ナウルとファーミ
この作品は科学的データを元にしたフィクションであり、実在した人類には何の関係もない、かもしれません。
さて「ネアンデルタール人は衣服を作らず、ただ毛皮を体に巻き付けていた」という説があります。他にも「ネアンデルタール人の脳は記憶や思考、コミュニケーションを行う部分が欠けていた」とか。作者はこういう「奴らは我々よりもはるかに劣るけだもののような野蛮人だったに違いない」という偏見を基にした仮説が大嫌いです。そこで彼らも我々と同じくらい優れた人たちで、現生人類とも平和的に共存していたのだ、という設定で、しかも科学的に否定しにくいようなお話を作ってみました。興味がある方は読んでみてください。
なお「次回予告」という連載エッセイ(?)では「ネアンデルタール人はイヌやネコのようにもふもふだったので衣服を必要としなかったのだ」というお話を書いている、あるいは書く予定なのですが、それだと結末に繋げるのに無理があるので、は我々と同じような体毛の薄い肌だったという設定にさせていただきました。あしからず。
「今日はここまでにしましょう」
ほとんど聴講するだけで単位をもらえることで人気のある教授が教卓に広げていた資料をパタンと閉じた。その数秒後に間延びしたチャイムが鳴り始める。
学生たちが立ち上がる騒がしさの中で須藤あゆみはスマホを起動した。メールの着信欄に「源田次郎」の名前があったのでそれから開く。
『ネアンデルタール人についての調査を予定しています。ご一緒しませんか』
(今度はネアンデルタール人なのね)
「何それ? デートの申し込み?」
その声に振り向くと、女友達が肩越しに画面を覗き込んでいる。短い文面だというのに最後の方だけしか読まなかったらしい。
「そんなわけないでしょ。相手は白髪頭の爺さまよ」
「・・・愛人契約?」
「ばか言わないで。車も持ってないのに田舎暮らしを始めちゃった爺さまに食料を届けてゴミを引き取るバイトをしてるだけよ。これはその爺さまのフィールドワークのヘルパーをしてくれないかって話」
嘘ではない。担当教授の紹介で町外れの離農した牧場に一人で住みついた源田次郎博士に食料や日用品などを届けるというアルバイトを始めてから一年近くになる。ガソリン代は自分持ちだが、時間給に換算すれば相場の2倍近い報酬がもらえるのでけっこう割のいいバイトなのである。
「でも男なんでしょ。押し倒されたり・・・はしないか、あゆみなら。コーヒーに睡眠薬を入れられたりしたら・・・」
「押し倒されたら関節を極めてやるし、信用できない人の淹れたコーヒーなんか飲まないもの」
卒業後はアフリカへ赴いて食料増産と人口のコントロールに取り組みたいというあゆみである。身長は女性としては高い方だし、護身術の講習も受けている。
博士に『明日、詳しいお話を伺います』と返信し終えたあゆみはデイパックを持って席を立った。
「ご飯にしよ」
「時の女神様のお告げがあったんじゃ」
なぜネアンデルタール人なのか、という質問に対する博士の返答を聞いたあゆみはカフェオレの入ったマグカップに口をつけたまま固まってしまった。素粒子物理学の博士号持ちが使っていい表現とは思えない。
あゆみが吹き出しかけたカフェオレを飲み込んで顔を上げると皺だらけの顔が笑っている。
(まったく、この爺さまは・・・)
あゆみはマグカップをテーブルに戻すだけの時間を使っていくつか思いついた突っ込みパターンの中からひとつを選んだ。
「時間の神様って女性だったんですか」
「分からんよ」
即答してくれる。
「イスラム教の神様アッラーフのように姿を見せない声だけの神様だと思ってくれたまえ。わしには女性の声のように聞こえただけであって、あゆみ君なら男性の声だと感じてもおかしくはない」
「・・・不確定性原理みたい」
「おお、それはいい。座布団を1枚あげよう」
年寄りの理学博士には受けるジョークだったようだ。
「けっこうです。もう一度聞きますけど、なぜネアンデルタール人なんですか?」
「すまんが説明は難しい。昨日なんとなくネアンデルタール人が気になって、いろいろ調べていくうちに5万年くらい前のヨーロッパへ生きているネアンデルタール人に会いに行かねばならんという気持ちになってしまったんじゃ」
なるほど神様のお告げである。
「もしかすると、半年前と同じようにネアンデルタール人の時代においても大きな時間流のゆらぎが生じて、人類史が現代に繋がらなくなってしまったのかもしれん。それを修正するためにはあゆみ君とわしが過去へ赴く必要があるのだと考えてもいいじゃろう。ただ、最近ではネアンデルタール人は現生人類の直接の祖先ではなく、共通の祖先から進化した、言わばいとこのような関係だと言われているんじゃが・・・」
あゆみと博士は、博士がホームビルドしたタイムマシンに同乗して数百万年前のアフリカと思われるサバンナ地帯に不時着し、直立二足歩行の類人猿母子がオオカミの群に襲われている所を助けたことがある。彼女こそが人類の最初の一人であって、あゆみと博士は彼女の命を救うために過去へ赴かなくてはならなかったという可能性も否定できないのだった。
「そういう言い方をされると断れなくなっちゃうじゃないですか。で、いつ出発するんです?」
「一週間後以降ならいつでも。わしの方は閑じゃからあゆみ君の都合に合わせられる」
「分かりました。ご一緒させてください」
「ありがとう。では、都合のよい日を連絡してくれたまえ。その日に合わせてタイムマシンに反ヒドリドを補給するんでな」
しかし、出発は2週間後になった。博士がお土産用のシカの干し肉を用意するのに時間がかかったのだ。
1日目
「先生、本当にこんな大量の荷物がいるんですか?」
プロテニスプレーヤーがコートに持ち込むような巨大なダッフルバッグ2個とアルミ剥き出しの側壁の間に腰を押し込んだあゆみは中古の軽自動車から外してきたらしい色あせたシートに座っている白髪頭に向かって文句を言った。放射線防御用の鉛入りエプロンを2枚つなぎ合わせたワンピーススカート状の防護衣を着させられているので余計にきつい。このタイムマシンは本来一人乗りだということであゆみ用のシートはカーゴスペースに置かれた大きなプラスチックケースの上の薄いクッションだけなのだ。シートベルトがボルト留めされている壁にも背もたれすらない。長い時間乗るわけではないが、ほとんど荷物扱いである。
「何を言うか」
市販のタブレットを貼り付けただけの計器板に表示されるデータをチェックしているグレーの作業着にポケットがたくさん付いた釣り用ベスト姿の爺さまは振り返りもしない。
「これからわしらが行こうとしているのはネアンデルタール人の生きていた時代じゃ。ジャンプした先が氷河期の冬だったりした場合に備えてテント二張りに冬用寝袋は必須の装備じゃろう」
2個のダッフルバッグにはそれぞれ「源田」と「須藤」というタグが付けられている。
「・・・プリフライトチェック終了」
そう言うと操縦用のタブレットを軽くタップした博士が後ろを向いた。
「嫌なら・・・」
「行きます行きます! 何も問題ありません! すっごく楽しみです!」
いまさら「残りたまえ」などと言われてはかなわない。あゆみにしても誰も見たことがない、骨や石器のような遺物しか知られていない人たちと出会える機会をふいにする気はないのだった。そして博士の方も、時の女神のようなものが存在するとしても、彼女が本当に必要としているのはあゆみの何も考えずに飛び出していく行動力だろうと思っている。タイムマシンを作ろうという気になってしまったのも、あゆみを過去へ送り届けるためである可能性を否定できないのだ、と。
(わしはただのタクシードライバーでしかない)
老人特有の後ろ向きな考え方かもしれないが、博士は自分自身に人類史に干渉する能力や資格があるとは思っていないのだった。
「それはよかった。では行こうか」
博士は左手を伸ばして、わざと手が届きにくい位置に設置したトグルスイッチを押し上げた。牛舎を改造した格納庫の大型扉がガシャンガシャンとアコーディオンのように左右にたたまれていく。
「何ですか、これ!」
点滅する赤色灯の脇に新たに取り付けられたラッパ形スピーカーからは勇壮な行進曲が流されている。
「出撃用のBGMじゃ。もっと落ち着いた男声コーラスのスキャットの方がよかったかな?」
「・・・いいんじゃないですか、これで」
男のロマンというものなんだろう、多分。
格納庫を出て、雑草の侵入によってただの草原になってしまっているかつての放牧場を電池駆動のモーターで走って行く。画像を公表された場合でも「ああ、またUFOなんだ」と思わせるためにあえて中華鍋を2つ重ねたような空飛ぶ円盤型の外見にしてあるので3つの車輪の車輪の間隔が狭く、ゆっくり走っていてもぐらんぐらん揺れるのが欠点だ。
200メートルほど走って、大ざっぱに流した円形のコンクリートに乗って停止する。冬になるとホバリング用のジェットエンジンからの噴射で枯れ草に火が点く恐れが出てきたので追加工事した部分だ。揺れが精密部品に与える影響を考えると格納庫までのルートもていねいにコンクリート舗装したいところだが、上空から見られると怪しさ全開になるのでそういうわけにもいかない。
「設定座標は5万年前のフランス、ムスティエの岩陰。誤差の範囲はおおむね3万年前から9万年前、半径200キロ」
博士が表示されているデータを読み上げる。一日前なら1秒以下の誤差で済むのだが、数万年前を目指すとなるとこれだけの誤差が出てしまうのだった。
「それって、めいっぱい外れるとネアンデルタール人がいないとこへジャンプしちゃうんじゃないですか」
人間が徒歩で調査できるのはせいぜい半径6~7キロの範囲だろう。うまくムスティエの岩陰付近に着陸できたとしても、定住していなかったといわれている彼らがそこにいるという保証もない。
「3日間でネアンデルタール人に会えなかったら一度現代に戻って、座標を修正して出直しじゃな」
「あの辺、ボルドーの近くですよね。その時にはお土産にワインを買って帰りましょうか」
「はて? ネアンデルタール人がワインを造っていたという証拠はまだ発見されていなかったと思うが?」
ブドウはもっと昔から存在していたかもしれないが、酒を造るのにはそれを入れる容器、つまり土器などが必要になるはずだ。今のところ世界最古の土器は中国で発見された約2万年前のものと言われているから誤差の範囲にも収まらない。
「冗談です」
「・・・・・・出発する。対閃光防御」
博士がスキー用の偏光レンズ付きゴーグルを下ろしたのであゆみもそれに倣う。博士がホームビルドしたタイムマシンは正物質と反物質が対消滅する時に発生する超高密度のエネルギーを利用して過去へジャンプするので強い光が発生する。危険なので直接外を観察できる窓はないし、モニターカメラも収納してしまうのだが、念のためのゴーグルである。あゆみが鉛入りワンピースを着せられているのも対消滅によって発生する光子の中の比較的高エネルギーの成分はエックス線やガンマ線になるからだ。ちなみに博士が防護衣を着ていないのは「わしはもう十分過ぎるほど生きてきたから癌になってもかまわん」ということだそうである。
「垂直エンジン点火」
博士がタブレットのボタンをタップすると4基の小型ジェットエンジンが次々に点火されて甲高い叫び声を上げ始める。
「発進する」
ジェットエンジンの叫び声がさらに大きくなるとタイムマシンがふわりと上昇し始める。高度50メートルで100基近い数の油圧シリンダーが超伝導トロイダルコイルを必要なだけ緩めて磁場によって閉じ込められていた1個の反陽子と2個の陽電子でできたプラスの電荷を帯びた正イオン(反ヒドリド)を放出した。放出された反ヒドリドは、まず陽電子が大気中の気体分子の電子の一部と対消滅し、ガードが甘くなった原子核の中の陽子とむき出しになった反陽子が対消滅するという2段階の反応によってビッグバンの直後に存在したといわれている濃密な光でできた球殻を形成する。現在の宇宙ではあり得ない超高密度の光の泡は、それがはじけるのと同時に内部の大気をタイムマシンごと過去へはじき飛ばした。
前後と下方を観察するための3枚のタブレットが復活するのと同時に博士はゴーグルを引き下ろした。下方用のタブレットには広葉樹らしい鮮やかな緑の森が映っている。
「むう・・・」
このタイムマシンは、着陸地点を探して長時間飛び続けるという使い方を想定していない。帰路の離陸と着陸に必要な量プラス予備まで燃料が減ったら自動的に帰還モードが発動するようにしてある。この時代ではジェットエンジンの燃料など手に入らないのだ。博士は空戦ゲーム用を流用した操縦桿に付いているトリガーを引いてモードをマニュアルに切り替え、少し前進させてみた。すると、前方やや左で森が切れているように見えたので左手でそこをタップしてトリガーを解除する。
森はそこで終わっていた。その先は低い灌木が点々と生えているあまり奥行きのない草原で、さらに先は崖。崖の向こうにはけっこう大きな川が流れていて、崖と川の間には藪が点在している。着陸するならこの草原しかないようだ。川の近くに大きな木が生えていないのは洪水が原因の場合がある。
「着陸する」
下方モニターの中央に表示されている十字線を平らそうな所までドラッグする。
「はい」
あゆみの声を聞き流しながら操縦用タブレットに表示されている〈T・DWN〉の下の〈YES〉ボタンをタップする。着陸のような繊細さを要求される操縦はドローン用のソフトにかなわないのはよく分かっている博士である。
自動着陸プログラムはちゃんと仕事をした。ていねいに推力を絞って高度を下げ、ろくなサスペンションも付いていない機体をそっと着地させた。ただ、残念なことに地面は平らではなかった。
「着陸完了」
「これでですか?」
かなり左側へ傾いたために崩れてきたダッフルバッグを押しのけたあゆみが文句を言う。車輪の1つが穴にはまったようだ。
「舗装されたヘリポートのようなわけにはいかんよ」
博士はシートの下から軍手とのこぎりを取り出しながら応えた。
「わしはそこらの灌木でバリケードを造る。できればテントを張っておいてくれたまえ」
「ここにも危険な動物がいるんですか?」
「ホラアナライオンは絶滅しとるはずじゃがオオカミくらいはいるじゃろう」
「分かりました」
それ以上の質問はなさそうだと判断した博士は座面とシートバックの肩部分を踏み台にして頭上のアルミ板製のハッチを開けて上半身を出した。
気温は低くはない。日が落ちて冷え込んできたら作業服の下にセーターが欲しくなるかもしれないが、ダウンジャケットまではいらないだろうという程度だ。
