8-6.追い込まれたのは真壁
一日だけ時間をくれないかしら――
その一言が示した通り、丸一日が過ぎ去り二度目の朝がやってきた。
「……『理数科の教室に部員として集合』か」
十月も下旬に差し掛かろうとしている金曜日、時刻は八時十五分。本来であれば自分のクラスで朝のSHRをやっていて、担任の出欠確認に弱い声で応じたり、教育委員会の視察とかいう生徒にはほぼほぼ重要性のない通達事項を眠気と戦いながら聞き流している時間だ。ところが俺は今、誰もいない廊下を理数科に向かって一人歩いている。横を向けば各々のクラス担任と生徒の向き合っている情景が見えて、何だか遅刻してきたような感覚を覚える。向こうからこちらが丸見えなので、恥ずかしいことこの上ない。
本日の天気は雨だ。家を出た時から弱い雨がぱらついていて、学校に着く頃には傘を広げる必要があるくらいまで勢いが増していた。少し風も出ている。天気で気持ちが浮沈するほどロマンチストというわけではないが、どんよりと灰色の雲が空を埋め尽くし、太陽の光を遮っている今日はちょっと鬱な気分になった。
ちなみに久遠からのメールは、朝にきた一通だけ。何をするとも言われていないし、何かしてくれとも頼まれていない。ただSHRが始まる直前に、担任へ「雑務部で呼ばれています」と告げたら「そうか」とあっさり返されてしまった。すでに手は回してある、ということなのだろう。
結局、渦の中心にいる人物は誰?
『西ヶ谷』
名前を呼ばれた。横を向いていた顔を正面へ戻すと、理数科の入り口に無表情で久遠が立っている。
理数科の生徒としての久遠に会うのは、これが二回目だ。普通科から見ている俺自身の僻みのせいか、それとも天候や朝の廊下という普段とは異なる雰囲気のせいなのか、いつもより大人びている感じがした。
「何も持ってきていないけれど、これでいいのか?」
やや足早に近づきながら、「何をするつもりなのか」という質問を遠まわしに聞く。
「構わないわ。部員として、一緒にいてもらうだけだから」
そう言うと久遠はクルリと踵を返し、前側のドアから理数科の教室内へと入っていった。これからよそ者として他クラスの教室に入る、という状況にピリピリしつつ、久遠に次いでドアをくぐる。
そこで感じたのは――目、目、そして目……。別の科の生徒、テリトリー外の人間が入ってきたことへの好奇心、あるいは警戒心の表れだ。科章以外は違いのない制服に、A組とさほど変わらない男女比率。そんな同じ南城高校の生徒たちへ、勝負事をするわけでもないのに緊張感を覚える。
理数科という自分よりもはるかに知能の高い人間の前に立つというのは、端だというのにこれほど劣等感を覚えるものなのか。
「では、雑務部より皆さんに報告があります」
張り詰めた――ように感じられる空気の中、久遠が口を開いた。
「現在欠席している鳴海さんがいじめられていたとの相談を受け、私たち雑務部はその調査を進めておりました」
理数科の女子のみが使用しているであろう、ネット上の掲示板が存在すること。
その掲示板へ投稿された文章が、鳴海への誹謗中傷であったこと。
それにより、鳴海が精神的に追い詰められ登校拒否状態となっていること。
相談を受け掲示板から得た情報を、久遠は丁寧に説明していった。情報提供者への二次的な被害――つまり告げ口をしたことによるいじめが発生するのを防ぐため、こういう類のことは公にしないのが普通だ。それを躊躇なく発信している久遠の行動には、違和感というか思考の読めない不安を覚えた。
「……以上が、本件の概要です。そして……」
一言の無駄話もせず、真剣な目つきで耳を傾けている理数科の生徒たち。その静寂を確認するように刹那の間が置かれる。
「……雑務部は、川崎さんが今回の中心人物であると断定しました」
『ちょっと待って! なんであたしのせいになってんの!?』
ガタッと勢いよく椅子が跳ねる音がし、窓側二列目にいた女子生徒が驚きの表情で立ち上がった。久遠と変わらないくらいの長髪であるが、その色は明るい茶色。上着を着くずしスカートの丈を短くしている姿からは、あまり真面目な印象は受けない。
