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9-3.助けられたのは西ヶ谷

 十五日前、朝――

 生徒――この日初めて知ったのだが、彼は自分のクラスの加治木という男子であった――が倒れていたことは、クラス全員へと伝えられた。ホールに集まっての集会や、校内での放送こそなかったが、おそらくクラスや学年問わず全校生徒に伝えられただろう。

海老沼えびぬま

『はい』

岡部おかべ

『はーい』

加治木かじき

 朝のSHR。出席を取っていた担任は、加治木の名前を読み上げてから顔を上げると、

『えー加治木ですが……、昨日に会議室で倒れていたところを発見されました。今は生済会せいさいかい病院に入院中で、意識が無く、危険な状態であるとのことです』

 すでに事を知っているのか、出欠を確認することなく淡々と述べた。

 それとは対照的に、ざわめき始めるクラスメートたち。「倒れていた」「入院中」「意識が無く」「危険な状態」というキーワードから、ただごとでは無いと悟ったのだろう。前後左右と囁きだす生徒も少なくなかった。

「……」

 俺の心中は複雑だった。まだ彼は死んではいなかったと安心する一方、自分が何もできなかったことに罪悪感を覚えたからだ。そして、その不安を打ち明けられる人がクラスに一人もいないことも、心の不安定さが消えない要因となった。

『はい静かに。状況がよくわからないので、もし何かを知っている人がいたら、私か野球部の地獄谷先生まで伝えてください。……久留米』

『ハイ』

『昨日、会議室で野球部のミーティングがあったそうだな。話を聞きたいから、悪いけどホームルームが終わったら私のところへ来てくれ』

『ウッス』

 野球部員らしい返事をした久留米。

 その後のSHRはざわめきが収まらぬ中、残っていた生徒の出欠確認と、いつもと同じような連絡事項の通達で終わった。

『ありがとうございました』

 挨拶が終わると、一時限目の授業の準備をするためにクラスメートたちがロッカールームへと向かっていった。さらに教科担当の生徒は、授業を行う教師を呼びに行くために階段を下りていく。生徒の表情と交わされている会話を除けば、普段と何ら変わらない朝の風景だった。

『顧問が車に乗せて、病院に担ぎ込んだってさ』

『練習でケガしたんじゃなくて? 会議室で?』

『電話したんだけど、やっぱり出ないの。大丈夫かな』

『昨日の昼は元気だったのに。病気だって話も聞いたことないし……』

 あちこちから聞こえていた、加治木を心配する声。

 当然だろう。彼はいわゆるイケメンであり、また性格もよかったことから男女や学年問わず人望があったからだ。夏休みが明けてからは三年生が引退した野球部のキャプテンにも指名され、クラスの女子にも人気があった。時々クラスへと来た、先輩や後輩との関係も良かった気がする。直接話したことはないが、嫉妬してしまうほどに「いいヤツ」だ。

 担任の言う「何か知っている人」に、俺は間違いなく該当していた。

 だが担任のところまで行く気にはなれなかった。今は担任の姿がなく、探すのが面倒。強面こわもての地獄谷と会いたくない。……言い訳のような薄っぺらい動機が、俺の行動を疎外していたからだ。本当は、現場にいながら何もしなかったことを責められたくないという、責任逃れの心情があったからだろう。

 俺の知っていることは地獄谷も知っているだろうから、俺は何も伝える必要はない――強引に自分を納得させた。

『おう、どうだった?』

 帰ってきた久留米を、何人かの男子が取り囲む。

『どうって、昨日のことを話しただけだ』

『向こうから何か聞いてないのか?』

『入院している病室は聞いた。南館の四階だってさ』

『そうか。見舞いにでも行く?』

 聞こえてきた、教室へ戻った久留米と他の男子との会話。

 俺も行こうかと考えたが、結局のところ見舞いへ向かうことはなかった。クラスの輪に入るなどということはほぼ不可能だったし、加治木の両親と会ったら何を言っていいのかわからなかったからだ。知人のお見舞いに行ったことなど人生で一度もなかったため、考えるだけでもプレッシャーを感じた。呼吸器を付けられ、点滴の針を何本も刺され、生命維持装置の電子音がピッ……ピッ……と鳴り響くだけの病室と、そこに目を閉じ静かに眠っている彼の姿――。想像するだけで、緊迫したその雰囲気に行く気を失った。

