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9-14.助けられたのは西ヶ谷

 生済会病院は、駅からバスで十分ほどの場所にあった。南北二棟に分かれている大規模な総合病院だ。ただ南側にあるため、利用したことは一度もない。

 俺と久遠は、車椅子でも乗降が簡単にできる広いエレベーターに乗り込み、四階へと向かった。一般の面会時間が迫っているし、まだ体調が安定しているとは限らないから、話は手短に済ませなければならない。

「……ここね」

 コンコンコン。

「失礼します」

「し、失礼します……」

 四〇五号室、加治木の名前が入っているプレートを確認し、ドアをノックして入室する久遠。俺はその後に続き、おそるおそる室内へと入った。消毒用のアルコールだろう、病院独特の匂いがやや強めに漂っている。

 ごみ一つ落ちていない床と、白く蛍光灯の明るい天井。陽の落ちた空の見える、曇り一つないガラス窓。シーツと毛布が綺麗に整えられ、綺麗なメイキングをされている空のベッド。

 それらの中、一つだけカーテンの引かれている場所があった。

「南城高校の久遠 葵です。入ってもよろしいですか?」

 改まった言葉づかいで、カーテンの中へ入る許可を求める久遠。

『どうぞー』

 しばらくの間を置き、陽気な声が聞こえた。

 右手でカーテンを少しだけめくり、中へと入る。

 ……と、

「うっ……」

「ちっ」

 露骨な舌打ちが聞こえた。

 丸刈り頭の久留米と鉢合わせだ。彼もまた、加治木が意識を回復したと聞いて見舞いにやってきたのだろう。いじめを受けた経験から、今は一番会いたくない人間だった。

「何しにきた?」

「お見舞いだけど……」

「は? てめえ、いい度胸してやがんな。どうせ口封じにでもやってきたんだろ?」

 睨みつけるような鋭い視線を向けながら、喧嘩腰で挑発してくる久留米。

 口封じ? やったのは俺じゃないから隠す必要などない。虚実を言い訳に他人を貶す、しかもこれが二回目なお前になど言われたくねえな。

 ……と思ったが、それを言い返すことはできなかった。

「違えよ……」

 力のない、ため息のような声しか漏れてこない。俺は自分の度胸のなさを呪った。度胸があるなと言われたのに、度胸がないとはこれいかに。

 俺が反撃しないとわかったのか、あるいは元々反撃なんかできないと知っててなのか、久留米はさらに挑発を仕掛けてきた。

「てめえさ、そろそろいい加減にしろよ。自分がどういうことしたか、わかってんのか? 他人の人生狂わせといて、謝ることもできねえのか?」

 この野郎、ふざけたことを言いやがって……

 だがここで「俺はやっていない」と説得することは労力の無駄だ。しっかりと筋道を立てて説明しても、証拠がない限り疑いは晴れない。

 久留米の感情も許さないだろう。俺をいじめていた口実がなくなり、自分は悪となってしまうからだ。

 ……自分が悪?

「……お前がやったんじゃねーのかよ」

 思わず、そう言ってしまった。

「は? てめえ今、何て言った?」

「……聞こえなかったのかよ。お前がやったんじゃねーのかよ、って言ったんだよ」

 その直後、俺は襟元を掴まれグッと前方へと引き出された。足下がよろけ、バランスを崩しそうになる。世界が揺れたような気がした。

 それが収まった時、鼻先にあったのは――顔中にしわを作り、燃えるような怒りの形相を見せている久留米。

「んだと……?」

「じゃあなんで犯人扱いするんだよ!? 証拠もなければ目撃者もいない! それを頑なに俺のせいにするってことは、自分がやったのを隠したいからじゃないのか!?」

 ここまできたら引き下がれないと、必死になってわめいた。

 学校側が隠したがっているのは、久留米が加治木に重傷を負わせてしまった――これではないだろうか?

 十数年も前になるが、他校の部活で暴力事件が発生し、関係者の逮捕と部活動の解散騒動にまで発展した出来事があった。だから野球部内で暴力があったと知れれば大きな事件となり、解散だけでなく南城高校の名前も全国に知れ渡ってしまう。学校はそれを恐れているのではないか。

 今ここに久留米がいるのだって、こっそりと謝りに来たのかもしれない。

「下手に出てれば、いい気になりやがって……」

 ついに怒りを抑えきれなくなったのか、久留米が左手の拳を俺へと向けた。

 殴られる……!