クラス中の視線のほとんどが、一気に女子生徒――川崎へと向かい始める。良くない意味で注目の的となった。
「そりゃあ、たしかに鳴海さんはそんなに好きじゃないけどさ……。学校休むほど嫌味を言ったわけじゃないし、他にやった人だっているんだから!」
顔を赤くし、両手を振りかざし、視線を送っているクラスメートたちに訴えるように、川崎は必死の弁解を始めた。掲示板は理数科女子のテリトリー、少なくとも鳴海のいじめには関与しているからだろう。「他にやった人だっている」――その台詞が何よりの証拠だ。
だが、隣にいる久遠は何も反応しない。それが重要なポイントではない、そういうことなのだろうか。
「そもそも中心人物だっていう証拠なんてあるの!? だって最初に言い出したのは……」
「川崎さんが発端であるという情報は、真壁さんより頂きました」
無機質で、冷たく、静かな声が教室を走り抜けていった。
ヒートアップする川崎を見えない力で制し、なだめることも遠慮することもなく、鋭い視線を川崎に、そしてクラス中に向ける久遠。
それに最も大きく反応を見せていたのは、廊下側最後列の女子生徒――真壁だった。やや下を見ていた顔をハッと上げ、驚いたような、焦っているような複雑な表情を浮かべている。なぜ私が言ったと発表するの? そんな風に。
「どういうことよ!?」
すぐさま川崎から、突き刺さるような鋭い声と視線が飛んでくる。教室の視線の一部は、その興味を川崎から真壁へと移し始めていた。思わぬタイミングで注目を集めつつある真壁。厳しい視線に折れたのか、一度は上げた目線を再び下げる。
「……だって、小夜崎君のことを好きだって言ってた……」
「言ってない!」
「板にも……、書き込んでいた……」
「それは真壁さんが書いたんでしょ!? 勝手に他人のせいにしないでよ!」
仲裁できるような状況でもなく、どうしていいかわからないために黙って応酬を聞き流すしかなかった俺。しかし今のやりとりの中、気になる言葉があった。
川崎の言葉。――「真壁が書いたんでしょ!?」?
真壁は雑務部の部室に来て、こう言ってきた。「川崎さんは小夜崎君のことが気になってて、鳴海が小夜崎君とよく喋っているのを見かけたらしく、それが気に入らないみたい」。つまり小夜崎のことが好きなのは川崎。ということは、鳴海への嫉妬ゆえにいじめを始めるよう掲示板に投稿したのも川崎――のはずなのだ。
それなのに、今のやりとりは投稿者が真壁だと言っているような感じがした。
「それは、どういうことですか?」
声色の異なった声が聞こえた。久遠の突いてくるような声だ。
「鳴海さんに散々言ってたの、真壁さんだよ!? 優越感に浸っているとか、私だって気になっているのにとか……」
「私は……、言ってない……!」
「言った! みんなで無視しようかって言い出したのも真壁さんじゃん!」
「それ、みんな同意してたじゃない!」
思わず叫んだ真壁。その強い声に、ピクッと久遠の身体が動いた。同時に真壁が手で口を塞ぎ、やってしまった……という表情を浮かべる。
「……同意してたということは、最初に言い出したのは真壁さん、ですか?」
真っ直ぐに真壁を見つめながら放たれた、久遠の凍えるような声。誰にも邪魔はさせないという強い意思――というより威圧感すら伝わってくるその声に、理数科の教室はシーンと静まり返った。正面の男子も、奥にいる女子も、ホワイトボードの脇に寄りかかっている担任の三沢先生も……口を閉ざし難しい表情をしている。目の前で起こっている出来事は、真壁という人間の正体が炙り出た瞬間なのだと悟ってしまったのだろう。
「そ、それは……」
肯定も否定もせず、もといできず、顔を上げられないまま声を搾り出す真壁。
「川崎さんにお聞きします。なぜ投稿者が真壁さんであると知っているのですか?」
「だって掲示板で誰が言ったかなんて、内容見れば察しがつくでしょ? それにこの前、『自分からやっておいてなんだけど、まさかここまで上手くいくとは思わなかったわー』って言ってたし」