 今になって思えば、それらの行動は心の奥底にあった負の感情から逃げるための口実だったのかもしれない。

 現場にいながら、救命措置の一つも取らなかったことへの後悔。それが原因で、加治木は意識が戻らぬほど重症化したのではないかという罪悪感。そして何よりも、これらを根拠に自分が責め立てられるのではないかという不安。

 結局、自分から担任のところへ行くことはなかった。


 十五日前、昼休み――

「西ヶ谷、加治木の件でちょっと」

 ちょうど昼食を終えた頃、ドア越しに担任から呼ばれた。

 教師が生徒に用事のある時、普段は休み時間へ入る直前に呼び出すから、昼休みの中ほどに呼ばれた俺は注目を集めたことだろう。もっとも、正確には俺に注目していたわけではなく、昼休みという生徒だけの時間に教師が立ち入ってきたことで、抜き打ちの持ち物検査かもしれないと警戒したからだが。

 いつもスーツ姿できっちりしている担任の背中を追い、西側の階段から一階のフロアへと下りた。途中ですれ違った生徒から、何をやらかしたのだろうかと囚人を見るような目で見られながら、だ。昼休みに教師の後へついていくのは、成績不振か素行不良についての説教を控えているのがほとんどだから、そういう視線を向けられるのも当然だと言える。

 前を歩く担任は、左手にある職員室――ではなく、右側のドアを開けた。昨日の現場となった、会議室だ。

『失礼します。西ヶ谷君を連れてきました』

 軽く一礼した担任にならい、俺も一礼して会議室へ入った。

 明るいLEDの蛍光灯、その光を白く反射しているようにも見える綺麗な壁。そこに設置されている広いホワイトボード。

 自然に加治木が倒れていた場所へ目がいった。青いシートが被せられているのは、まだ赤い血が拭いきれていないからだろうか。そう考えただけで、昨日の光景がフラッシュバックしてくるようだ。

「そこにお掛けください」

 左右に長い会議室には、白くしっかりとした長机が二台ずつ、平行となるように置かれていた。そして向こう側の机には、生徒指導の担当だっただろうか? 着席をすすめてきた眼鏡の四十代の女性職員が左側にいて、

「では、始めさせてもらう」

 その右側に座っていた地獄谷が、担任と俺が座ったことを確認し低い声でそう告げた。

 野球部の顧問として知られる地獄谷ほど、この学校で恐れられている教師はいないだろう。おかっぱ頭のくせして、真っ黒に焼け無精ひげを蓄えた顔はやくざの組長みたいな鋭い眼光を放っている。ガッチリとした体格は、抗うことは無駄だと感じさせるようだ。

 そして、絶望的なほど自己中心的かつ暴力的な性格。体育の教科担当でもあるが、だらけた生徒には容赦なく鉄拳を飛ばす。それが体調不良であろうが、「そんなものは甘えだ」の一言で片づけるのだ。行き過ぎた指導が問題となったこともあったらしいが、教師内の序列の関係で誰も口を出せない。そういった話を聞いている。

 その時も俺の二倍はある太い腕を組んだ地獄谷は、それだけで威圧感を覚えさせられた。

 トン。小さな音を立ててスライドドアが閉じると、静かな廊下からの音さえも聞こえなくなり、会議室は沈黙の空間となった。

「昨日の午後七時頃、ここ会議室内にて、野球部所属の二年A組、加治木 りょうが倒れているのが職員によって発見された。彼は今も意識不明のまま入院中だ」

 机に置かれていた二枚ほどのプリントに視線を落としたまま、声のトーンを変えずにそれを読み上げていった地獄谷。生活指導の女性も隣に座る担任も口を開くことのないまま、その低い声は続いた。

「意識を失った直接の原因は、硬いもので頭を殴られたことによる脳挫傷。凶器などは見つからなかったことから、何者かに殴られた可能性もある。以上、これが把握している全てになるが……」

 そこで視線が上がる。

「……何か言うことは?」

 ギロリ、と肉食動物が獲物を狙うかのような鋭い視線を向けられた。

 これがいつもの地獄谷だ。生徒と会話するとき、まるで自分の方が上位の立場にいることを主張したいのかと思えるくらい威圧感を出してくる。緊迫したムードがいつまでも続いた後、頭をカチ割るような怒鳴り声が飛んでくるまでがテンプレだから恐ろしい。