何日間かここでキャンプする予定なので、まずはトイレの位置を決める。タイムマシンには後部から乗り降りするのでそこにテント2つと食事スペースを設定するとして、トイレまでの動線上にあるものを残して灌木を切り倒していく。あえて灌木を残すのは、夜トイレに行く時に切り株につまずかないように、だ。また、踏み外す危険もあるので崖の手前の灌木も残しておく。崖の高さは4階建てのビルくらいだろう。
石が顔を出しているのを見つけ博士はつま先で蹴ってみたが、ビクともしなかった。地面のすぐ下に岩盤があって大きな木が生えるほど土の層が厚くないのかもしれない。
途中からはテントを張り終えたあゆみも手伝って切り倒した灌木をテントの周囲に置いていく。大型の獣にははねのけられてしまいそうなので電池式のセンサーライトもいくつかセットする。灌木の先端という見慣れないものには警戒して近づかないで欲しいな、という程度のセキュリティシステムである。それでダメなら護身用の唐辛子スプレーや爆竹と点火用のライターも個人装備に加えてある。
キャンプを囲む灌木のバリケードが完成したところでランチにした。メニューはあゆみが買ってきたコンビニおにぎりとインスタント味噌汁。おにぎりはいったん裸にしてからわざわざ集めてきたクマザサの葉で包んである。微生物によって分解されないような素材をこの時代に残してしまうリスクはできるだけ避けなくてはならないのだ。
「最後のまともなご飯、て感じですね」
あゆみがおにぎりの中から出てきたシャケを見下ろしながらしみじみと言う。
「今回はアルファ米も持ってきとるぞ。コンビニおにぎりにはかなわんが、おじやにすればそこそこ食えるじゃろう」
さりげなくあゆみが張ったテントの状態をチェックしながら博士が応じる。ちゃんとペグが打ってあるから少々強い風が吹いても飛ばされることはなさそうだ。
「それに大学卒業後はアフリカへ行くんじゃろ。確かンガリとか・・・ええと・・・」
「インジェラですか」
「そうそう。そういうものを食べることもあるんじゃないのかね」
この2つはいずれもアフリカで一般的に食べられている主食だ。ンガリはトウモロコシの粉に水を加えてこねたもの。インジェラはそれを発酵させてから焼いた薄くて酸っぱい蒸しパンのようなものらしい。どちらにしろ日本人には慣れが必要になりそうなのが予想できる。
「あれはお米が手に入らない時にしょうがないと諦めて食べる物なんです。ご飯の形をしていておいしくないというのとは違うんですよ」
「・・・そういうもんかね・・・」
「そういうものなんです」
生存に必要なだけの栄養を摂取できれば味にはさほどこだわらない博士にはよく分からない話だった。
食後の片付けが終わったら、それぞれ雨具上下と最低限の水と行動食・その他を入れたデイパックを背負って周辺の探検、というか散歩に出かけることにする。唐辛子スプレーと爆竹は量販店で買ってきたおそろいの釣り用ベストのポケットだ。
まずは崖下に降りられるような斜度のゆるい場所を探そうということで膝くらいの草丈の草原を下流側に向かって歩きだす。岩陰があるとしたら斜面の下だろうという判断である。左手側には白樺としか思えない白い幹の広葉樹が鮮やかな緑色の葉を広げている。これが白樺なら北海道の春から初夏くらいの気候ということだろう。標高や、内陸か海岸近くかにもよるだろうが。
「あ、シカ!」
「えっ、どこじゃ?」
「あそこ!」
シカは白樺林の中にいたのだが、あゆみに指さされて逃げ出すまで分からなかった。ピンと立てた短いしっぽの裏側の白さが目立つ。
「あ、ほら、あの紫色の花、ラベンダーですよ」
あゆみが指さす方向には紫色の小さな花を麦の穂のようにつけたひとかたまりの花が咲いていた。どうにもシカでも花でも指摘されて初めてそれが見えてくるという有様である。
(何十年も自然界から離れていたせいじゃな)
自分が老いたのだとは認めたくない博士である。老眼鏡も使っていないのだし。
「花の時期は分かるかね?」
「ええと・・・春だったと思うんですけど・・・」
「あっちの黄色と白はマーガレットかな?」
「花が小さいですね。カモミールでしょう。やっぱり春の花です。マーガレットって確かアフリカのなんとか諸島原産なんですよ」
「なるほど」
場所も時代も不明だが季節は春ということらしい。
崖が崩れて斜面になっている場所は意外に近いところにあった。乗用車ほどの大岩2つの間を抜ければ下に降りられそうだ。このルートは他の動物たちもよく利用するらしく草も生えていない踏み跡になってしまっている。
崖の下は上ほど幅が広くない草地で、かなりはっきりした踏み跡が崖に沿って左右に伸びていた。正面の藪の向こうからは川の音が聞こえてくる。草地に降りて崖を振り返ると見事な地層面が見えた。どうやら断層によって生じた崖らしい。
「先生! なんか声が・・・」
あゆみの声が終わらないうちに藪の中から黒い牛が飛び出してきた。ただ、ウシの仲間には違いないようだが角の形が違う。乳牛や肉牛の角は子牛の頃に焼き切っていない場合でも三日月形だが、こちらは頭の横へ突き出してから前方に曲がり、さらに少し上方へ反り返っていて、その先端は細く鋭く尖っている。人間が一撃を食らったら背中まで突き抜けてしまいそうだ。太い胴はウシそのものだが、真っ黒い毛は現代の牛よりもだいぶ長い。
「ヒャーッ」「ホーッ」
牛に続いて7人ほどの槍を持った集団が現れる。ひげ面は男で、ひげが生えていないのは女だろうが、男も女もあまり背は高くない。一番背が高い男でも博士より頭半分低いくらいだが、肩幅は広い。胸も分厚く手足など2倍くらいの太さがありそうだ。もっとも力仕事をしてきたわけでもない博士は筋肉質とは言えない体型ではある。
口の端から泡を吹きながら駆けてきた黒牛は前方が崖なのに気が付くと方向転換しようとしたらしい。そちら側にはあゆみと博士がいたのだが、おそらくその背後の大岩を見て立ち止まり、また向きを変える。そのわずかな時間のロスが彼の運命を決めた。後ろは崖、前は見事に等間隔の半円形になった槍衾で逃げ場がない。もしかすると最初からこの形に持ち込むように崖の方へ追いたててきたのかもしれない。
狩人たちは顔立ちもごつかった。横幅のある顔に大きな目と大きな鼻、唇も分厚い。後方へ角度の付いた額の下の眉の部分には骨の庇もあるようだ。コーカソイドの頭を上と下から押しつぶしたような顔立ちとも言える。髪の毛はいずれも赤茶色からくすんだ黄色で、黒髪はいない。全員ポニーテール、というか無造作に束ねている。
「ネアンデルタール人じゃな」
これはやはり、この時代のこの場所に導かれたとしか思えない展開である。
「服、着てたんですね」
あゆみは安心したように言う。
彼らは全員毛皮のノースリーブとスカート姿だった。襟付きのノースリーブも膝上丈の巻きスカートも毛が生えている方を内側にして、ノースリーブは脇から横腹まで細い毛皮の紐を靴紐のように通してある。スカートは男の方が短めだが、それは筋肉量が多い分体温が上がりやすいということなのかもしれない。前を大きくはだけている男もいるが、女たちと一番華奢な体型の少年は胸元を絞っている。さらに襟の部分で首を覆えばもっと暖かいだろう。
「そうじゃな。針なんぞなくても服は作れたんじゃなあ」
ネアンデルタール人は毛皮を服に加工する技術を持っていなかっただろうと言われていて、毛皮を肩にかけて股間を隠しただけという復元像を展示している博物館もある。その理由は彼らの遺跡からは骨製の針が出土していないからだが、実際のところは「ネアンデルタール人は現生人類よりも劣っていたはずだ」という先入観が大きな要素になっていたということだろう。尖った石器で毛皮に小さな穴を開けて皮紐を通すのなら針はいらないのだ。ただし、最近ではスーツ姿のネアンデルタール人という先鋭的な展示をする博物館も現れ始めてはいる。
「どうして毛を内側にするんでしょうか」
「素肌の上に着るのにはその方が肌触りがいいんじゃろう。なめしの技術も十分だとは思えんし。あるいは保温力を優先したか、じゃな。現代のイヌイットも冬の屋外では素肌の上に毛を内側にした毛皮の服を着て、その上に毛を外側にした毛皮の上着を重ねると聞いたことがある。そうすると吹雪の中でも眠れるほど暖かくなるらしい」
「ああ、氷河期のヨーロッパですもんね」
そんな話をしているうちにも包囲の輪はじりじりと狭められていた。黒牛は「戦うしかない」と悟ったように崖を背にして鋭い角を下げる。それを待っていたように牛の横顔に向かって広げた毛皮が振られた。気を引かれた牛がそちらへ角を向けた瞬間、反対側の腹に槍が突き込まれる。
「ぶもおおおーっ」
牛が大きく吠えて振り向くと反対側にいた女性が突き込む。牛はあわてて角をそちらに向けたが、その時には彼女は槍ごと跳び退いている。それどころか再び無防備になった反対側の腹を攻撃される。見事な集団ヒットアンドアウェイだ。牛の目は頭の横についているのでかなり視界が広いはずだが、わざと死角を作ってから攻撃されたのでは立派な角も使いようがない。
腹に何度も槍を突き込まれ、辺りに血の臭いが漂ってくる頃には牛の動きがだいぶ鈍くなっていた。心なしか目もうつろになっているように見える。
また槍が突き込まれた。牛がのろのろとそちらへ角を向け、その動きが止まった瞬間、今まで動きを見せなかった赤茶色の髪の男が反対側から素早く踏み込んでがら空きの首に槍を突き込み、さらに切り下ろした。跳び退いた赤茶毛に向かってまだこれほど残っていたかと思うような大量の血が噴き出す。
牛が動きだした。まるで頸動脈を切り裂かれたことにも気が付いていないようにゆっくりと赤茶毛に角を向けようとして・・・ぐらりと揺れると、そのまま倒れた。
しばらくの間槍を構えたまま様子を見ていた赤茶毛が慎重に牛に近寄っていく。そして槍の穂先で半開きの目を突いた。牛は眼球を潰されてもピクリともしない。
「--・--! ----・------」
仕留めたことを確認して大きく息を吐いた赤茶毛が何か指示を出していく。もちろん何語なのかは分からない。
指示を受けた狩人たちの中から毛皮を振っていた背丈はともかく細めの体型の少年と槍が血まみれになっていない、つまり包囲していただけらしい女性の明るい茶色の髪コンビが藪に向かって駆け出した。
(鼻に抜ける音がいくつかあったな。まさかフランス語の原型なんじゃろうか?)
もともとヨーロッパから中東までの地域で生活していたネアンデルタール人が消滅するのはアフリカを出た現生人類がヨーロッパへ進出した後、何万年も経ってからだ。彼らの言語の一部がフランス語の中に残っている確率はゼロではあるまい。
「フランス語みたいですね。憶えておけばよかったかな」
あゆみも同じことを感じていたらしい。フランス語が分かるからネアンデルタール人の言葉が理解できるというものでもあるまいが。
「まだ遅くはないぞ。アフリカでもフランスの植民地だったところではフランス語が通じるんじゃないのかね」
そんな会話をしているうちに牛にとどめを刺した赤茶毛の男が近寄ってきた。それを見たあゆみは一歩後ずさる。槍の穂先には血が付いているし、白い腕に点々と散っている赤い点は返り血だろう。
彼の背丈は博士よりもやや低いくらいだが、肩や腰の幅と胸の厚みは倍近くありそうだった。白い肌と透き通るような青い瞳はコーカソイドのそれによく似ている。よく見るとウエストに縛り付けている毛皮が2本なのはこの男だけだ。指示も出しているようだし、リーダーなのかもしれない。
博士は男に向かって軽く両手を上げた。
「風と水に平和を。敵意はない」
特に意味があるわけでもないことを静かに宣言すると、釣り用ベストの大型ポケットからシカの干し肉を取り出した。少しちぎって口に入れ、残りを男に差し出す。これははっきり言って美味くはない。肉食メインの雑食だっただろうと言われているネアンデルタール人のために用意してきたものなのだが、この時代にはなかっただろうという判断で塩も香辛料も使っていない、ただスライスして干しただけの自家製干し肉なのだ。ちなみに出発が遅れたのは生のシカ肉を手に入れて干し肉に加工していたためである。
干し肉を受け取った男は匂いを嗅いだり、ひっくり返して見たりしている。
そして納得したらしい男は干し肉を口に放り込んだ。現代人の感覚では「それは無理だろ」という大きさの干し肉をもっしゃりもっしゃりと力強く咀嚼し始める。時々天を仰いだり小首を傾げたりするのは、いままで食べたことのない肉だったからかもしれない。何しろ原料は現代日本のシカの肉だ。
干し肉を飲み込んだ男はきれいな白い歯を見せた。気に入ってもらえた様子に博士が肩の力を抜くと、男は槍を左手に持ち替えながら無造作にすっと踏み込んできた。身構える暇もなく左の二の腕をポンポンと軽く叩かれる。
「--・----」
男は鼻に抜ける音が混じった言葉で何かを話しかけてきた。
「すみません。あなた方の言葉は分からないのです」
博士は日本語で応じる。
それを聞いた男は笑みを浮かべたまま自分の胸を軽く2回叩いた。
「ロアウ」
やや鼻に抜ける「ア」で言ってから博士に向かって手のひらを差し出す。これはどう見ても「俺はロアウだ。おまえの名は?」だろう。言葉が通じないと分かるとすぐに身振り手振りに切り替えるということは、彼らの知能は少なくとも現生人類と同じレベルだと判断してもいいのかもしれない。しかも言葉の通じない相手に慣れているようだ。
「ジロー」
胸を2回叩くというのを真似しながら自己紹介。
「アユミ」
意図を察して博士に並んだあゆみもそれに倣う。
「ジロー・・・アゥミ?」
この「ゥ」もやはり鼻に抜ける発音だ。
「あゆみ君、Yの音は発音しにくいようなんじゃが『アゥミ』でいいかな?」
それを聞いたあゆみはまた胸を叩いた。
「アゥミ」
それを聞いた男はまた歯を見せた。
「ジロー、アゥミ、----」
半身になって血の海の中の牛を右手で示してくれる。
さっさと歩き出したロアウに少し距離を取ってついていくと、ロアウは槍を地面に置いてウエストに巻いていた毛皮の背中側からナイフ大の石器を取り出した。
「そうか! 槍だと両手がふさがるから細かい作業に使うナイフを持ち歩くためのウエストバッグがいるわけじゃな」
「何にでも毛皮を使う文化って感じですね」
ロアウは牛の首筋を石器ナイフで切り裂くと、さらにナイフを入れて肉をひとかたまり切り出した。
周りに立っている他のメンバーも二人に注目しているのだが、その視線から感じられるのは敵意や警戒ではなく、興味のようだ。彼らから見ても変な格好なのだろう。明らかに毛皮ではない服を着ているのだから。
(昔の田舎に外国人がやってきたようなもんか?)
