9-2.助けられたのは西ヶ谷
時は二週間と二日前まで遡る。
十月も終わりそうな月曜日の夕方、俺は学校に残っていた。夕方と言っても、空が暗くなり街灯やネオンサインが点灯するような時刻だ。
どうしてそんな時間まで残っていたのか。それは保健体育の小テストでクラス唯一の不合格となり、補習を受けていたからだ。覚えるのが苦手な俺にとって保健体育という教科は隠れた試練であり、また一緒に勉強してくれるような友人がいるわけでもなく、渡されたプリント数枚を教科書を見ながら誰もいない教室で寂しく解いていた。
「……ふう」
プリントが終わったのは、午後七時を回った頃だったと思う。教室を出ると、廊下は真っ暗だった。遅くまで勉強に勤しんでいると有名な理数科の教室も暗闇だ。
俺は寂しさに加えて若干の怖さを覚えつつ、西側の階段から一階へと降りていった。終わる時には体育担当の教師に連絡するように、また教師は誰かが職員室にいると言われていたからだ。
自分の足音だけが冷たく聞こえる階段からは、廃墟に一人で踏み入ったような感覚を覚えた。その日は朝から天気が悪く、雨が降ったり止んだりしていたからだろう。雨の筋が幾重にも走っている踊り場の小窓から、インクを垂らしたように真っ黒な空と、水滴で歪んだ形の街灯の光や車のヘッドライトが見えた。
『……たく、ノック一つでミーティング三時間とかバカじゃねえの』
『どうせ八つ当たりしたいだけなんだろ』
一階の玄関ホール。男子生徒の雑談が聞こえた。大きなスポーツバッグと丸刈りの頭から、野球部員だろう。こんな時間までミーティングをしていたらしい。
『加治木、遅いな』
『俺らがトイレ行ってる間に、帰っちまったのかもな。帰ろうぜ』
二人の野球部員は、俺の存在に気づくことなく玄関から外へと出て行った。
誰も玄関ホールにはいない。奥の職員室と会議室、事務室からはまだ明かりが漏れていた。職員室には教師が、事務室には事務員がいるのだろう。会議室は……さっき野球部がミーティングをしたと話していたから、それに使ったのかもしれない。
ようやく人に会えるという妙な安堵感を覚えつつ、俺は職員室へ……
……行く直前、チラリと会議室の方を見た。
会議室に用事があったわけではないし、室内に興味があったわけでもない。癖みたいな、無意識で一瞬だけ視線が会議室の中へと向いてしまっただけなのだ。
その一秒にも満たない時間の中で……
「えっ……うっ、うわあっ!」
最初は服が捨てられているのを見間違えたかと思った。ところが頭を庇うようにしている両手と、薄いカーペットに広がっている真っ赤な血を見つけた瞬間、
人が……生徒が倒れている。
練習用のユニフォームと丸刈りの頭から、野球部員であることはすぐにわかった。
「ちょ、ちょっと! おいっ!」
会議室に飛び込み、腰を丸めて横向きになっている身体を激しく揺らしたが、全く反応がない。どす黒い血は鼻から出たらしく、口の近くを伝って顎の部分から滴り落ちていた。誰が見ても異常な状況だ。
と、とにかく誰かを呼ばないと。
そう考えた俺は、会議室を出て正面にある職員室のスライドドアを乱暴に開けた。バーン、という派手な音に構っている余裕などなく、
「だっ、誰かっ!」
と大声で叫んだ。
一部だけ蛍光灯の点灯している職員室にいたのは、おかっぱ頭のジャージを着た教師ただ一人。体育担当で野球部顧問の地獄谷だ。俺の声に気づいたのか、顔を上げギロッと睨みつけるような視線を送りながら、
「どうした、何があった?」
と低い声で聞いてきた。
「かっ、会議室に倒れている人が……!」
「倒れている人?」
ただごとではないと悟ったのか、ゆっくり回転椅子から腰を上げる地獄谷。土のついているスニーカーを履いた足でのっしのっしと近づいてくると、近寄り難い独特のオーラで俺を退かし、廊下に出てすぐの会議室を覗き込んだ。
そして躊躇う様子もなく中へ入ると、
「おい、しっかりしろ。大丈夫か?」
と倒れている生徒の頬を軽く叩きながら、落ち着き払った声で数回呼びかけた。
生徒からはやはり反応がない。まぶたは閉じられたまま、身体のどこも動くことはなく、息をしているかすら怪しい状態だった。
「……これはまずいな」
地獄谷はそうつぶやく。そして身を屈めると、倒れている生徒の左肩を持ち上げて自分の首へ回すと、
「もう下校時間だから、お前はもう帰れ。こいつは今から病院に連れて行く」
そう言って会議室を後にして行った。
取り残された俺。しばらくはその場から動くことが出来なかった。目の前で人が血を流して倒れている、という状況を体験したのは初めてであったからだ。
――今にして思えば、当時一つでも正しい行動をすることで、今の俺が苦しむことはなかったかもしれない。
あの時、救急車を手配していれば……
あの時、きちんと説明できていれば……
あの時、教師についていき処置の手伝いができていれば……
時間が経っても、その後悔は未だに消えていない。
そしてそれが、暗くて出口の見えない地獄への入り口であったことを、俺は気づくことができなかった――――