 その時も俺は全身を硬直させた状態で、思うように回らない頭を懸命に動かしていた。あそこまで考えがまとまらなかった経験は、公式の理解できない数学の試験でもなかっただろう。

「せ、先生が……、ご存知の……、通り、です……」

 舌が思うように回らず、呼吸が浅くなり、一言ずつしかしゃべりだすことができなかった。目の前の肉食動物が漂わせてきたプレッシャーに、身体中の筋肉が硬直してしまったからだ。

「き、昨日は……、保健体育の……、補習があったので……」

 プリントを終わらせ、誰もいない三階から下りてきたこと。

 職員室に行く途中、偶然見えた会議室内で倒れている加治木を発見したこと。

 身体を揺らして呼びかけたが、全く応答がなかったこと。

 そして――地獄谷を呼んだが、それを傍観することしかできなかったこと。

 ようやく動き始めた口の勢いを殺さないよう記憶の糸を手繰り寄せ、出てくる言葉を必死になってつむぎ、どうでもいいようなことまで話せるだけを話した。

「い……以上、です……」

 俺が声をフェードアウトさせると、生活指導の女性と隣に座る担任が、手元のメモ帳へボールペンを走らせているのを初めて知った。俺が精神力を削りながら発した言葉を記録するだけのために――内容には全く興味がないと言わんばかりに、ただ淡々と。

 プラスチック製なのかFRP製なのか、会議室の椅子が軋む音が響いた。

「本当か?」

 それに続いて正面から聞こえた、威圧するような低い声。

「……はい」

「本当か?」

 間髪を入れず、全く同じ台詞が二度続いた。

「……」

 俺は二度目に対して返答することができなかった。なぜなら、何を聞かれているのかわからなかったからだ。自分の見たことと聞いたこと、主観的な意見を可能な限り排除した上でそれを伝えた。それ以上は客観性を無視した意見になっただろう。

 ……違う。それは表向きの――自分を正当化させるための――理由に過ぎない。

 本当は、地獄谷の自己中心的かつ暴力的な性格を恐れていたからだ。生徒がどんなに正しい意見を主張しても、どんなに正確な情報を伝えても、地獄谷という人物はそれを認めない。教師という絶対的な立場を盾に、自らの欲しい意見だけを生徒側から出させるのだ。

 最初はこうして疑いの言葉を連発していき、折れなければ怒鳴り声が飛んでくる。それでも無理なら、教育の名の下の暴力。地獄谷が尋問に使うお決まりの手だ。

「本当か、と聞いているんだが?」

 怒りを溜め込んでいるような声が耳に刺さった。

 素直に「はい」と答えれば、怒号と拳が振り下ろされるだろう。だが「いいえ」と答えれば、ありもしない出来事を妄想で話すことになるだろう。

 その時の俺に、自らの意思で決定できる選択肢は存在しなかった。あったのは今死ぬか後で殺されるか、処刑の執行時間までの猶予だけだ。遅かれ早かれ、いずれにしろ刑は確実に執行される。

 そして、俺にはそれすら答えることが出来なかった。

「……」

「今話した内容が事実なのか、と聞いている」

「……」

 バァン!

「……答えろっ!」

 地獄谷が吠え、思い切り机を叩いた。もはや殴ったと表現した方が正しいだろう。片方の拳をわなわなと震わせ、スーツの上からでもわかるほど肩の筋肉を隆々とさせている。歯を食いしばっている顔は、まさに鬼のような形相だった。

 全身の毛が逆立ち、冷や汗が噴き出し、反射的に背筋が伸びる。人間の生存本能がけたたましいほどの警報を鳴らし、殺される、という過剰なほどの危険を身体の隅々まで伝わらせていた。

 それなのに……動けない。狩りの体勢で睨みつけている猛獣に相対し、まるで吸い込まれるように視線を動かすことができなかったのだ。互いの距離だって二、三メートルは離れているというのに。