ロアウが立ち上がって肉の塊から一口噛み切ると、血まみれの手に載せた残りを博士に差し出した。意図は明白だ。しかし・・・。
博士は両手のひらをロアウに向けて首を振った。これは無理だ。北極圏のイヌイットならともかく、日本人には生の獣肉を食べる習慣はほとんどないし、現代には存在していない病原体がいる可能性もある。
あゆみにも断られて明らかに気を悪くした様子のロアウを見た博士は背中からデイパックを下ろして、おやつ用に持ってきた干しアンズの袋を破って中身をいくつか取り出した。1個だけ口にしてみせて、残りをロアウに差し出す。つまり「私たちはベジタリアンなのです」である。
そこへ少年と女性が中央が大きくへこんだ毛皮を持って戻ってきた。毛皮が揺れた時にはねたのは水だ。バケツ代わりにもなるらしい。
博士の手に鼻を近づけて干しアンズの匂いを嗅いで納得したらしいロアウが振り向いてまた指示を出した。それを聞いた他のメンバーは順番に毛皮バケツに槍を突っ込んで穂先を洗う。洗った槍は穂先が地面につかないように草の上に置いてそれぞれ毛皮のウエストバッグから石器ナイフを取り出した。槍の出番は終わったらしい。あゆみと博士も本来の仕事に戻ったらしいロアウから、というか、スプラッターな現場から少し距離を取る。
「うわっ。ほんとに生で食べるのぉ」
いかにも嫌そうな声を聞いた博士が振り返るとロアウを含む5人の男女が牛に群がっていた。それぞれ自分の石器ナイフで肉を切り出しては口に運んでいる。
「先生、何で生肉なんですか! 焼くくらいのことはしてもいいでしょうに!」
あゆみは博士が悪いわけではないということにも気が付かない様子で声を荒げる。
「うーん・・・彼らの遺跡からは火を使っていた痕跡が見つかっているはずじゃが・・・獲物が大きすぎて運ぶのが大変なのか・・・。ああ、ほら見たまえ。胃の中に詰まっていた草らしいものも食べておるよ」
(だから、見たくないんですってば!)
「基本的に哺乳動物の生肉には哺乳動物が必要とする全ての栄養素がバランス良く含まれているはずじゃ。加熱することによって失われる栄養素もあるじゃろうし、生肉食というのはけっこう合理的なのかもしれん。そうか! 刺身じゃな。船の上で釣りたての魚を刺身にして食べたら美味いと思わんかね。彼らが野菜や果物をあまり食べないのであれば、あれもひとつの正解なんじゃろう」
「刺身・・・ですか・・・・・・」
(無理! やっぱり牛は牛!)
醤油もわさびもないし。
あゆみがスプラッターな光景から目をそらすと、毛皮バケツを支えている二人に気が付いた。バケツはもともとは一枚の毛皮なのだが、周囲に開けた穴に通した毛皮のベルトを引っ張るとその中に水を溜めておけるという構造らしい。毛皮の底は地面についているからさほど重くはなさそうだが、目の前の食事に参加できないのは面白くないだろう。その証拠に二人の視線は牛の方に向けられたままだ。仲間はずれはよくない、とあゆみは思った。そして思ったら行動だ。あゆみは深く考えないタイプなのである。
「先生、干し肉を少しください」
味は生肉に劣るかもしれないが、ご飯までのつなぎがあってもいいだろう。
「お? ああ・・・」
受け取った干し肉を手に二人に近づいていって、二人が気付いたところでいったん足を止める。
「風と水と・・・あと何とか。わたし、アゥミ。あなたたちは?」
胸ポンポンを真似て聞いてみる。
二人は顔を見合わせてからまたあゆみの方を向いた。
「ルテ」
「ナウル」
女性の方がルテ、ひげが生え始めている少年がナウルらしい。
「先に名乗ったということはルテが上位なのかもしれんね」
博士のアドバイスに従ってルテを先にして干し肉をお勧めしてみる。匂いを確認してから干し肉をくわえ取ったルテは上を向いて干し肉を少し口の中に落とし込んでからもしゃもしゃと食べ始めた。干し肉が少しずつルテの唇の中に消えていく。
(失敗! ちぎってからあげればよかった)
ナウルにはちぎってあげようかとも思ったが、ナウルが下位だった場合には後でいじめられることもあるかもしれないのでやめておく。
一方、博士は二人が干し肉を食べ終わったタイミングで干しアンズをひとつかみあゆみに手渡した。
「これもあげてみてくれんか」
「でも、さっきは食べてもらえなかったじゃないですか」
「サンプルは多い方がいいじゃろう」
そういうもんかと思いながら、まず自分で食べてみせてからルテに向かって1個差し出してみる。
ルテはまた匂いを確認した。生肉のような腐りやすいものを日常的に食べているのなら、まず匂いを確認という習慣は大事だろう。
ルテは干しアンズを口にしてあごを上下させ始めると、いきなり目を見開いた。
「ヴォッ!」
「えっ。なに?」
大声を出されたあゆみがたじろぐ。
ルテのあごの動きが速くなる。口の中の干しアンズを飲み込んでからまた「ヴォッ」
「えっ。ええっ?」
「アゥミー」
呼びかけられたあゆみがそっちを向くとナウルが口を開けていた。「俺にもくれよ」ということらしい。
(雛に餌を与える親鳥みたい)
自分の思いつきに自分で笑ってしまう。
あゆみの手のひらの干しアンズがなくなってしまうとルテは残念そうな表情を見せた。あゆみのデイパックにはまるまる一袋、博士のにもまだ残っているはずだが、自分たちで食べる分も残しておきたいので「もう終わり」ということにしておく。
「ホームズ先生『ヴォ』って何なんでしょう?」
手が空いたので以前やったことがあるミステリーごっこを仕掛けてみる。
「ふむ。ちょっと待ってくれたまえよ、ワトソン君。ナウル、あれ、ヴォ?」
他のメンバーが食べている牛を指さしてみると、ナウルは頷いてから「ヴォ」と返してきた。
「やはりな。『ヴォ』は多分『美味しい』という意味なんじゃろう」
「でも、さっきのロアウさんは食べませんでしたよ」
「好き嫌いはあるじゃろう。それと我々は食事の前に甘い物を口にすると血糖値が上昇して満腹中枢が刺激され、食欲が低下する。ネアンデルタール人も同じだとすれば食事をちゃんと取るためにあえて食べなかったのかもしれん。だいたいおかしいと思っていたんじゃ。クマもユキヒョウも野イチゴくらいは食べる。肉食に適応した短めの腸でも分子量の小さな糖なら消化できるはずなんじゃから」
「・・・先生?」
「何かな」
「食べない方がいいようなものを食べさせたんですか」
あゆみは一語一語区切るように発音した。これはあゆみが人を非難する時の癖だ。
「あ・・・すまん。食べてもらえるはずだと思っていたんでな。確かめずにはおれなかったんじゃ」
「そういうのはよくないと思いますよ」
「分かった。以後気を付ける」
そこへ食事を終えたらしい二人のネアンデルタール人がやってきた。二人とも女性だ。二人はバケツの水で血まみれの手と石器ナイフを洗い、毛皮のスカートに擦りつけて水気を拭いてからウエストに巻いた毛皮の折り返し部分に入れて開けていたフラップを背中側に押し込んだ。なるほど、蓋があるなら例え逆立ちしても簡単に落ちることはないだろう。
女性二人がバケツ係を交代してルテとナウルが牛に向かって駆けていく。残った二人がチラチラと視線を向けてくるので、また自己紹介から手順を繰り返すことにする。
赤茶色の髪さんはアルエと名乗った。くすんだ黄色の娘さんは「シッラ」だ。
「アゥミ、アゥミ」
シッラが大きく口を開ける。さっきの雛への餌やりを見られていたようだ。それにしても遠慮がない。欲しいものは「欲しい」と言うのが当たり前の社会なのかもしれない。
(もし断ったらどうなるんじゃろう?)
そういうことも気にはなるのだが、ここはこの人たちと仲良くなることを優先するべきだろう。食べ物はみんなの共有財産というような思想があるのかもしれないし、嫌われると困ったことになるという立場だし。
「ここは干しアンズでいいかな。デザートだし」
再びデイパックを下ろした博士が提案する。
「そうですね」
あゆみは干しアンズを少なめにつかみ出した。本来は自分たち用のおやつなのだ。
この二人にも干しアンズは美味だったようだ。シッラは「ヴォ」を連発していたし、あゆみに差し出されるままに静かに食べていたアルエも質問してみると控えめな「ヴォ」が返ってきた。近くでよく見るとアルエの目尻には皺があった。ネアンデルタール人の顔立ちはそのごつさが目立つので年齢の見当がつけにくいのだが、はしゃぐような年ではないということかもしれない。
「----」
三つめの干しアンズを差し出した博士に向かってアルエが何か話しかけてくる。
「これかね?」
干しアンズを見せても首を振る。
「--・----」
言葉が通じないと分かったらしいアルエは体をひねって背中を見せた。お尻をひょいひょいと上げて見せてくれる。
「・・・あ、ウエストバッグかね?」
毛皮のウエストバッグと干しアンズを交互に指さしてみると「そうだ」というように頷いてくれる。持ち帰るつもりらしい。後で食べようというのか、あるいは食べさせてあげたい相手がいるのかもしれない。
「----?」
「--」
シッラに何か言われたアルエが応えるのを聞きながらウエストバッグのフラップをめくらせてもらう。素材は毛の色を見る限りはノースリーブのと同じ物らしい薄くて柔らかい毛皮だ。
(何じゃろうか?)
