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 月が明るくて目が覚めた。


 葉やら花やらの模様が上品に施されたカーテンは年中隅に寄せられたままだ。大きな窓を透して惜しみ無く浴びせられる月の光に起こされ、あまねはベッドから這い出た。


 電気のついていない真っ暗な部屋を、月光のみ頼りに歩き、キッチンの冷蔵庫を開ける。辿り着くまでの途中、床に落ちていた雑誌か何かを蹴飛ばしたが、大した問題はないだろうと捨て置く。


「……ぐ」


 自動で点灯した冷蔵庫内の照明に呻くような声をあげる。自分を心地よく目覚めさせた光と違いあまりに強い明るさに、起きたばかりの目が眩んだのだ。


 年齢に見合わぬ童顔でやや甘ったるい相貌を険しくさせながら、通販でまとめ買いしたペットボトルのミネラルウォーターを一本、片手で掴んで扉を閉める。すぐに蓋を開け、その場で呷った。冷えた水がするすると喉を通り腹に流れていくのを感じ、同時に思い出したように空腹感を覚える。


 目を眇めながらもう一度冷蔵庫の明るさと対面するも、水と調味料以外に腹にたまりそうな物は見当たらない。魚肉ソーセージがあった気がしたが、数日前に食べ終えてしまったんだったか。卵一つない我が家の貧相な食糧庫に舌打ちを漏らした。


 八つ当たり混じりに乱暴に扉を閉め、クローゼットの置かれた寝室に戻る。途中、今度は紙の束を踏みつけてしまったようだがそんなのはどうでもいい。


 ろくに見もしないで掴み取った服は黒のシャツに黒のコート、黒のジーンズ。センス云々どころでない様相に選び直そうかと着替える手が止まるも、どうせ誰に会うでもない。駄目押しに黒の靴を履いて、二週間ぶりの外出を果たした。


鍵を閉めるにはどちらに回すべきか一瞬悩み、住人とは思えぬぎこちない手つきで施錠すると、ようやく歩き出す。目的地は歩いて五分のコンビニだ。


 一階に降りるエレベーターを待っている間、財布と共にコートのポケットに突っ込んできたスマートフォンが鳴り出した。決して大きな音ではないが、静まり返った深夜のマンションではよく響き、誰に咎められたわけでもないけれど、眉を寄せながら着信をとる。


『よう、久しぶり』


 第一声、気安い言葉に無意味に腹が立った。空腹も相まったのかもしれない。


「なーに」


『なーに、じゃねーよ。ぶすくれた声しやがって。昼間にかけても電話に出ない引きこもりくんに合わせてこんな深夜に電話してやってんだろが』


「引きこもりじゃない。今も外だし」


 話しながら、やってきたエレベーターに乗り込む。行き先階ボタンを押すとのろのろと扉が閉まり、やがてほんのりとした浮遊感。あまり得意でないそれに周はなんとなく息を詰めてしまう。階段を使うのはもっと得意でないけれど。


『はん、どうせ俺が買い込んでやった食いもんがなくなったから、致し方なく出掛けてるんだろ。行き先はコンビニと見た』


「……」


『図星突かれると黙るのやめろよな』


 呆れ混じりの溜め息を電話越しに聞かされ、こちらこそげんなりしてしまう。何が悲しくて中年男性の溜め息を耳元で聞かねばならないのか。


『いい加減、その夜型生活直してくれないもんかね。こちらとしても昼間会えねえのは仕事的に困るんだよな』


「昼に活動したくないわけじゃあないけどね。人間が睡眠をとらないといけない以上、昼を犠牲にするしかないだろ?」


『夜を犠牲にして昼に活動しろっつってんだよ』


「まさか。犠牲になんて、出来るはずない。俺は夜を愛しているからね」


 言い切ると同時、チーンとエレベーターが到着を知らせる。狭い密室からの解放に思わず深く息を吸い込めば、冷えた空気が身を満たした。


 マンションを出て空を見上げれば煌々と輝く月。満月とまではいかない、僅かに欠けた月が、闇に溶け込めそうなほど黒を纏った周を照らし出す。


 あと数日であれは完全で完璧な満月として夜空を彩ることだろう。だが、完璧に満たない、不足した中途半端に欠けた月も周は好んでいた。


 夜を愛し、夜に生きるために、周は昼を捨てた。


 現状、深夜に食糧不足を嘆くこと以外、弊害はない。電話の相手は迷惑を被っているらしいが、周が彼を気遣うほどの優しさは持ち合わせていない。


 電話の相手も容易く周を説得出来るとは思っていないらしい。ふん、と可愛くもない不満げな声を最後に、話題を切り替えた。


『それじゃあ本題、仕事の話だ』


「うん、任せてくれ」


『……話も聞かずに安請け合いかよ。ったく、頼りにしてるぜ、天才作曲家シュウさんよ』


 周は夜を愛している。


 だが、それ以上に愛しているのは自身の才能だ。


 天才などと周囲から称えられることに興味はない。自分の音楽の才能は、自分が認めていればそれでいいと心から信じている。そう生きてきたのだ。


 電話の相手からの話を聞いている間にも身から溢れだしそうなまでに生まれてくる音を、撫ぜるように愛おしみ、周は悠々、夜を歩いた。





 コンビニの前にバイクを停めた髪色の派手な集団が、光に吸い寄せられる虫のように店内に入っていく。それを横目に、十五分前に彼らと同様に虫の如く入店を済ませた周は、ずっしりと重たい買い物袋を片手に自宅まで戻る道を辿ろうとしていた。