「なあ!? てめえは自分がやったことすら認められねえのか!? このボンクラ!」

 その言動から、感じていたことが確信に変わった。俺は疑われているのだ。加治木が倒れていた原因は、俺が彼を殴ったからだと。

 そして、地獄谷に疑われたら、もう逃れることはできない。どんな手を使ってでも犯人であると決め付けられるからだ。

「西ヶ谷、もし君がやったのなら、正直に話して欲しい」

 隣の担任といえば、俺を擁護するどころか地獄谷に同調するように自白を求めてきた。

 ふざけるな、やってもいないことを認めろというのか。それでも俺の担任かよ。いくら声が優しくても、その中身は悪魔みたいな格好をしていやがる。

 八方塞がり、孤立無援、多勢に無勢。戦況は絶望的だった。進撃したところで数も勢いも圧倒的に違う敵軍にねじ伏せられ、諦めて撤退しようにも地獄の底まで追い掛けられ最後の一兵まで潰される。ロシアのバルチック艦隊を撃滅し日本海海戦を勝利へ導いた東郷平八郎でも、この戦いに勝つ方法を練ることは不可能であっただろう。

「僕は……やってないです……」

 震え声が漏れ出てきた。何かをしゃべらなければ、否定しなければ、攻めて殺される方がまだマシ……。色々な感情や考えが混ざり合った結果からの、弱々しい主張だった。

「あ!? 聞こえねえんだよ、もう一度言え」

「僕は……見つけただけで……」

 バァン!

 机が叩き割られそうなほどの凄まじい打音が響いた。

「いつまでシラを切るつもりだ!? 俺はなあ、能書き垂れるだけの小僧は大嫌いなんだよ!」

 それに続く、会議室の窓が震えるほどの怒号。身を乗り出し俺を睨みつけていたその様子は、今にも机を乗り越え、こちらへと近づいてきそうな雰囲気だった。

 火に油を注ぐというのは、まさにこういう状態を言うのだろう。だがこうなるとわかっていたところで、俺はそれを避けたりはしなかった。……避けられなかった、というのが正しい。

「おい小僧! てめえは何で会議室なんかにいたんだ!? 用事があるわけでもねえ会議室によお!?」

「それは……、たまたま見えただけで……」

「大人相手にうそついて、バレないとでも思ってんのか! 昨日も自分でやっておきながら、何ごともなかったかのように『誰か来てください』と抜かしやがって!」

 噴火する火山のように、地獄谷は怒りをぶちまけていた。自らが顧問を務める野球部の部員が関係している事案だからなのか、単純に俺をストレス発散のためのサンドバックと捉えているからなのか、それは今でもわからない。わかっていたのは、俺は加治木を殴った犯人だと疑われており、その確証として自白を強要されているという事実だけだ。

 不運、としか言いようがなかった。

 その時は「偶然にも」職員室に向かい、「偶然にも」会議室の方に目が行き、「偶然にも」加治木を発見してしまったからだ。その理由を俺が「偶然」以外で説明することは不可能であり、同時に俺以外の人物が「偶然」で納得することは不可能だった。

 つまり、事実を話しても納得してもらえないという矛盾。当時に始まったことではなかったが、当時ほど避けたかった時もなかっただろう。

「その時は……」

 無駄なことだとわかっていながら、事実を話さなければならない悲しみ。

 それを背負って口を開いた時……

『地獄谷先生、地獄谷先生、遠藤学園の梶ヶかじがやさんからお電話です。至急、職員室にお戻りください』

 部屋のスピーカーから校内放送が、緊迫感を壊すようにして流れた。普段は気にも留めない、耳障りですらある教師あての校内放送。あの時ほど助けられたことはなかった。

「……チッ」

 明らかに不満そうな顔をしながら会議室に響き渡るくらい大きく舌打ちをした地獄谷は、乗り出した身のままに立ち上がった。まだまだ俺を責め足りなかったのだろう。「命拾いをしたな」という台詞がそのまま聞こえてきそうなくらいの歪めた顔を向けつつ、ドアを乱暴に開けて会議室を後にしていった。

 パタン。

 静かにドアが閉まり地獄谷の姿が見えなくなっても、緊張感は置き土産のように俺を満たしていた。小刻みに震えていた手、力の入らなかった足。助かったという感情こそあったものの、それが安堵に繋がるまでにはしばらくの時間を要した。