赤茶色の短い毛だから黒牛のそれではない。
フラップを背中側に押し込んで、アルエからクレームが来ないことを確認した博士はしゃがんで毛皮バケツの手触りを確かめた。色合いも感触もウエストバッグと同じだ。
「どうかしました?」
「いや・・・何の毛皮かと思ってな。多分シカじゃろう。シカの皮は柔らかいそうだから服にしても着心地がいいんじゃろうな」
「ほんとですか? シッラ、ちょっと触っていい?」
あゆみはシッラのノースリーブを指さしてみせた。シッラは理解できていない様子だったが、あゆみはかまわずに襟に手を伸ばす。
「わー、柔らかーい」
相手の許可を待たずに触っているのだが、シッラも拒否する様子を見せない。というか面白がっているようなので放っておく。あゆみの無邪気なフレンドリーさは面白い結果に繋がることがあるのだ。
改めてアルエのノースリーブに目を向けると肩口の部分にほぼ等間隔に小さな穴が開けられているのが分かった。スカートの裾にも穴が並んでいる。
(なるほど。寒い季節には襟で首を覆い、長い袖を付けたりスカートを長くしたりすれば暖かいわけだ。今は裸足だが毛皮のブーツなんかがあってもおかしくはないな)
それくらいしなければ氷河期のヨーロッパで暮らしていくのは無理だろう。そしてよく見るとアルエはノースリーブをゆったりめに着こなしているのに対してシッラはウエストの部分を少し絞っている。胸を少しでも大きく見せようという工夫なのかもしれない。
「アゥミ、アゥミ」
「なに? これ? 持つの?」
シッラはあゆみにバケツの皮ベルトを持たせると、空いた右手であゆみのポロシャツの襟をつまんだ。首を傾げているのは見たこともない素材だからだろう。
「アルエ!」
突然シッラがあゆみの左袖を引っ張り上げると興奮した様子で何かまくし立てた。それからあゆみに向き直る。
「アゥミ! --・----?」
あゆみに話しかけても通じないと判断すると自分のノースリーブの胸元の紐とポロシャツの袖を交互に指さす。袖の縫い目を見つけたということらしい。細い糸で縫い合わせるのには針が必要だが、ネアンデルタール人が針を使っていたという証拠は今のところ発見されていない。「どうやって縫い合わせたたんだ?」とでも言っているんだろう。
「ちょっと待って」
博士はデイパックを降ろすと、洗いざらしのタオルを取り出してその糸を一本引っぱり出した。5センチほど引き出してちぎると、それをシッラに手渡してやる。
受け取ったシッラはアルエに説明しながら糸を眺め回し、匂いを嗅いで、さらに口にくわえた。目と鼻と舌で素材を確かめようということらしい。好奇心旺盛である。
「ジロー、----?」
糸をウエストバッグにしまったシッラは自分の髪の毛を一束つまみ上げながら質問してくる。
毛で作った糸か、という意味だろうと判断して首を振った博士は、近くに生えていたイネ科植物らしい草の葉をちぎるとくしゃくしゃに揉んで飛び出してきた繊維をシッラに見せた。それを受け取ったシッラは匂いを嗅いでからきつい口調で何か言った。「違うでしょ!」ということらしい。
(植物性の繊維と言いたかったんじゃがなあ・・・)
言葉が通じないとこういう問題も起こるのだろう。しょうがないのでベストのポケットから使い捨てライターを取り出した。ライターの底の部分で地面に線を引く。それを地面に見立てて垂直に線を引き、その途中に幅の広い葉っぱを2枚、先端には丸っこい雲のような実を描き込む。その実とあゆみのポロシャツを交互に指さすのだが、シッラはまだ首を傾げている。ワタというのは本来もっと暖かい地方の植物なので見たことがないのだろう。最古の織物の圧痕は旧石器時代のものが発見されているというから世界のどこかで作られている可能性もあるのだが、彼らのように毛皮を衣服に加工する文化があれば織物は必要ないだろうし。
そうこうしているうちにルテとナウルが戻ってきた。どうもこの二人がバケツ当番だったらしい。
「ルテ・--・----ジロー----・------」
シッラはルテとナウルが血にまみれた手と石器ナイフを洗っている間中何かを話し続けていた。陽気でおしゃべりなシッラに対してアルエは大人の雰囲気というか、お母さん的な落ち着きを感じさせる。
「見たまえ。見事な解体技術だよ」
牛の方に戻っていくアルエとシッラを目で追っていた博士の声につられてあゆみが振り向くと、牛の前足が外されるところだった。血の海の中で・・・。
(見ないようにしてたのに!)
胃が縮むような感じがする。
(ええと・・・殺したての生肉はこの人たちにとっては炊きたてご飯のようなもの。炊きたてご飯、炊きたてご飯、炊きたてご飯・・・・・・)
とっさに思いついたおまじないを心の中で唱えてみるが胃が縮む感覚が消えない。だいたい炊きたてご飯は血を流さない。
アルエとルテは切り離された前足に毛皮ベルトをかけ、二人でそれをぶら下げてけもの道を下流側へ向かった。
「どこ行くんでしょう?」
「ふむ・・・キャンプに戻るんじゃろうな。ここには子どもたちがおらん。狩りに参加できないメンバーにも肉を届ける必要があるはずじゃ」
後ろ足2本はシッラとロアウとあと二人が毛皮ベルトをかけて吊り下げると毛皮バケツを丸めて斜めがけにしたナウルを先頭に上流側へ向かって歩きだす。
「どうします?」
「ついていってみよう。いずれは他のメンバーと合流するはずじゃ」
来るなと言われない限りはマークしようというのが二人の方針である。
「残りは置いてっちゃうんでしょうか」
あゆみは実に嫌そうな顔で牛の死骸を振り返った。確かに崖上へのルート近くに死骸を置いて行かれるというのは玄関先に大量の生ゴミを捨てて行かれたという状況に近いかもしれない。
「まだ分からんな。手が足りないから後で取りに来るのかもしれん」
さすがにあゆみが嫌がっているのが分かってきた博士が気休めを言う。ただ、このままでは他の肉食獣を呼び寄せることになるだろう。その場合は安全のために他の下り口を探す必要があるかもしれない。
しばらく歩くと崖が張り出している場所があって、それを回り込むとそこに洞窟が口を開けていた。ナウルが洞窟前のテラス状の岩の上に毛皮バケツを広げると、その上に2本の後ろ足が置かれる。
(ムスティエではないな)
出発前にチェックしておいた写真とまったく違う。ムスティエの岩陰は文字通り大きな岩の下でしかないが、この洞窟の入り口はワンボックス車が2台並んで入れそうな幅と高さがあるし、奥行きもある。入り口前の広場は踏み固められているらしく、丈の低い草が少し生えているだけだ。どうやらかなり頻繁に利用されているらしい。
(寒い時期には下流側の標高の低い場所で暮らし、春が来たら上流へ向かって移動していくというような生活スタイルなら年間の気温差も少なくなって快適じゃろうな)
「先生、あれ何でしょう?」
あゆみの声で思考が中断される。ロアウとナウルともう一人が洞窟の入り口近くで3本の木の棒と毛皮ベルトを使って腰くらいの高さの三脚状のものを作っていた。それが3つあって、今四つめを作っている。そこへシッラが枯れ葉や枯れ枝を抱えてきてその近くに置くとまた外に出てくる。
三脚の上に洞窟の奥に置かれていたらしい棒が2本、平行になるように置かれる。さらにその上に細い棒が何本も並べられ、手際よく毛皮のベルトで固定されていく。
「室内用の物干しみたいですよね」
ベッドに近いくらいのサイズなのだが。
「そうじゃな。近くへ行ってみようか」
「じゃまだ、とか言われませんか」
「言われたら外へ出れば良かろう」
入り口の端の方では一人の男が毛皮の上の牛の足から肉を薄く石器ナイフで切り出している。挨拶してみると、この肉屋さん(?)は「ルトン」と名乗った。
物干しの近くに寄っていくと何かが焦げたような臭いがして、物干しの前に向かい合ってしゃがんでいるロアウとナウルの間からかすかな煙が上がった。そこへ顔を寄せたナウルが息を吹きかけると小さな炎が上がる。火を起こしていたらしい。ネアンデルタール人が火を使っていたのはよく知られているのだが、博士はロアウが片付けようとしているほとんど毛が残っていない細い毛皮と鉛筆くらいの棒に気が付いた。
「何と紐ぎり式か!」
木の板に木の棒を押しつけてキリのように回転させると摩擦熱で火が点く。この時二人いるなら棒に巻き付けた紐を左右に引っ張って回転させるという楽で速い方法が使えるのだ。
(皮や木を使う文化は生分解されてしまって痕跡も残らんか)
博士はロアウに睨まれて一歩下がりながら考える。
(彼らは我々が想像していたよりも高度な文化を形成していたのかもしれん)
その間ナウルは物干しの下に肩まで入れて少しずつ火の面積を広げている。
「ううむ、そうだったのか・・・」
「何か分かりましたか?」
「うむ。これは実に簡単なことだったんじゃよ、ワトソン君」
「教えてください、ホームズ先生」
「そうじゃな・・・あゆみ君がこの時代で生活することになったと仮定してみようか。火を何のために使うかね?」
「ええと・・・まずご飯・・・煮炊きに使います。あと、寒かったらたき火で暖まるとかですかね」
「そう。現生人類ならそういう使い方をするじゃろう。しかし、彼らの主食が生の肉だとすれば煮炊きは必要ではない。暖かい毛皮と筋肉の発熱量が多ければ暖房もいらないかもしれん」
「じゃあ、何のために?」
「その答はそこにあるよ。見たまえ」
あゆみが振り向いてみると、シッラが物干しの横棒の上にルトンが薄切りにした肉を並べ始めていた。
「これって・・・干し肉作り?」
「干し肉とベーコンの中間くらいじゃな。どちらにしろ肉の水分を抜いて保存性を良くする加工には違いない。肉がすぐ腐るのは水分が多く含まれているからじゃ。表面の水分だけでも減らせば細菌が繁殖しにくくなって消費期限が延びる。そしてまた、これだと炉がいらないんじゃ。ネアンデルタール人の遺跡には火を使っていた痕跡は残っていたものの明確な炉の痕跡は見つかっていない。そのことが彼らは現生人類よりも劣るという根拠の一つになっている。しかし、こういう火の使い方なら炉はいらなかったんじゃな。あ、そうか! これなら大型の獲物を仕留めても食べきれずに腐らせてしまう肉を減らせる。見事な文化だと言える」
「はあ・・・文化ですか・・・」
薄切り肉を並べていたシッラはその視線を勘違いしたのだろう。小さめの肉片を1枚、あゆみに差し出した。もちろん血まみれの手で・・・。
あゆみはまた一歩下がって両手のひらをシッラに向け、首を振る。それを見たシッラは不思議そうな顔をした。シッラにしてみれば「なんで? こんなに美味しいのに」というところなのだろう。その肉片の匂いを嗅いでから口に放り込んだ。食いしん坊な娘である。
そこへ外へ出ていたロアウが戻って来た。槍を壁際に置いて、洞窟の中に草の葉をばらまき始める。洞窟の入り口辺りまで懐かしい香りが漂ってくる。
「ヨモギじゃな」
深く切れ込みが入っている裏が白い葉だから間違いあるまい」
「そうですね。虫除け・・・かなあ。ヨモギにも除虫菊のような虫除け成分が含まれているんですよね」
「虫除けか・・・・・・。あゆみ君、キャンプへ戻ろう」
「え? いいんですか」
「ああ。食料の備蓄作業。そのための資材が用意されていた。居住環境の整備。牛の足を運んで行った。それらから類推すると、どうやら彼らは半定住生活をしているようじゃ。今はどこか他の場所に子どもたちのような狩りに参加できないメンバーがいて、彼らをここに呼ぶ前に準備をしていると考えるとつじつまが合う。近いうちにロアウ一家・・・血の繋がっていないメンバーもいるかもしれんからグループか。ロアウグループの他のメンバーもここへやって来るはずじゃ。そうしたらまたご挨拶に伺おう」
「・・・そうですか」
あゆみが振り返ると、這いつくばったナウルが物干しの下に枯れ木を突っ込んでたき火をつついていた。普通のたき火なら薪を足していればいいのだろうが、弱火のたき火を広い範囲で維持するというのは炭火を使った時のように楽なものではなさそうだ。
(頑張ってね)
じゃまをしないように口に出さずにエールを送る。
「フレンドリーな人たちじゃったのう。追い払われることも覚悟していたんじゃが・・・」
上り口に向かって歩きながら博士が口を開いた。
「狩猟採集民は排他的になりにくい理由となってはいけない理由があるんだそうですよ」
「ほう?」
「第一に獲物を追って移動しながら狩りを続けるような生活をしている場合、特定の縄張りを持たない可能性があるみたいです。だから縄張りの中に侵入してきたよそ者を追い払うこともない、と」
現生人類はアフリカを出た後、南アメリカの最南端まで、おそらく徒歩で移動していった。直立姿勢故に目の位置が高く、遠くまで見渡せたということもあるのだろうが、縄張り意識が強くなかったというのも大きな要素だったかもしれない。
「じゃが、獲物を追い詰めていく途中で他のグループと出会ってしまって、獲物の奪い合いになるような状況もあり得るんじゃないのかね?」
「ええと・・・あ、ないです!」
「ほう? どういうことかな」
「牛1頭倒せば一度に食べきれないほどの肉が手に入るんですよ。そんな時はお互いに協力しあって公平に分配した方が安全で楽じゃないですか」
「・・・そうかもしれんな」
シカとか、もっと小型のウサギとかが獲物だったら、とも考えたが、その場合にも獲物が豊かなら争わない方が有利になるのかもしれない。
「で、排他的になってはいけない理由というのは?」
「狩猟採集民一人が必要とする土地の面積は農耕民よりもはるかに広いんだそうです。ですからそれぞれの集団の人数が増やせない。少ない人数で近親交配を続けていると遺伝子の良くない変異が溜まっていってしまう・・・だったかな、なんかまずいんだそうで、そういう集団は淘汰されていくだろうということでした」
「なるほど。それはもしかして佐々木の考えかな?」
「分かっちゃいますか。そうなんです。佐々木先生は農耕という形で土地を占有する生活を始めると、人口がその土地が許容する限界を超えた時には土地の奪い合いをするしかない。それが戦争の原型だと考えてらっしゃるみたいなんですよね。ナチスドイツがポーランドに侵攻したのもポーランドの鉄・・・だったかな、そういう資源が欲しかったからだそうです。『狩猟採集の時代の地球は平和だったに違いない』とおっしゃってました」
「・・・相変わらず成層圏から見下ろすような考え方をしとるなあ。しかし、現代人がそんな時代に戻ることはかなり困難なのではないかね?」
仮に世界中の人々が文明も農耕も放棄して狩猟採集の生活を始めたとしても多くの人が飢え死にすることになるだろう。
「ええ。地球の人口を少なくとも10万分の1にする必要があるそうです。無理ですよね」
(確かに無理だが・・・)
不可能ではあるまい。バイオテクノロジーを使えばヒトの繁殖率だけを下げることなど簡単だろう。実行したら人類全体に対する自爆テロだが。
「ですから佐々木先生は、まず世界的な人口増加を抑制することから始めようとされてます。すべての先進国がどこかの国みたいに一人っ子政策を導入して、不足する人口は発展途上国からの移民で補うというやり方も考えたことはあるそうですよ」
「無茶なことを・・・」
「ええ。でも『手遅れかもしれないが、できることもやらずに奇跡を願うわけにもいくまい』とおっしゃってました」
「そうか・・・」
幼なじみが人類の未来をそこまで憂えていたというのはショックだった。ネアンデルタール人に会いたいなどと個人的な動機に基づいて行動していていいのだろうかとも思う。かといって自分が人類のために何ができるのか、できることなどあるのかどうかも分からない。
(とりあえずあゆみ君は無事に現代へ連れ帰らなくてはならんな)
キャンプの近くまで来た所であゆみが鼻をひくつかせた。
「先生、煙の臭いがしませんか?」
「んん?」
あゆみは返事を待たずに崖に近寄って行く。
「こらこら、落ちるぞ」
残念ながらそういう助言を素直に聞き入れるようなタイプではない。あゆみは崖際に腹這いになると崖下に向かって呼びかけた。
「ルトーン! シッラ-! ナウル-!」
少しして崖下から「アウミー」という返事が聞こえてくる。確かに上流側と下流側へ歩いた距離を考えれば洞窟の真上辺りまで戻っていてもおかしくはない。
「私たち、お二階さんだったんですねー」
キャンプに戻って来たあゆみはのんきなことを言う。位置関係はちょっとしたビルの1階と屋上くらいになるはずなのだが。
(天井の厚さが10メートル近くだと考えればそういう言い方も成り立つか・・・)
幾何学的な意味でなら相似であると言える。
デイパックをテントの中に放り込んだ博士はタイムマシンの中からまたのこぎりを出してきた。
「まだ補強するんですか」
「いや、槍を作ろうと思ってな」
「槍・・・ですか?」
「うむ。ナウルだけは槍を持っていなかった。おそらく槍は大人の印なんじゃろう。したがってわしらも槍を持たねばならん」
「穂先はどうするんです? 石器の穂先まで作る時間はないんじゃないですか」
「・・・そこら辺は妥協するしかないな」
(穂先のない槍って、ただの棒なんじゃないの?)
