を後にした。
緊張の解けたオランジェ姫は、その場でうずくまり、侍女と侯爵夫人が彼女をなだめている光景が目に入った。
少しだけ、傷ついた気がする。