『……一旦、切り上げましょうか』

『そうですね』

 担任の言葉に賛同した生活指導の女性。

「じゃあ西ヶ谷、とりあえず教室に戻ってくれていいから」

 担任は椅子を下げて立ち上がり、ドアを静かに開けた。敏感になっている耳に入ってきた廊下の喧騒けんそう。別世界から帰還したような不思議な感覚だった。

 返事の一つすらできず、俺は黙って一礼し立ち上がった。ドアから廊下に出て、数人の生徒や教師とすれ違いつつ階段へ。日当たりの良い東側の階段を、一段一段踏みしめるようにして上がり、自分の教室を目指して進んだ。

 終わったという安堵を感じ始めたと同時に、またあるのではないだろうかという不安も湧き上がってきていた。あくまでも地獄谷の急用で中断されただけであり、早ければ放課後にも質問――という名の尋問が待っているかもしれない、と。自分はどうなるのか、先の見通せない捕虜になったような憂鬱な気分だった。

 時間は確かめていないが、もう昼休みは残り少ないだろうと、午後の授業の準備を考えながら教室へと……

『おい、何を言われた?』

 入ったと同時に聞こえた太い声に、身体が電撃を受けたようにビクリと震えた。もしかしたら変な声も出ていたかもしれない。教室はおろか、学校生活中に他人から声を掛けられたことなど片手で数えられるくらいしかなく、過敏な反応を起こしてしまったからだ。

「えっ……え?」

「加治木のことで呼び出されたんだろ? 何でお前が呼ばれるんだ?」

 俺を呼んだのは久留米、雑務部で牧本と共に朝霧へのいじめ加害者として制裁した、野球部の二年生でありクラスメートの久留米。

 加治木に何があったのか、それを知りたいようだった。野球部員にも詳しいことは伏せられているのだろう。混乱を避けるためなのか、そもそも伝える必要がないと判断されたからなのか。

「き、昨日は補習で残っていたから……」

 先の緊張が抜けないまま、気軽に話せるような関係ではないことも相まって、口ごもるようにして言葉を発した。

「加治木に会ったのか?」

「あ、会ったというか……」

「会ったというかって、それどういう意味なんだよ。会ったのか、会ってないのか、どっちなんだ?」

 問い詰められ怖気ついた。口調が強くなり、視線を厳しくした久留米。

 ここで「倒れている加治木を見つけた」と告げれば、今度は状況を聞かれただろう。そうなれば、応急処置もせず救急車も呼ばなかった俺は糾弾されるかもしれなかった。混乱していたなどという理由は、彼ら現場にいなかった者にとっては見苦しい言い訳でしかない。

 結局、どう説明しても真実を知ってもらうのは不可能だった。

「それは……」

 言い訳を考えていると思われないよう、必死に久留米へと向けていた視線だったが、俺はこのタイミングでついに外すこととなった。何か意図があってのことではない、無意識のうちに。

 それを後悔した時には、すでに遅かった。

「なぜ言えないんだよ。……お前、まさか」

 久留米の、純粋に何があったのかを聞いている「問いかけの目」が、一瞬で疑いを掛ける「疑心の目」へと変わった。

 周囲にいた友人たち。いつの間にか、彼らからも視線が向けられていた。話している内容について興味を持っている、という生易しいものではなく、睨みつける――そんな感じだ。

 最悪の事態に陥ろうとしていた。加治木が倒れ、現場にいたにも関わらず理由を説明できない。つまり――西ヶ谷は加治木を襲った犯人である。そう疑われている状態だ。

「俺じゃない! 俺は加治木が倒れているのを見つけただけだって!」

 考えを重ね我慢していた台詞を、ここにきてついに叫んでしまった。

「本当か?」

「そうだよ! 会議室で血を流して倒れているのを俺が見つけたんだ!」

 言い終わってから、自分のミスに気づいた。

 久留米の目、周囲に集まっていたクラスメートの目。疑いの目がサッと確信へと変わった。

「……なんで会議室だって知ってるんだ?」

「そ、それはだな……」

「なんで出血してたのを知ってるんだよ!?」

 口から泡が飛ぶほどに口調を強め、表情を険しくし、俺を睨みつけながら一歩前に出てきた久留米。一触即発とはまさにこの時のことだった。

「……」

 ついに言葉が出なくなった。

 会議室で倒れていた、血を流していた。いずれもクラスメートは知らない情報であり、同時に加治木を襲った人物ならば知っている情報だ。第一発見者が犯人というケースなど容易に想像できるし、その点において俺は自首したにも等しかった。