それは口にしないでおいた。
二日目
二人が早めの昼食を終えてもネアンデルタール人の引っ越し部隊が現れる様子はなかった。ただ、かすかに煙の臭いが上がってくるので洞窟に誰かがいるのは間違いない。
「先生。私、不思議なんですけど、あの人たちはなぜ槍を投げないんでしょう? 牛の角が届かない所から槍を投げた方が安全だと思うんですけど」
崖下の様子を監視する合間にあゆみが問いかけてくる。確かに槍を投げるなり、矢を射るなりすれば、より遠い間合いから攻撃できるだろう。
「ああ、それはじゃなあ・・・」
博士は枝が生えていた部分をナイフで削っていた手を止めた。あゆみの手のひらに傷をつけるようなことはあってはならないからていねいに成形する必要があるのだ。木工用のヤスリがあればもっと楽だったのだが。
「槍を投げて急所に命中させられなかった場合には槍が刺さったままの獲物に逃げられてしまう可能性があるんじゃ」
サバイバルの手引き書などには「ナイフと棒で槍を作るのはいいが、それを投げてはいけない」と書かれている場合もある。
「弓矢ならなおさらじゃろう。投げるための槍とか弓矢とかは使い捨てにできるような量産体制ができている事が前提になるんじゃろうな。そうでないなら手放さない方が確実じゃろう。ほれ、これがあゆみ君用じゃ」
あゆみは棒の先端を尖らせただけの槍を渡された。
「・・・やっぱり私もですか」
「当たり前じゃ。槍の一本も持っていないようでは一人前と認めてもらえんぞ」
「分かりました」
(別に認めてもらわなくても困りませんけど)
そう思いながらも受け取っておく。両手は空いているし、じゃまになったら放り出せばいいのだし。
突然崖下が騒がしくなった。
「先生!」
崖際に駆け寄ったあゆみが声を上げる。崖下からは獣のうなり声も聞こえてくる。
「どうした?」
「クマです」
腹ばいになって崖の縁から顔を出して見ると大型の獣が後ろ足で立ち上がってかぎ爪のついた両前足を広げていた。体毛は濃いめのきつね色。ヒグマか、その仲間らしい。それに対して洞窟の前に立ったルトンとシッラが槍を突きつけている。どうやら肉の臭いをかぎつけてやってきたクマを追い払おうとしている状況らしい。二人の後ろからも煙の尾を引く燃えさしが投げつけられるがひるむ様子はない。
「爆竹を使います」
「やってくれ」
膝立ちの姿勢を取ったあゆみは、ベストのポケットから取り出した爆竹の導火線に使い捨てのターボライターで火を点けると、クマに向かって投げ落とした。
予告なしの派手な連続爆発にすくんでしまったのはルトンとシッラも同じだったが、我に帰るのはクマの方が早かった。身を翻すと素早く藪の中に駆け込んでいく。クマにとってはアウェーでの戦いだ。積極的に攻める気もなかったのだろう。
「ヤッホー」
あゆみは崖下の三人に向かって手を振っている。
(人類史に干渉することにはなったかもしれんが・・・)
ここで誰かが命を落とすことになっていた可能性がないとは言えない。
「下りてみようか」
博士はあゆみに声をかけると急いでキャンプに戻った。
博士はバッシ、バッシと槍で灌木を叩きながら斜面を下りていった。わざと音を立てるのは牛の死骸を食べに来ているかもしれない肉食獣に接近を知らせるためだ。
大岩の間から覗いてみると牛の死骸があったところには黒く染まった地面しかなかった。そして、崖と反対側の藪の中へ何かを引きずって行ったらしい跡が残っている。
(クマか?)
ロアウたちが回収したのなら引きずることもあるまい。
(せめて現代へ戻るまでおとなしくしていてくれればいいんじゃが・・・)
あゆみが撃退したのと同じ個体だという保証もない。博士はベストのポケットの上から唐辛子スプレーと爆竹を確認した。
崖の張り出しを回り込むとルトンとシッラが駆け寄ってきて槍を左手に持ち替え、何か言いながらあゆみの二の腕や背中をポンポン叩くのだった。
どうもこの右手でポンポンには肯定的な意味があるようだ。この場合は「よくやってくれた」というところだろう。
そこへ下流側から太い声がかけられた。ロアウが戻って来たのだ。ルトンとシッラはさっそくロアウに説明を始める。ときどきあゆみを指さしているから「アゥミがクマを追い払ってくれた」とでも言っているんだろう。
その間に子どもの手を引いたアルエとルテを先頭に槍を杖代わりにして足を引きずっている男やお婆さんに手を貸している女性も現れる。子どもたち以外は槍を持っていて、けが人やお婆さん以外の大人は大型のダッフルバッグサイズの毛皮の包みを両肩にかけた毛皮のベルトで背負っている。ウエストバッグは子どもたちも含めて全員身につけている。
毛皮の包みを降ろしたロアウは硝煙の臭いに鼻をひくつかせながら周囲の茂みから転がっている爆竹の残骸や炭化した小枝、そして洞窟へと視線を移すと洞窟へ駆け込んで行った。何があったのか分からないが、ルトンに続いてあゆみと博士も洞窟前のテラスを駆け上がる。
洞窟の中ではロアウが頭を灰まみれにしたナウルに怒声を浴びせていた。ロアウの指さす先を見ると物干し台の下のたき火が灰になっている。どうも「おまえは火の番もろくにできないのか!」という状況らしい。ロアウに胸を突き飛ばされたナウルは尻餅をついた。
(いかん!)
博士は空いている左手を伸ばしたが、あゆみのダッシュの方が早かった。転んだナウルに詰め寄っていくロアウの前に両手を広げて立ちはだかる。逆らわれることになれていないのか、立ち止まったロアウにターボライターを突きつけて火を点けてみせた。
(それは未来のテクノロジーじゃあ!)
こういう場面であゆみが脊髄反射的に飛び出していくことがあるのは予想していた博士だが、若さにはかなわない。
ロアウは小さいくせに揺らぎもせずに「ボーッ」という音を立てる青白い炎のようなものに人差し指を伸ばして、すぐに引っ込めた。熱いのが分かったのだろう。さらにあゆみに向かって手のひらを差し出すが、あゆみは首を振ってライターの火を消した。
気が削がれてしまったらしいロアウは振り向いてルトンとシッラに何か指示を出した。それを聞いた二人は洞窟の奥にストックしてあったらしい枯れ草や細い枯れ木を物干しの下に置いた。事情を察したあゆみが火を点けてみせると周りで見守っていた他のメンバーから「オーウ」という声が上がる。
(駄目だと言ったのに・・・)
ロアウはここまで紳士的に振る舞ってきてはいるが、便利な道具を力ずくで奪い取ることを考えないという保証はないのだ。
博士の心配にまったく気が付いていないあゆみは炎が安定するのを待って灰まみれのナウルの手を取った。
「ほらナウル、こっち来て」
洞窟の外へ引っ張り出すと、デイパックからタオルを取り出してナウルの頭や服の灰をはたき落とし、さらにペットボトルの水で濡らして汗で張り付いていた顔の灰も拭いてやる。
「ヴォ」
ナウルは腕まで拭いてやろうとしていたあゆみの左腕をポンポンすると洞窟に駆け込んでいった。
(・・・『ヴォ』には『ありがとう』の意味もあるということか? 全般的に『良い』ことはすべて『ヴォ』なのか・・・)
博士の考察は二人の女性が視界に入ってきたことで中断させられた。一人は白髪頭のお婆さん。背筋は伸びているが、手足はだいぶ細くなっているようだし、顔の皺も深い。筋肉が少ない分体温が下がりやすいのか、ノースリーブには七分丈の袖が付けられているし、スカートも膝下丈だ。
もう一人は彼らには珍しく黒い髪で・・・スタイルが良かった。ネアンデルタール人女性としては背が高く、手足も長い。また、他のメンバーの標準であるノースリーブと巻きスカートではなく、ワンピースになっているようだ。大きく開けた胸元からは白い谷間が見えているし、絞ったウエストが体の線を強調している。
(シッラの上着はこの女性の真似をしたのかもしれんな。巻きスカートではないということは、走ったり足を大きく広げて踏ん張ったりする必要がない立場ということか)
顔立ちはネアンデルタール人女性そのものだが、前髪を下ろして額を隠し、ていねいに化粧すればスペイン人女性の中に紛れ込めるかもしれない。
「ふぁのう、----・------」
槍を持ち替えたお婆さんが名乗って、あゆみの左腕をポンポンする。歯がほとんど抜けているらしく息が漏れている。言葉はもちろん分からないが、クマを撃退したことに対して感謝してくれているのだろう。
「パノウ、----・------」
横に並んだ黒髪の女性が発言した。同じ台詞を正しい発音で繰り返してくれているらしい。最後に自分は「ノーレ」だと名乗った。
さらに後ろを振り向いたパノウが何か言ったが、そこに立っていたロアウは「ニーヴォ」と応えた。続けて口元に手をやりながら説明を加えている。
(ふむ。『ニーヴォ』は『ヴォ』の否定形か。『良くない』と。ということはその次は『こいつらはベジタリアンなんだ』じゃろうな)
そこで気が付いた。ロアウはパノウの左後ろに2歩下がった所にいる。彼らは基本的に右手で槍を持つから左側が弱点になる。つまり左後方は用心棒のポジションだ。そしてノーレは右手側で半歩下がった位置。こちらは秘書というところか。
(ロアウは狩りをする時のリーダーで、グループ全体の長はパノウなのだな)
「えと・・・」
ロアウの説明はあゆみにも見当が付いたらしい。ベストのポケットから干しアンズを取り出してパノウとノーレに勧めた。
パノウは干しアンズをつまみ上げて匂いを嗅いだが、困ったようにノーレを見つめている。その間にノーレはさっさと干しアンズを口に放り込んで噛み始めた。
(いかん!)
「あゆみ君・・・」
奥歯まで抜けていたら噛み潰せない。それに気が付いた博士がアドバイスしようとした時には少しかがんだノーレがパノウと唇を合わせていた。
「えっ」
「なるほど。噛み砕いてあげれば歯がなくても食べられるんじゃな」
誤解しているらしいあゆみのために解説してやる。
「そうですか。よかったぁ」
「うぉ」
パノウは皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにしてお礼を言ってくれる。
「あら?」
あゆみはノーレの後ろから顔だけを出して興味深げに見上げている男の子に気が付いた。現代人なら小学校低学年くらいだろうか。いや、もう一人ノーレの腿の陰から顔を半分だけ出しているもっと小さい子もいた。こちらは女の子のようだ。
「はーい、こんにちは-」
あゆみはさっそく男の子の前にしゃがみ込んだ。
「食べるー? おいしいよー」
差し出された干しアンズを見た男の子は困ったようにノーレを見上げた。ノーレが頷くとあゆみが手のひらに載せていた干しアンズを全部受け取ってしまう。
(あれあれ、けっこう欲張りなのね)
あゆみがあきれていると、ノーレの後ろにまわった男の子は干しアンズの半分を女の子に分けてあげた。女の子は花が咲いたような笑顔になるとアルエのもとへ駆けていく。男の子はルテだ。母親にも分けてあげましょうということらしい。そして食いしん坊のシッラはそれを見ておやつタイムだと判断したようだ。素早くあゆみに近寄って手を出してくる。さらに斜めがけにした毛皮製のベビースリングに赤ちゃんを入れているお母さんも、ルテとアルエの母子も、ノーレまで! ノーレは身振り込みで「パノウの分までよこせ」と言っているようだ。
「えー・・・」
「全部配ってしまいたまえ。もう一袋あるんじゃから」
友好的な関係を築くためならおやつ抜きくらいは容認すべきだろう。
全員に3個ずつ配ると袋の中身は一気に減った。するとアルエが残った干しアンズと女たちを順に指さしてから何か宣言した。「1人1個配るだけの数は残っていない」とでも言ったんだろう。それを聞いた女たちは一斉に手を引っ込めた。シッラだけは少し遅れたようだったが。
ノーレは洞窟に戻ると自分の分をナウルに手渡した。礼を言うナウルの二の腕をポーンと叩いている。本当は欲しいのに言い出せずにいたのを察していたらしい。「男は肉だ!」というような暗黙のルールがあるのかもしれない。それから平らな石と丸っこい石を持ち出してきて、テラスに腰掛けているパノウの横で干しアンズをすりつぶし始めた。固いものはすりつぶせば歯がなくても食べられるということだ。口移しはあくまでも緊急避難的なやり方だったらしい。
(看護師か介護士か、そんな役回りかな)
狩りにも参加していなかったことだし、留守番専門要員、つまり専業主婦のようなものなのかもしれない。
博士がノーレに注目している間にあゆみは赤ちゃん連れのお母さんに話しかけていた。
「私、アゥミ。あなたは?」
「ヴィラ」
「私、アゥミ。赤ちゃんは?」
「ミャウミャウ」
(2音節の繰り返し?)