一部の女子が、うんうんと首を縦に振る。これで、真壁が今回の一件における中心人物――鳴海をいじめた張本人だということが決定的となった。
「『鳴海さんをみんなで無視しよう』。そう言い出したのは真壁さん、あなたですか?」
コクリ……と、動いているのがようやくわかる程度で、真壁が首を振る。
「三沢先生。……三沢先生」
「えっ? あっ……ごめんなさい、何かしら?」
「真壁さんをお借りします。それから、一時限目は欠課する旨を教科担当の先生に伝えておいてください」
抑揚なく三沢先生にそう告げた久遠は、白い机――二人で一つを使う、南城高校独特の横に長い机――の間を静かに通り、真壁の席へと歩いていった。そしてうつむいたままの真壁の左腕をとると、立ち上がるよう小さく引く。真壁も嫌がる様子もなく、顔を下に向けたままゆっくりと立ち上がった。
「西ヶ谷、行くわよ」
「あ、うん」
重苦しい教室の雰囲気。そこから逃げるようにして、前方のドアから退室した。「失礼しました」とだいぶ小さく言ってからドアを丁寧に閉め、後ろのドアから出てきた久遠、その久遠に連れられた真壁と合流し、西側の階段へ。きっと部室へ向かう気なのだろう。
朝、SHRの終わった後の廊下はざわついていた。友達と雑談する生徒や、ロッカールームから教科書を取りに行く生徒たちだ。一時限目が体育なのか、体操着を入れてあるらしい布袋を持って教室を後にする女子も見える。
そんないつも通りの朝の日常を横目に、いつも通りでない空気で階段を上り始めた。先頭は俺、真ん中には真壁、そして後方に久遠。容疑者を護送する刑事をテレビニュースで何度となく見ているが、今はその刑事になった気分だ。ぐっと硬い表情を変えず、ひたすらに自らの責務を全うする――喜怒哀楽の一切を捨てなければならない人間に。
「……どうして、わかったの……?」
ふと、顔を下げたまま真壁がつぶやいた。
「途中で呼び方が変わったこと。いじめが始まった時期――始めた時期を知っていたこと。会話アプリでの連絡が急に途絶えていたこと」
上から下りてくる一年生に道を譲りながら、久遠は後ろから淡々と答えていく。
「……でも一番の決め手は、西ヶ谷への態度と会話内容ね。あの時は焦っていたようだし、被害者にも問題があるのではないかという思考、わざわざ相談にきた友人としては考えられないものだから」
一年生が去っていくと、俺は再び階段を上り始めた。
真壁が発端の人物だろうということは、俺の中にも可能性として浮上していた。最初は「鳴海さん」という呼び方だったのに、いつしか「鳴海」と呼んでいたこと。鳴海が不登校になった日よりも前の時期、つまりいじめを始めた時期を知っていたこと。それまで毎日のように連絡を取っていた真壁が、それを急に途絶させたこと。
だが、残念ながら俺の頭ではそれを繋ぎ合わせることができなかった。いや、今でもどういう繋がりがあるのかよくわかっていない。確実なことは、それらは全て繋がっていて、真壁がいじめを主導したのだという事実を本人が認めたことだ。
四階にたどり着いた。何人かの一年生がまだ廊下にいるが、朝の忙しない時間は過ぎ去ったようだ。
「詳しく、聞かせてもらうから」
久遠はそう言うと、ポケットから出した鍵で部室のドアを開けた。
長机を挟み、久遠と対面する真壁。俺はドアに寄りかかり、その様子見。相談を受ける時と同じような感じで、いじめを始めた動機や内容、俺たちを欺いた方法について聞き取りが行われた。
真壁が今回のような行動に及んだのは、掲示板に投稿していたそっくりそのまま、鳴海が小夜崎とよく喋っているのを目撃し嫉妬、鳴海をいじめることで精神的に追い込み、小夜崎から引き離そうというものだ。しかし「精神的に追い込み、小夜崎から引き離す」ことには成功したものの、鳴海は必要以上に病んでしまい不登校という予想外の結果を生み出してしまった。それを心配した三沢先生が家庭訪問を考えていることを知り、いじめが発覚することを心配。雑務部に相談を持ちかけることで、教師が介入してくることを阻止しようとしたのだった。