 もちろん、俺は犯人などではない。一階の廊下でちらりと会議室に視線が流れ、そこで倒れていた加治木を発見したのだ。

 ところがこれを――犯人でないことを証明する手段がなかった。「たまたま」会議室の方を見たら、「たまたま」加治木を発見した――そんな説明で、彼らが納得してくれるはずもない。もう俺が犯人だという前提で追及しようとしているのだ。さっき呼ばれた時に教師から聞いた、と言ったところで次に聞かれるのは「なぜ説明された?」。結局、弁解と追求のいたちごっこになることは明白だった。

「なんで黙ってるんだ?」

「……だから」

「だから――何だよっ!」

 教室、いや廊下にすら響くような大声が耳に刺さった。太く焼けた腕が伸びてきた。上着ごと引っ張られ、気づいた時には久留米の顔が鼻先にあった。

 胸倉を掴まれ、鬼のような形相で睨みつけられたのだ。いつものヘラヘラしている表情ではない。怒りが抑えきれない、本気で怒っている顔だった。

「あいつが何をしたって言うんだっ!?」

 何も答えられなかった。

「答えろっ!」

 学校中に轟くかと感じるほど大きく久留米が吠えた。ガラスが震えたかと思ったくらいだ。

 俺は視線を外した。目に入ってきたのはクラスメートたち。いつの間にか、教室にいたほぼ全ての生徒から目を向けられていた。男女問わず、教室中の目が。誰も彼も、突き刺すような、軽蔑するような、冷たい目だ。お世辞にも歓迎されているムードではなかった。

 加治木はクラスの人気者だ。だからクラスメートは彼の陣営である久留米へと味方につく。そして、その久留米と対立している格好の俺は――必然的に彼らから敵と認定される。

 自分はクラスの敵となった――クラス中を敵に回した――のだと理解した。いや、そう理解せざるを得なかった。

「……俺は、……倒れていた現場を、……見つけただけなんだ」

 驚くほど、自らの声は弱々しかった。泣き声になっていたかもしれない。

「なぜ現場に、会議室なんかにいたんだ?」

「ぐ……偶然だ。たまたま目が行って……」

 ドゴッ……!

 鈍い音。その瞬間、俺の身体は宙を舞っていた。刹那、背中と後頭部に伝わった重い衝撃と硬い感覚。次の瞬間、待っていたように激しい痛みが頬と顎、後頭部を襲ってきた。

 俺は殴られた。部活で鍛え抜かれた久留米の右の拳が、左顔面へとクリーンヒットしたのだ。プロレスごっこだと偽るいじめや、ふざけて叩くじゃれ合い程度のものではない。正真正銘、相手を倒すために放たれた本気の鉄拳。

 重い一撃に吹っ飛ばされ、俺は教室の壁へと叩きつけられた。軽い脳震盪でも起こしたのだろうか。しばらく目のピントが合わず、身体に力も入らないためすぐに立ち上がることができなかった。

「そんなうそまでついて、何がしたいんだ!? 雑務部ってのはそんな部だったのか!?」

 誰が言ったのか、そんな台詞が聞こえた。

 加治木が何らかのいじめを行い、それを知った雑務部が制裁したと思われているのだろう。俺が雑務部員であり、事件について詳細が伏せられていることを考えれば、そのような思考に至るのも不思議ではないと思った。

 キーンコーン……

 昼休み終了を知らせるチャイムが、争いの決着を告げるかのように聞こえた。

「サツでもなんでも突き出せよ。卑怯者」

 久留米が吐き捨てるようにそう言うと、クラスメートは散って行った。

 遠ざかっていく靴の音。自分は惨めだと思った。誰にも信じてもらえないばかりか、犯人扱いされている。助けてくれるどころか、足並み揃えて責め立ててくる。自分に味方はいないのだと。

 袖で口元を拭うと、真っ赤な血がついた。殴られた時に口の中を切ったのだろう。

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