4音節というのはロアウグループの名前としては長すぎるような気がする。
「アゥミ」
あゆみの表情で事情を察したらしいアルエが声をかけてくる。両手のひらを30センチから60センチくらいまで広げて「ミャウミャウ」、さらに下に向けた手のひらをウエスト辺りまで持ち上げて「ワウワウ」と言った。
「ああ、そうなんだ。じゃあ、あなたの、娘は、ワウワウ・アルエ? あの、男の子は、ワウワウ・ルテ?」
女の子と男の子を交互に指さすと「ヴォ」と言って腕ポンポンしてくれる。あゆみも同じ動作で応じた。
「あゆみ君、今の会話は何だったんだね?」
博士には何が何だか分からない。
「乳幼児の死亡率が高い社会では、ここまで育てばもう大丈夫という大きさになるまで子どもに正式な名前を付けない場合があるんです。ちゃんとした名前だと悪いものに連れて行かれてしまうということで。例えばアイヌ民族だと、子どもを「小さなウンコ」と呼んでいたりしたそうです。ここではもっと大ざっぱで赤ちゃんはミャウミャウ、少年少女はみんなまとめてワウワウみたいですけど」
「ヴィラの赤ちゃん、アルエの子にルテの子というわけか」
「そうですね。ミャウミャウって多分鳴き声から来てるんでしょうね。ワウワウは・・・大声で騒ぐからでしょうか」
要するに、無駄になる可能性が高いうちは名前を付けないということだ。小児科の医者がいるわけでもないだろうし、当たり前のように子どもたちが死んでいく社会なのかもしれない。
今日は狩りをしない日だったようだ。狩人グループは思い思いにくつろぎ始める。一夜干しの牛の肉がだいぶ残っているから狩りをする必要がないということなのかもしれない。それを見たノーレはいそいそとエンセという若者を引っ張ってどこかへ出かけていった。専業主婦にも息抜きは必要なのだろう。
パノウは洞窟前のテラスに毛皮を敷いてひなたぼっこを始めた。ロアウはパノウの前の地面に敷いた毛皮の上で横になる。
ナウルと交代で火の番をしていたアレンという男は右足に毛皮を巻いて、その上に小枝を皮紐で編んだすだれ状の長靴のような物を履いていた。彼は骨折していてノーレが作ったギプスを着けているということらしかった。
そしてあゆみはシッラと子どもたちに囲まれている。シッラも子どもたちも布という素材が気になってしょうがないらしい。あゆみのポロシャツの袖と襟、ジーンズの裾などを片っ端から手で触れて質感の違いを確かめている。あゆみも面白がって子どもたちが見やすいようにしゃがんでやったりと大サービスだ。
「ナウルー、--・----?」
シッラは火の番を終えたらしいナウルにまで声をかける。
ナウルは軽く頷くと、洞窟の奥からハンカチサイズの毛皮と2メートルほどの毛皮ベルトを持ち出してきた。ハンカチサイズの方はシッラや子どもたちにも手伝ってもらって石器ナイフで切れ目を5本入れる。そのスリットに毛皮ベルトを互い違いに通していく。端まで通したら逆戻り。それは織物だ。糸で織った布と比べれば大ざっぱな織り方ではあるが、原理的には同じ物である。
「ヴォ」
あゆみが腕ポンポンしてあげるとシッラもナウルを褒める。ナウルは照れ笑いを浮かべながら逃げるように洞窟に戻っていった。
子どもたちは毛皮の織物を巡って大騒ぎを始めた。一枚の毛皮と違って隙間から光が通るのが面白くてしょうがないらしい。新しいおもちゃが手に入ったようなものなのだろう。
(はて? 織物が発明されたのは何万年前だったじゃろうか。もしかして、これも人類史の修正になってしまうのか?)
最古の織物の圧痕とされているものは旧石器時代の遺跡から見つかっているが、天然繊維は無酸素環境のような特殊な条件下でなければ生分解されてしまって遺物として現代まで残らない。したがって織物がいつ発明されたのかははっきりしていない。ナウルが作った物が人類史上最初の織物になってしまう可能性も排除できないのだった。
ふいにロアウが起き上がって隣で寝ていたルトンを揺り起こした。アルエも表情を引き締めて下流側へ目を向ける。音か匂いかは分からないが何か異常を感じ取ったようだ。
崖の張り出しの陰からノーレとエンセが現れると、ネアンデルタール人たちは一気に緊張を解いた。しかし、博士はノーレたちの後ろから現れた二人を見て目を剥いた。
(現生人類だとぉ?)
ネアンデルタール人とは正反対のすらっとした体型でミルクチョコレート色の肌ときつくカールした短い黒髪の男と女の子だった。顔立ちも現代のネイティブアフリカンと変わらない。ネアンデルタール人たちの物と同じ素材らしいおそろいの毛皮の上着には七分丈の袖が付けられていて、下もスカートではなく左右に分かれた膝下丈のズボン型になっている。体温が下がりやすい体型だけに低めの気温は苦手なのだろう。そして二人とも毛皮の包みを斜めがけにしていて、男は槍を2本、女の子は1本肩にかけている。
アフリカで生まれた現生人類は中東からユーラシア大陸へ進出していくのだが、その頃の現生人類は強い太陽光から肌を守るためにネイティブアフリカンのような濃い色の肌をしていただろうと言われている。その後、ヨーロッパに進出した現生人類は弱い太陽光と低い気温に対する適応として白い肌と長いストレートな髪を獲得してコーカソイドに進化していく。コーカソイドがヒマラヤ山脈などによって隔離された東アジアへ進出した後に少し色のついた肌と太い黒髪、そして短めの腕や脚を獲得したのがモンゴロイドだ。
(もしかして、わしらがここへ導かれたのはこの二人と出会うためだったのか?)
この時代はちょうど現生人類がヨーロッパへ進出し始めた時期にあたる。したがって現生人類が現れてもおかしくはない。しかし、それなら何もネアンデルタール人がいる場所に導かれる必要はないはずだ。
(ネアンデルタール人とアフリカを出たばかりの現生人類、そして未来人が揃う必要があった・・・のか?)
いずれにせよ、あゆみがこの時代に召喚された理由はまもなく分かるという予感がする。そう、時の女神というようなものが存在するとしても、必要とされているのはおそらくあゆみの行動力なのだ。博士はただの運転手兼見届け人に過ぎないだろう。悲しいことだが、年を取るとそういうことまで見当がついてしまうのだった。
「ナウル-!」
女の子は槍を左手に持ち替えながら駆け寄ると、ナウルの左の二の腕をつかんだ。するとナウルは笑みを浮かべて力こぶを作る。
「わぁっ」
驚いたように声をあげて手を放した女の子の腕を逆につかんだナウルが何か言うと、女の子はその手を振りほどいてナウルの腕をパシーンとひっぱたいた。台詞をアテるなら「ナウル-、筋肉付いたー?」「ほらどうだ」「わぁっ、すごーい!」おまえは相変わらず細いなー」「ほっといてよっ」というところだろう。
(久しぶりに会う幼なじみみたいね)
ロアウグループのメンバーでナウルと同じ年代らしいのはエンセくらいで女の子は見当たらないのだ。
シッラに聞いてみると女の子はファーミ、男はモシというらしい。ファーミの方もあゆみたちを指さしてナウルに何か話しかけている。ネアンデルタール人とは体型も顔立ちも着ている物まで違うからだろう。ただ、モシもファーミも敵意や警戒する様子は見せていない。「変な奴らがいる」程度の認識らしい。
モシはパノウに挨拶し、パノウはテラスに置いていた毛皮を示して「どうぞ、お座りください」というような動作をした。そこに腰を下ろしたモシはパノウの前に槍を一本置く。それを手に取って穂先の鋭さやがたつきがないことを確認したらしいパノウは「うぉ」と一言告げて、側にいたロアウに何か指示した。ロアウはすぐに動いて洞窟の奥からシカのものらしい毛皮を一抱え持ってきてモシの前に置く。モシはそれを一枚一枚調べては脇へ置いていく。
(物々交換か!)
春が来たので川沿いに標高の高い所へ引っ越したロアウグループを追いかけてきた交易人というところなのかもしれない。
博士は改めて周囲を見回した。彼らの持っている槍は柄の長さがほぼ揃っている。それだけではなく、穂先の石器の長さや形も、それを固定している部分の白っぽい紐の質感や巻き幅まで同じくらいに見える。
(一人の職人によって作られたか、それともちゃんとした見本があってそれを基準に作られたのか・・・)
ロアウグループだけという可能性も否定することはできないが、ネアンデルタール人と現生人類は毛皮製造と槍作りというお互いの得意分野を活かして共存しているのかもしれない。実際、ネアンデルタール人と現生人類は同じような石器を使っていた時代があり、出土した石器だけではネアンデルタール人の遺跡か現生人類のものか判断できないらしい。
「ヴォ」
モシが最後の毛皮をチェックし終えると二人はお互いに笑顔で二の腕ポンポンした。
商談を終えたパノウはファーミと一緒にそれを見守っていたナウルを呼んだ。そして近寄ってきたナウルに向かって買い取ったばかりの槍を差し出す。目を見開いて硬直してしまったナウルに押しつけるように槍を受け取らせたパノウはナウルの二の腕を叩く。それを見たノーレは素早く近寄ってナウルの背中をぶっ叩く。他のメンバーも全員でナウルを取り囲んで何か言いながら背中から頭までバシバシ叩き始める。叩かれているナウルもうれしそうだから彼らなりの祝福の仕方なんだろう。
(やはり槍は一人前の印なんじゃな)
そうなるとただの棒しか持っていないあゆみと博士は一人前未満ということになってしまう。もっとも、槍など持っていなくても生きていける世界からやってきた二人を戦力としてあてにされても困るのだが。
洞窟ではひとしきり叩かれまくったナウルにエンセが自分の槍を見せていた。何か言われたナウルは強い口調で言い返して、授けられたばかりの槍を背中に隠す。エンセの槍の穂先は欠けているから「いいなー。俺のと取っ替えてくれよー」「やだよ!」というような状況なんだろう。他のメンバーも大笑いしている。
そこへモシが割って入った。エンセから槍を受け取ったモシは、穂先の表裏を観察してから何か言った。すぐにルトンが動いて、一枚の毛皮をテラスに広げる。それに包まれていたのは牛のものらしい大腿骨の上半分とたくさんの小さな石の欠片だ。モシは毛皮の上にエンセの槍を置くと、大腿骨が股関節に嵌まる部分の丸い膨らみをハンマーのように使って穂先の石器を慎重に叩いていく。ネアンデルタール人たちが輪になって見守る中で小さな破片がいくつか跳ね、モシが大腿骨を置いて槍をエンセに返した時には、その穂先はやや短くなったものの充分な鋭さを取り戻していた。
(ううむ、アフターサービスも万全か)
モシ自身が槍職人なのか、修理もできるセールスマンなのかは分からないが。
「ヴォ!」
「ニィ・ヴォ」
モシは白い歯を見せて、恐縮した様子で感謝するエンセの二の腕をポンポンした。
(「良くない」? いや、「礼はいらないよ」か?)
アクセントがロアウの「ニーヴォ」とは少し違っていたような気がする。
パノウの向かいの席に戻ったモシはさらに石器ナイフを2本毛皮の上に置いた。手の向きを見ると「子どもたちにどうですか」ということらしい。これはサプライズだったらしく、パノウは泣き出しそうな顔をしながら何度も何度も礼を言う。その間にノーレは折りたたんだ小さめの毛皮を何枚か持ち出してきた。中身はどれも枯れ草のようだったが、そこにまだ緑のラベンダーやカモミールを載せるところを見ると薬草のストックだったらしい。モシも礼を言いながらそれもひとまとめに毛皮で包んだ。
(立派な商売人じゃな。しかし・・・・・・)
現生人類が進出してくる前はネアンデルタール人も自分たちで石器を作っていたはずだ。モシのような外部の職人に依存しすぎると彼ら自身の石器作りの技術が失われてしまうことになるのではないか? そうなってから現生人類との交流が絶たれたら、大型動物を狩るのもクマを撃退するのも困難、ということになりかねない。便利さは人の自立性を失わせる。悪い表現を使えば「堕落させる」のだ。それが直接絶滅に繋がるわけではないだろうがマイナス要因の1つにはなるだろう。
ルトンが毛皮と骨ハンマーを片付け始めるとパノウがロアウに何か言った。頷いたロアウが具体的な指示を出していくと、狩りに参加していたメンバーが次々に槍を手にする。
「ナウル-」
毛皮ロールを斜めがけにして洞窟を出ようとしていたナウルの腕をファーミが捕まえた。ファーミに何か言われたナウルはロアウの許可を取ってからファーミと一緒に洞窟を出る。他のメンバーも2・3人ずつに分かれて出かけていく。洞窟を出るときは二人以上で、というようなルールがあるのかもしれない。クマが出るような環境ならその方が安全だろう。
居残り組も子どもたちまで動き出した。洞窟の奥にストックしてあったらしい握り拳ほどの石をノーレの指示で洞窟前の広場に積み上げ始める。石にはいずれも焦げた痕があった。
(炉を作るのか?)