もうその後からは、真壁の想定していなかった状況だったのだろう。せいぜいその場しのぎにしか考えていなかった雑務部が犯人探しを始め、自宅訪問や掲示板の調査まで行い、発端となったのは自分の投稿だと露呈するのは時間の問題だと考え、現在の掲示板の閉鎖、俺に直接コンタクトを取り、遠回しに自分の正当性を主張。ところがそれらの行動から逆に怪しく思われ、段々と真壁が追い込まれていくことになる。
川崎の名前を出したのは、新しい掲示板で川崎にただの痴話喧嘩だとバカにされたからだった。他人から見ればどうでもいいようなことでも、本人にとっては死活問題。怒った真壁が、川崎のせいに仕立て上げたというわけだ。
「……わかったわ。質問はこれで終わり。教室に帰ってくれていいから」
時刻は午前九時――最初の授業も半分ほどが終わったくらい――。真壁へ問いかけをし、その返事を書き留めるためにシャープペンを走らせていたメモ帳をパタンと閉じ、久遠は立ち上がった。俺の方へ視線を向け、ドアを開けるようにアイコンタクトを取ってくる。
「……うん」
俺がドアをスライドさせると、小さく返事をしてゆっくりと立ち上がった真壁。やはり下を向いたまま、今にも倒れそうなほど弱々しい雰囲気で部室を後にしていった。
「ごめんなさいね西ヶ谷。付き合せてしまって」
真壁が階段を下りていく様子を見送り、再び部室のドアを閉めると、そんなことを言ってきた久遠。
A組の一時限目は化学だったかな。俺としては休める絶好の口実ができたわけだし、今回の件を放っておくわけにもいかなかったから、何の問題もなかった。
「謝るようなことじゃないよ。むしろ、何で俺を呼んだんだ?」
恥ずかしい話であるが、結局何もしていなかった。強いて言えば、真壁の連行に同行したくらいだ。いじめの公表なら久遠単独でもできただろうし、口論になっても俺は援護の一つできないだろう。
「不測の事態に備えたかったからよ」
「不測の事態? どんな?」
「わからないから“不測”の事態なの。……あえて例を挙げるとすれば、真壁さんが発端となった証拠を挙げる必要があるようになった時かしらね」
久遠は小窓に近づき、澱んだ中の空気を入れ替えるようにそれを大きく開けた。入ってきたのはジメッとした空気と、パラパラという雨の音。
「その気になれば、うその証拠を作り上げることもできてしまう。そうであると思われないよう、味方がいた方がいいでしょう?」
「まあそうだけど」
久遠なら、切り抜けられるのではないかと思う。俺と違って、今回みたいに断片的な情報を組み合わせられるほどの処理能力を持っているのだし、反論されても動じない精神力だってある。そういう事態になった時、本当に自分は役に立てたのかと心配だ。
「誓約書は書かせないのか?」
「今回は、私たちの制裁も誓約書もいらないわ」
だって……。久遠は少し間を空けた。
「……そんなことをしなくても、彼女は社会的な制裁を免れないでしょうから。理数科女子という社会のね」
階段を下り、すぐにある二年理数科の教室に入る真壁。教科担任へ「諸事情により遅れました」とでも言い、自分の席へつくだろう。そこで気づくのは、自分へ向けられている視線の変化。今まで気にも留めなかったクラスメートの視線が、まるで自分を攻撃してくるかのような冷たいものとなって背中に刺さってくる。休み時間になれば、どこからともなくささやき声が聞こえ、家に帰れば掲示板上で言われているであろう自分への誹謗中傷に怯えることになるのだ。――自分が鳴海にやったことと、全く同じ方法で。
そんな真壁のことを想像し、身震いがした。
「……なんだか、俺たちが真壁のいじめを誘発してしまったみたいだな」
「西ヶ谷は気負わなくてもいいわ。これを考え、実行したのは私だから」
久遠はそう言ったが、そうかと納得できるものではない。俺だって部員だ、その気になれば久遠をとめることができたのだし、他の方法を探ることもできた。ただしなかった、それだけだ。
俺にとって、今回の件は気持ちの晴れないものとなった。