 出不精ながらもせっかく外出したので、真っ直ぐ帰るのがなんだか惜しい。癖のように空を見上げてしまいつつ、ふらふらと帰路から逸れた。この辺りの地理に詳しくはないが、確か近くに小さな児童公園があった筈だ。ぼんやりとした記憶を漁りながら住宅街を歩く。


 周辺の家々は殆ど消灯されていて、人の気配が感じられない。戸建が多いここらの住民は今の時間帯ではもう就寝しているのだろう。少し離れた位置にある周のマンションをふと見上げれば、ポツポツと電気のついた部屋が見つかった。


 公園には迷わず辿り着けた。ブランコと滑り台、砂場と小さなベンチのみが、敷地の隅にせせこましく設置された、面白味のない公園だ。以前通り掛かったときは、まだ明るい時間にも関わらず、子どもは一人も遊んでいなかった。


 さてどうしようか、童心に帰ってブランコでも乗ってしまうか。浮かれた思考で街灯にぼんやりと照らされる公園内を見渡せば、視界の中で小さな光がチカチカと瞬いた。


 小さいが、強く眩い光。夜の公園で異彩を放つ、というか過剰に光を放つそこに好奇心で足を進めれば、小さな女の子がブランコに座っていた。


 周が近づいてきていることには気がついていたようで、少女は手に持っていた光源、もといスマートフォンからパッと顔を上げる。


「こんばんは」


 口の少し先で霧散していそうな、吐息混じりの囁くような声は、きっと昼間は人になかなか届かないのではないだろうか。端的に言えば声が小さい。声質もあまり通るものではなく、しかし耳に心地よい声だとも周は内心思った。


「……こんばんは」


 近寄ったのは周の方とはいえ、友好的に挨拶される意図がよくわからず笑顔は作らなかったが、少女も特に笑わなかった。手元のスマートフォンの光が、長い前髪の隙間から覗く少女の瞳を輝かせている。


「おにいさん、真っ黒だね」


「そうだね」


「この辺に住んでる人?」


「そうだよ」


 あそこ、とマンションを指差すと、少女はガシャンと音を立ててブランコから降りた。そして人差し指を立てたままの周の手を縋るようにきゅっと掴む。酷く冷えているから、随分長く外にいたのだろう。


「スマホの充電させて!」


「え、嫌だ」


 小さな女の子、と最初は思ったものの、背中を丸めてブランコに座っていたからそう思えただけらしい。割かし背が高くて割かし図々しい少女は、否と唱え続ける周に纏わりつくのをやめなかった。


 買い物袋を持ち続けるのに疲れた運動不足の引きこもりが肩を落としたあたりで、少女はふふんと初めて勝利を確信した笑みを溢し、げんなりとした周が自宅に向かう後ろをついて歩いた。





「何階に住んでるの」


「十四階」


「たかー」


 ぽえーと小さな口を開けたままマンションを見上げる少女を置いて、周は暗証番号を打ち込み自動ドアをくぐっていく。ここで置いていけるならそれは重畳、と思えば小走りで追い付いてきた彼女は危なげなく閉まりかけのドアを抜け、エレベーターに乗ろうとする周の隣に並んだ。


 楽しげな少女が周を押し退け十四のボタンを押す。理不尽に押し退けられた周は諸々の文句をどうにか飲み込み、眼前で明るい茶色の髪が揺れるのを目で追った。なんとなく、その染められた髪色は彼女には似合わないと思った。自分を見下ろす周に、彼女はきょとんと無邪気に首を傾げる。


「どしたの、おにいさん」


「君さぁ、家出でもしたの?」


「そんな感じ」


 んひひ、と照れたように笑う。果たしてそこに照れる要素はあるのだろうか。小さなリュックを背負い直す様をつい見守ってしまう。


 計画的に家を出るにはあまりに薄着で軽装で荷物が少な過ぎる少女。成人しているかどうか、微妙な線だ。食糧を手に入れたかっただけなのに、面倒ごとを持って帰ってきてしまったことを改めて自覚する。


「一人暮らしの男の家に一人で来ることについてどう思う?」


「不用心」


「正解」


「知らない人を自分ちにいきなり入れちゃうことについてどう思う?」


「不用心」


「正解」


 チーン、と軽やかな音。タイミングのいいエレベーターだ。


「おにいさん、何歳?」


 周の一歩後ろをてこてこと歩く少女が、ふと思い出したように尋ねてきた。ポケットから鍵を取り出しながら一瞬悩むも、偽る必要も意味もないだろう。


「二十四」


「えーうっそだー」


「よく言われる。君は?」


「十九!」


「……」


 これはまた、微妙な。


 四捨五入したら一緒だね、と少女が呟き、何を言っているのかよくわからないまま周も頷いた。


 通報されたら終わることはよくわかった。




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