だが、形がおかしい。できあがりを予想すると薄っぺらな山形になってしまいそうだ。
石の山ができるとその前後に枯れ草が置かれ、ノーレとパノウが紐ぎり式で火を点けた。炎が上がったところでさらに薪が追加される。
「キャンプファイヤーですか?」
「・・・分からんな。モシとファーミを歓迎しようということだろうが・・・」
子どもたちとノーレとモシは洞窟の奥から棒を一本ずつ運び出している。子どもたちはお手伝いをしてノーレに二の腕ポンポンされるのがうれしくてたまらないらしい。にこにこしながら働いている。
(懐いておるなあ)
おそらく母親たちが狩りに出ている間はノーレが遊び相手をしているのだろう。保母さんでもあるらしい。
「アゥミ! ジロー!」
ノーレが二人を呼んだ。モシと一緒に手伝えということらしい。シッラと同じ遠慮しないタイプのようだ。
言われるままに棒を支えていると、4本の棒の交点をノーレが毛皮ベルトで縛る。できたのは骨だけのピラミッドのような四角錐だ。さらにモシが棒の下から三分の一くらいの所に一枚物の毛皮を縛り付ける。
(ハンモックのようじゃが・・・)
中央部がへこんでいるから座れそうには見えるが、毛の生えている側が下になっている。それでは肌触りが悪いだろうし、大人の体重を支えるのには棒が細すぎるような気がする。
そこへナウルとファーミが水入りの毛皮バケツを運んできた。ナウルは槍を2本持っていて、ファーミの方は30センチほどの魚を二匹、えら蓋に指を引っかけて持っている。
「へっくし」
ファーミがかわいいくしゃみをした。よく見ればファーミのズボンは腿辺りまで、上着の袖も肩の近くまで濡れている。魚を捕まえたということだろうが、春先に水をたっぷり吸った毛皮を着ていたんでは冷えるのが当たり前だ。
モシが強い口調で叱りながらバケツ持ちを代わると、ノーレがファーミを洞窟の奥に連れて行く。それを見たあゆみもデイパックからタオルを取り出して二人を追った。
(濡れとらんな)
ナウルの腕や脚はほとんど濡れていなかった。せいぜい足首の上くらいまでだ。川の中に入って魚を捕まえたのはファーミの方だったということだろう。
(ネアンデルタール人には魚を捕る習慣がない、ということか?)
男なら女の子の前ではいいところを見せたいと思うのが普通だろう。それをしなかったということは魚の捕り方そのものを知らないという可能性が高い。実際、ネアンデルタール人の歯垢や便の化石の分析によって、彼らは主に牛や鹿のような大型獣の肉と塊茎やベリーなどを食べていたことが分かっている。魚なら牛のように反撃してくることもないだろうし、現生人類はアフリカの海岸近くに住んで主に海産物を食べていた時期がある(人類が進出した地域ではシャコ貝が絶滅しているというデータもある)のに、だ。また、2万9000年前、ジブラルタル海峡のヨーロッパ側に住んでいたネアンデルタール人たちは海峡を渡ってアフリカへ進出しようとしなかったらしい。ここの潮流は速いとはいえ、たったの14キロしかないのにもかかわらず、である。
「カナヅチか・・・」
「どうかしました?」
あゆみが戻ってきていた。その背後ではたき火の前のファーミが毛皮をバスタオル風に巻き付けたセクシーな格好で裏返したズボンを乾かしている。その隣に立てられた3本足の櫓には裏返しにされた上着も引っかけられている。で、ナウルはやっぱり火の番である。好きだからやっているのか、ファーミの側にいたいだけなのかは分からないが。
「筋肉にしろ骨にしろ水よりも比重が大きい。ネアンデルタール人のようながっしりした体型では沈んでしまうんじゃろう。彼らに魚を食べる習慣が定着しなかったのはそういうわけではないかと思ったんじゃ。彼らにとって川や海はできれば近づきたくない危険な場所なんじゃろうな」
「へえ・・・・・・。私、寒いとこで体を濡らすと風邪をひくからだと思ってましたけど。この時代にはタオルなんかないんですから」
「・・・そうじゃなあ。そういう可能性もないとは言えないかもしれんなあ・・・」
ファーミの健康的な手足にばかり目を向けているのはマナーに反するので視線を逸らすと、モシとナウルが毛皮バケツの水を半分ほどハンモックに注ぎ込んでいた。
「これが鍋か!」
「ええっ。皮ですよ?」
「焼き石鍋を知らんかね」
「何ですか、それ?」
「鍋・・・桶だったかな・・・それに水と具材と味噌を入れておいて、そこに加熱した石を投げ込むと一気に沸騰するという調理法じゃ。なるほど、直火でなければ毛が燃えることもない。臭いに敏感な彼ら向きのやり方じゃな」
ネアンデルタール人の遺跡からは石器による傷の付いていない骨も出土している。これを根拠に肉片の残っている骨を煮て食べていたのだろうという研究者もいる。アルマイトや鉄の鍋はもちろん、世界最古の土器片ですら2万年前のものが中国で発見されているだけだが、焼き石鍋なら毛皮でも成立するのだ。ただ、大量の薪を必要とするから日常的に鍋料理というのは無理があるかもしれない。
そこへロアウたちが戻ってきた。獲物はシッラが野ウサギを一羽、他は全員野草を持っている。小型のカブやタマネギにしか見えない物もあるから野菜と呼ぶべきかもしれない。ルトンはさっそく専用の毛皮を広げてウサギの解体にかかった。わざわざ鍋用に仕留めたのなら大事な客人に古い肉は出せないというようなこだわりがあるのかもしれない。
「野菜も食べるんですか、この人たち?」
「肉食寄りの雑食なんじゃろう。ユキヒョウやクマもベリーの類を食べると言うし、低分子量の炭水化物、つまり甘い物なら肉食向きの短い腸でも消化できるんじゃろうな。ビタミンなども必要じゃろうし。それと、モシとファーミがより植物食寄りの雑食であることを知っていて二人を歓迎するという意味もあるのかもしれん」
「・・・それって、私たちは歓迎する価値もない客だってことになりませんか?」
「それはしょうがない。わしらは注文されていた槍を持ってきたわけでもない、いわば招かれざる客なんじゃから。拒否されなかっただけでもありがたいと思わねばなるまい」
「・・・・・・あ、あれ何でしょう?」
モシは小さな皮製の包みから白い砂のような物をひとつかみ鍋に入れた。パノウが白樺らしい棒でそれをかき混ぜる。
「多分、塩じゃな。鍋で煮る場合、水を加えた分だけ肉の塩分が薄められるからそれを補おうということじゃろう。野菜には塩分がほとんど含まれておらんしな。ロアウたちが日常的に鍋料理を造っていないらしいのも塩が入手しにくいということが影響しているのかもしれん」
日本の縄文人は世界的にも古くから土器を使って煮炊きをしていた。それは海の近くで生活していたために塩を手に入れやすかったことが大きな要因だった可能性もあるだろう。
パノウはモシと一緒に塩水を味見した後、他のメンバーに指示を出した。それを待っていたファーミが魚を鍋に入れ、アルエやシッラも半割にしたカブやタマネギを入れる。ルトンはウサギの肉だ。まず出汁を取って、具材を煮てから味を調えるというようなことはしないらしい。というより、火加減もできない焼き石鍋では無理なのだろう。
そうこうしているうちに石の温度が上がったと判断したらしいパノウが次の指示を出し、ロアウが2本の棒を使ってたき火の中から石を取り出すと、鍋の中に放り込んだ。水が一気に沸騰して蒸気が立ち上るたびにネアンデルタール人たちが歓声を上げる。
(花火みたいなものなんじゃろうな)
滅多にない非日常なのだろう。
ロアウが焼き石をいくつか投げ込んで、まだ沸騰しているうちにノーレが30センチほどの2本の真っ直ぐな小枝を配り始める。
(これは箸か! 箸はこの時代から使われていたのか!)
違った。モシもパノウも他のメンバーもナイフの持ち方で握っている。おそらく汁の中から具をすくい上げるための道具なのだろう。石器ナイフでは短すぎるとか皮の鍋を傷つけるとかの問題があるのかもしれない。
ノーレが箸を配り終えると、まずモシが葉の付いた半割のカブをすくい上げた。ファーミは肉だ。続いてパノウがタマネギ。これはノーレが平らな石で受け取ってすりつぶす。それをパノウが口にしてから他のメンバーも手を出し始めた。あゆみたちもそれに倣う。が、あゆみが芽の出ているタマネギをつまみ上げた途端に全員の手が止まった。
「えっ?」
(またやりおった!)
「あゆみ君、この時代には箸を使うという文化はまだないんじゃ」
彼らにとって2本の小枝はフォークのようなものなのだろう。ただし、フォークもパスタ用に三つ叉のものが発明される前は二叉だったというからルーツはひとつで、食卓でナイフを使う文化圏と一口大に切り分けた状態で提供する文化圏で別々の方向へ進化したという可能性もないとは言えない。
「あ、そうですね。ほら、こういう持ち方だとつまめるの」
今度は得意げにウサギの肉を持ち上げてみせる。博士は「この時代に存在しないはずの文化を持ち込むな」と言いたかったのだが。
あゆみの箸使いを見たネアンデルタール人たちの何人かが持ち方を変えたが、いずれも逆手のナイフグリップ、つまり握り箸だ。
「アゥミー」
ナウルが寄ってきて握り箸を見せた。持ち方を教えてくれということらしい。ファーミもついてきてあゆみの反対側から手元を覗いている。
「はい。まずこうやって親指の付け根と薬指で一本固定して」
調子に乗ったあゆみは箸の持ち方教室を始めてしまう。
「できた? そしたらもう一本、親指と、人差し指と中指で持てば、ほらつまめるでしょ」
習得するのはナウルの方が早かったが、ファーミもすぐそれに続いた。二人とも喝采を浴びてうれしそうだ。日本人の目で見れば、ちょっと力を入れすぎなのだが。
それを見たシッラはうまいことを考えたらしい。石器ナイフを取り出して「これに載せて」という動作をする。ナウルが肉をサーブすると他のメンバーもそれを真似し始める。
「ナウル! 私がやるからあんたは食べなさい」
あゆみは少々きつい口調でナウルから給仕係を交代した。そうでもしないとナウルは何も食べられないだろうという判断だ。どうにもナウルは言われた事をすべて引き受けてしまうタイプらしい。
あゆみは言葉が分からないのをいいことに、男たちには野菜や魚の身を、女たちにはウサギの肉を多めに給仕する。男たちは面白くなさそうだったが、女たちは目で感謝の意を伝えていた。近くにいたファーミも小さな声でお礼を言ったが、それは多分ナウルを解放してくれたことに対するものだろう。
「先生・・・後でおじやを食べましょう」
あゆみが給仕をしながらささやく。
「そうしよう」
出汁はともかく、アクもすくっていない薄い塩味の煮物である。しかも炭水化物が不足している。現代の日本人にはインスタント味噌汁のおじやの方がマシなのだった。
鍋の中身がウサギと魚の骨だけになると食事会もお開きになった。順に石器ナイフを洗い、手分けして毛皮鍋を外し、ピラミッドを分解して片付ける。ここでも子どもたちは洞窟から離れない範囲でお手伝いだ。
宴の痕跡が灰まみれの石の山だけになると、またくつろぎタイムが始まった。ノーレはまたエンセを連れてどこかへ出かけたが、パノウはテラスに敷いた毛皮に座ってモシの話を聞いているし、ファーミとナウルも並べた毛皮に寝転がっておしゃべりしている。他の大人たちもそれぞれ日の当たる場所に毛皮を敷いて寝てしまった。
子どもたちはまだ眠くないらしく、自分用の毛皮がないためにテラスに腰を下ろしていたあゆみに目を付けたらしい。男の子が女の子の手を引いて近寄って来ると、あゆみの頭を指さして何か言った。その台詞の中に「ノーレ」という単語を聞き取ったあゆみも自分の髪を一房つまみ上げてみせる。
「そーだねー。ノーレと同じ色だよねー」
それを聞いた二人の顔がパッと明るくなる。
「こっちのおじいちゃんは、パノウとおんなじだよー」
博士の白髪頭を指さすとこれまたウケる。異民族の言葉の中に親しい人の名前が出てくるのが面白くてたまらないらしい。
「あー、お姉さん、いいこと思いついちゃった-」
あゆみはベストのポケットから干しアンズを1個取り出して子どもたちに見せてから背中に両手をまわして右手に握り込むと、男の子に向かって両こぶしを突きだした。どっちに入っているか当ててみろというわけだ。男の子はさして考えもせずに右手を選んだ。
「当たり-。はいどうぞ」
次は女の子の番だったが、彼女はさんざん考えた末にハズレを引いた。
「残念でした-」
「あゆみ君、この子たちの母親はアルエとルテだとして、父親は誰なんじゃろう?」
閑な博士は観察を続けていたらしい。
「残念。ハズレでしたー。じゃ次ね。グループ全体の子どもたちとして育てられているんじゃないかと思いますよ。ハーレムじゃなさそうですしね。残念。ハズレでしたー」
自分の番が来ると女の子はまた真剣に悩む。
「グループ内の男たち全員とヤって、誰が父親か分からなくしてるのかもしれませんね。はい残念でしたー」
「そ、そうかね・・・」
若い女性に「ヤる」というような表現を使われるのに慣れていない博士であった。
その後、男の子が三個目の干しアンズをゲットしても女の子はすべて外していた。あゆみも女の子に当てさせようとしているらしいのだが、女の子は見事に外しまくっている。
(確率的にはあゆみ君の側も女の子の側も2分の1。それでこれだけ差がつくというのは・・・相性が悪いということか)
かわいそうだがどうしようもない。
5対0になったところでヴィラの赤ちゃんが泣き出した。すると隣に寝ていたアルエも上半身を起こしてヴィラと二言三言会話する。それからヴィラは毛皮のベビースリングを斜めがけにし、アルエは洞窟から予備のベビースリングらしい毛皮を持ち出してきた。どうもおしっこかウンチらしい。
「ワウワウ-」
アルエの声に振り向いたのは女の子だけだった。
(ふむ。母親に呼ばれた場合は自分に用があるのだと判断するわけだ。・・・二人の母親以外から呼ばれたらどうなるんじゃろうか?」
女の子はあゆみの空っぽの手のひらを悔しそうに見つめてから川の方へ向かうヴィラとアルエを追いかけていった。見知らぬ客がくれるおやつよりもおむつ替えのお手伝いの方が大事なのだろう。
3人が帰って来た時には男の手のひらに干しアンズの山ができていたが、男の子はドスドスと音を立てるような勢いで戻ってきた女の子に戦利品を半分手渡した。立派なお兄ちゃんである。あゆみも腕ポンポンして褒めてあげている。
広場の半分以上が日陰になる頃、ノーレたちも帰ってきた。獲物はそれぞれ草を一抱え。ラベンダーやカモミールが混じっているから薬草なのだろう。それに見知らぬ女性が一人・・・。このネアンデルタール人女性は寝床用らしい毛皮ロールを斜めがけにしているし、まずロアウに紹介するところを見ると他からやってきたのらしい。
紹介されたロアウは妙に楽しそうに女性を連れて藪の中に消えていった。マンツーマンで念入りな身体検査をしようとか、そういう雰囲気だ。
「立場上グループ内の女に手を出すわけにはいかないんでしょうね」
「・・・・・・そのようじゃな」
若い女性に「ヤる」とか「女に手を出す」というような表現は使って欲しくないが、こういう時にクレームを付けるのもセクハラになるのだろうかと悩む博士であった。
しばらくして帰ってきた二人はあからさまにくっついていた。女性はロアウの左肩にもたれるようにして歩いている。
「あーあ、べったり・・・・・・」
「なぜべったりできるか分かるかね?」
「え? それは・・・相性がいいのを・・・」
「ああ、すまん。質問の仕方が悪かったな。精神面ではなく、物理的な条件の話じゃ。あの女性は今、槍を左手で持っている」
「ええっ?」
そういえば藪に向かって行く時の二人の間からは前方の藪が見えていたような気がする。
「彼らにも利き腕はあるんじゃろうが、槍は全員右手で持っていた。集団で獲物を包囲した場合、持ち手が揃っていないと死角ができるんじゃろうな」
「・・・二人とも右手に持っていると槍がじゃまになってそれ以上近くへ寄れないというわけですか」
「慣れない左手に持ち替えると右手側の防御を放棄することにもなるから、精神的な面でも『あなたを信頼しています』という強い意思表示になるのかもしれんが、ね」
「なるほど・・・」
ここは、洞窟から離れる時には必ず槍を持って行かなければならないような環境なのだった。
太陽の位置が低くなって洞窟前の広場に日向がなくなっていくとネアンデルタール人たちは洞窟の中へ寝床用の毛皮を持ち込み始めた。モシもファーミも毛皮を持ち込んでいるところを見ると今夜はここに泊まるらしい。夜の間は移動したくないということだろう。また、到着が昼近くになるような場所からやって来たということでもある。そこに定住しているのか、あるいは野宿に適した場所のような単なる中継地点なのかまでは分からないが。
「今日はもう動きそうもないな。わしらもキャンプに戻ろう」
「そうですね」
おそらくは化学調味料なのだろうが、出汁が効いていて塩分も多めのインスタント味噌汁で造ったアルファ米のおじやは美味だった。現代日本人の味覚にはこの方が合うということだろう。
三日目
崖下のネアンデルタール人たちが動き出したのはあゆみたちが朝食の片付けを終えてからだった。ロアウなどはおそらく足音を忍ばせても起こしてしまうだろうという判断で遠慮していたあゆみと博士も洞窟へ向かう。
二人が洞窟に着くのと狩人グループが出発するタイミングが重なった。槍だけのロアウと毛皮の大荷物を担いだモシが談笑しながらけもの道を下流側へ向かい、その後ろに他のメンバーがぞろぞろとついていく。真新しい槍を持って誇らしげなナウルも毛皮ロールを斜めがけにしたファーミと話をしながら歩いている。新入りの女性は最後尾だ。
一行は崖崩れの下でいったん止まった。ロアウとモシ、ナウルとファーミが別れの挨拶をして、モシとファーミはそのまま下流の方へ、狩人グループは大岩の間を抜けて崖上に向かうらしい。
(少なくなった毛皮を補給するためにシカを狩るつもりか・・・いかん!)
洞窟の上にはタイムマシンがある。興味を持つだけならともかく、槍でつつかれたりしたら故障の原因になりかねない。
「あゆみ君・・・」
先回りしよう、と言う前に背後から獣のうなり声が聞こえてきた。続いてモシのものらしい叫び声!
あゆみは素早く振り向いて大岩の間を駆け抜けていった。狩人グループもそれに続く。博士は先回りするために脇に寄っていたので助かったが、さもなければ狩人グループに突き飛ばされていたかもしれない。冷静に全員が通り抜けてから後を追う。
両腕を広げている体高2メートルはありそうなクマとその前で槍を構えているファーミ、そして倒れているモシを見たあゆみは迷わず爆竹とターボライターを取り出し、導火線が枝分かれしている部分に点火して投げつけた。おそらく昨日と同じ個体なのだろう。クマは目の前の連続爆発にひるんだ様子を見せたが逃げようとはしない。あゆみは槍を放り出し、唐辛子スプレーの安全装置を外しながら固まってしまっているファーミを左手で引き寄せた。とにかくクマが振り回す前足の爪の攻撃範囲から出してしまわないと危険なのだ。
クマが再び唇をめくり上げた時には狩人グループもあゆみとファーミの前で半円形に並んで槍を構えていた。形勢不利を悟ったらしいクマは前足を下ろしたが、うなり声を上げて「俺の獲物だぞ」と主張する。しかし、槍を構えた狩人グループが詰め寄っていくと、じりじりと後ずさりしたかと思うと、ふいに後ろを向いて意外に軽やかなギャロップで駆け去っていった。
他のメンバーが造った壁の後ろでロアウはモシの胸に右手を当てた。それから手の甲を口元にかざす。改めて確認しなくても、モシの顔面はずたずたに引き裂かれているし、何よりも首が妙な角度に曲がっている。おそらく即死だっただろう。
立ち上がったロアウはナウルに肩を抱かれて震えているファーミに向かって首を振った。途端にファーミの顔から表情が消えた。同時に震えも止まっている。
(事実を受け入れることを拒否・・・ではないな。感情を押し殺した、か)
彼女もまた人が死ぬことなど当たり前の世界の住人なのだろう。
ロアウはさらにファーミに何か質問してその答を聞くと、ロアウとルトン、エンセと新入り女性がモシの手足を持って川の方へ歩き出す。他のメンバーもへし折られたモシの槍や毛皮の包みを持ってそれに続く。あゆみと博士も何だか分からないまま彼らについていくことにした。
藪を抜けて河原に出た一行はファーミの指示で川沿いに少し歩き、大きく蛇行する川のカーブの外側の石だらけの河原にモシの遺体を横たえた。
「何をするつもりなんでしょう?」
「分からんな。ネアンデルタール人には埋葬の習慣があったはずじゃが・・・」
確認されている範囲では人類史上初の埋葬は約5万年前のネアンデルタール人によって行われている。さらに30万年前、プレネアンデルタール人と呼ばれている人たちが洞窟の奥の縦穴に遺体を投げ込んでいるのも「朽ちていく遺体を見たくない」という理由で行っていたのなら、これが埋葬の原型と言えるだろう。ただ、ロアウがファーミの希望を聞いているところを見ると、モシの一族のやり方で葬ろうということなのかもしれない。
ネアンデルタール人たちはロアウを中心にモシの遺体を囲むように整列するとロアウが歌い始めた。ほかのメンバーもそれに声を合わせる。言葉はもちろん分からないが、哀調を帯びたそれは弔いの歌なのだろう。
歌い終えたロアウはモシのウエストバッグから石器ナイフを取り出すとファーミに手渡した。それからルトンと一緒にモシの手足を持つと、大きく振ってから川に向かって放り投げる。
(水葬だったか! モシの一族は海辺や川の近くで暮らしていたのかもしれんな。それなら海や川に流してしまうという葬送のの形もあり得る。埋葬でなくても遺体が見えなくなればそれでいいわけだ)
ファーミはモシの遺体が流れに呑み込まれるのを見届けると、無表情のままモシの背負っていた毛皮の包みをほどいて、のろのろと折れた槍を毛皮に包み始めた。形見として持ち帰るつもりなのか、あるいは柄を付け替えて再利用するのかもしれない。
それを見ていたナウルは突然ロアウの前に立って真剣な様子で何かを訴えた。仏頂面をしていたロアウはそれを聞くと、ふっと笑みを浮かべてナウルの腕を叩いた。許可を得たらしいナウルはモシの槍も入れた毛皮の包みをファーミの手から取り上げて自分で背負った。それから槍を拾って空いている左手をファーミに差し出す。
ファーミは大きく見開いた目でナウルの顔と左手を何回か見ていたが、ふいに笑顔を見せて槍を左手に持ち替えると遠慮がちに右手をナウルに預けた。ナウルはその手を強く握り返す。それは「一緒に生きていこう」というメッセージなのだろう。
手を繋いだまま崖下のけもの道に戻った二人は他のメンバーに別れを告げて下流側へ向かって歩き出した。その背中にエンセがからかい半分励まし半分という調子で声をかける。それを合図に狩人グループ全員が賑やかに祝福の声を送った。ナウルとファーミは振り返りもしなかったが、少し足を速めて藪の陰に消えていった。
二人を見送ったロアウが短く指示を出すと、グループは洞窟の方へ歩き出した。出発した時とは違って明らかに弛緩したムードが漂っている。それは洞窟に着いてからも同じだった。ロアウがパノウに説明している間にも他のメンバーは自分の毛皮を持ち出している。
「悪いことがあったから今日は狩りをしない、ということですか」
「そのようじゃな。乱れた心で狩りをするのは危険なんじゃろう。・・・わしらも現代へ帰ろうか。これ以上ここにいてもできることはなさそうじゃから」
「はい。じゃ、さよならを言ってきます」
あゆみは槍を博士に預けるとパノウに近寄っていった。
「私たちは月へ帰らなくてはなりません」
そう言ったあゆみはちょうど藪の上に現れていた三日月を指さす。
(かぐや姫かい!)
側にいたロアウとノーレも月を見上げていたから「おかしな服を着た女が月へ帰って行きました」というような伝説が生まれてしまうかもしれない。
「短い間でしたがお世話になりました。これはみなさんで召し上がってください」
ベストのポケットに残っていた干しアンズをテラスに座っているパノウのスカートに全部載せてしまう。
「うぉ」
パノウはかがんだあゆみの腕をポンポンして感謝の意を伝えた。
あゆみは他の女たちとも別れの挨拶を交わし、子どもたちにもしゃがんで腕ポンポンさせてから博士のところに戻って来た。
あゆみと博士が下流側へ向かって歩き出すと、ネアンデルタール人たちは崖の張り出しのところまで出てあゆみが振り向く度に歓声を上げた。たいした事はしていないと思うのだが、干しアンズや箸のような非日常を持ち込んでくれた事に対する感謝なのかもしれない。つまり「いいおもちゃになってくれてありがとう」である。
その日、ジェットエンジンの叫び声に気付いて起き上がったネアンデルタール人たちは空に浮かび上がった銀色の円盤が太陽よりもまぶしい光に包まれた後、消え去るのを目撃したのだった。
無事牛舎に戻ってタイムマシンを降りた博士は牛舎の隅の机に置いてあるパソコンを起動した。ネットに接続してネアンデルタール人関係のページを順に見ていく。
「あった。これじゃな。『2010年5月、アフリカ系以外のホモ・サピエンスのゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数パーセント混入しているとの説が発表された』と。これは過去においてネアンデルタール人男性と現生人類の女性が結ばれたことがあったということを意味する」
コーカソイドの白い肌や薄い色の髪の毛や瞳はネアンデルタール人から受け継いだ形質であるという説もある。
「それって・・・私たちはナウルとファーミの子孫だってことですか?」
「うーん・・・あり得ないとは言えんが・・・確率が低すぎるな。新たに生まれた種が生き残るためにはある程度の個体数が必要になるはずじゃ。もしかしたらわしらの他にも、時の女神様のお告げに従って密かに歴史を修正している者たちがおるということかもしれんなあ」
今、作者の手元には「タイムマシンのつくりかた」という本があります。それによると膨大なエネルギーと超精密な制御技術があればタイムマシンを作る事ができるのだそうです。いまやタイムマシンは宇宙旅行や二足歩行ロボットのように科学で語られる時代になってしまったのですね。そこでこのお話ではタイムマシンのエネルギー源に実在するイオンであるヒドリドの反物質を使いました。
また、故スティーブン・ホーキング博士は「歴史を変えるようなタイムトラベルを行おうとすると、因果律がレーザーのように増幅されてタイムトラベラーもタイムマシンも破壊されてしまうだろう」という「時間順序保護仮説」を提示しておられました。要するに過去へ戻って自分の親を殺すような事はできないだろうということです。それから未来においてタイムマシンが発明されるのなら未来人が現れなくてはならないだろう、というパラドックスもあります。
「そんな物は無視してしまえばいい」「もしもタイムマシンがあったら、というところから出発すればいい」という考え方もあるのでしょうが、作者は不器用なので、あくまでも科学というルールの中で勝負したいと思います。実家は浄土真宗でしたし。(それは仏教だ!)
そういうわけで天国のホーキング博士にダメ出しされないようなお話にしたつもりなのですが、いかがだったでしょうか?