 頬か顎に痛打、悪ければ鼻柱をへし折られるだろうと思い、俺は目を固く閉じた。

「お、おい……久留米! やめろって!」

 加治木の制止する声が響いた。

 包帯を巻かれてはいるものの爽やかなイケメンだとわかる彼は、驚いたような顔でこちらを見つめている。いきなり始まろうとした争いに、理解が追いつかないのだろう。

「……」

「……ちっ」

 再び舌打ちをした久留米は、渋々拳を下ろして俺を解放した。

 た、たすかった……

 恐怖のあまりヘナヘナと崩れそうになる身体を、ベッドの枠を使って何とか止める。いつもの腰抜け西ヶ谷に戻ってしまった。

「さっきから聞いてれば、一体何なんだ!? 何があったのかわからないけど、殴り合いを始めそうになるなんて、普通じゃないぞ!?」

「西ヶ谷があなたを襲った……そういうことになっているのよ」

 声を荒げる加治木。対照的に、久遠は静かにそう告げた。

「俺を? 西ヶ谷が?」

「もしよければ、話してもらえないかしら? あなたが倒れた日、会議室で何があったのかを、ね」

 久遠の鋭い目。

 久留米の真剣な目。

 そして――俺の弱気な目。

 三人の視線が、一斉に加治木へと向けられた。

 救急車が呼ばれることもなく、警察が介入するわけでもなく、そして俺以外の犯人探しが始まるわけでもなく……

 この奇妙な事件の真実が語られようとしていて、それを誰もが知りたがっているのだ。

「俺が倒れたのは……」

 加治木の口が開く。

 俺はごくりと唾を飲み込んだ。

 真犯人は、一体……?

「俺が殴られたのは……やつだ。……地獄谷だ」

「な……!」

 信じられないとばかりに、久留米がうめき声を漏らす。

 本当の犯人は、生徒ですらなかった。あろうことか、加治木の所属する野球部の顧問、加治木を病院まで運んだ、体育担当教師の地獄谷。

「久留米は知ってるだろ? あの日の放課後、野球部はミーティングだった」

「ああ。ノックのエラーが多いって説教だったな」

「それが終わって帰ろうとした時、俺だけ呼び出された。誰もいなくなった会議室で、『お前のせいで他がたるんでるとか言われたんだ』」

 三人は静かに加治木の話に耳を傾けていた。

 話はさらに続く。

「へいへい、って頭下げてれば済む話ではあったんだけどな。ちょっとばかり反抗的な態度を取ったのが気に入らなかったのか、いきなりノックバットで殴られてさ」

 ここ、ここ。と加治木は包帯の巻いてあるこめかみの部分を指差した。

 き、金属バットで殴られたのか……

 想像しただけでも、背筋が冷たくなる。その気になれば、人を殺すことすらできる凶器だ。手加減はしていただろうが、躊躇いなく生徒を殴れる教師とか頭がおかしいとしか思えない。

「殴られた直後は、痛いだけで済んだんだけどね。説教が終わって帰ろうとしたら、いきなり鼻と口から血を吐いちまった。やべえ、って思った瞬間、そのまま倒れて意識不明。……こんな感じ」

 そして、それを俺が発見した、というわけか。血に濡れた加治木の姿を。

 これで不審な点の説明がつくようになった。救急車や警察が呼ばれなかったのは、教師が生徒を殴り傷害を負わせた、という事実を隠蔽したかったためだ。顧問が暴力を振るったとなれば、それこそ学校全体の問題となる。目撃者もいないし被害者である加治木も意識がないから、隠し通せると考えたのだろう。地獄谷本人が隠そうとしたのか、学校から指示を受けたのかまではわからないが。

 だが状況は変わった。加治木が意識を取り戻し、真実が明らかになったからだ。自分自身の名誉のためにも、何より人生を狂わされた加治木のためにも、隠蔽工作を破らなければならない。

 ふと久遠の方を見ると、口に手を当て視線を少し下げていた。何かを考えている時の久遠だ。

 しばらくの沈黙の後、

「西ヶ谷、戻りましょう」

 と声を掛けてきた。

 何かを決心した目だ。


「地獄谷先生は、去年まで雑務部の顧問をしていたの」

「雑務部の顧問? でも去年だって野球部に……」

「兼任していたのよ。生徒に対し強く出られる先生は、雑務部の顧問として適任とされた。出世コースに乗っていて、学校内でも十分な権力を持っていたしね」

「それが、何で今年から解任されたんだ?」

「先輩の事件よ。西ヶ谷のお兄さんが自殺した事件、その責任を追及されたの。表立って処分があったわけではないけれど、顧問の解任と減給で決着がついたわ。出世コースからも外れ、転任先で教頭、という話もなくなったのよ」

「もしかして、その恨みを雑務部に持っている……とか?」

「どうかしら。雑務部員という立場の西ヶ谷に対して、これは私怨を晴らす絶好の機会だと思ったのか、それとも単に罪を被りたくない一心で、偶然いた西ヶ谷を狙ったのか。どちらにせよ、悪意を持った行動であるのは明確だわ」

 夜になり校舎にあるほとんどの照明が消された学校は、要塞か廃墟か、非日常的な建築物に見えた。ヒュウウ……と吹いてくる冷たい風。閑散とした立地。それらも相まって、いつもと同じ学校には感じられない。

 俺と久遠は、その駐車場にいた。校舎の裏手にあるここは、塀や木、倉庫などで外が見えない閉ざされた空間だ。等間隔に斜め方向へ引かれた白線が、小さな照明によってぼんやりと照らされていた。

 その中に浮かび上がる、一台のSUV。荒くれ者が乗るイメージにピッタリな、地獄谷の愛車だ。今日は職員が順番にやっている施錠当番の日で、まだ校舎内の施錠確認をしているのだろう。

「……そろそろ来そうだな」

 二階の照明がスッと消える。

「西ヶ谷は、隠れていなさい。校舎の陰がいいと思うわ」

「な、なんでだよ?」

 久遠は俺の方を振り向き、静かにこう告げた。

「これは私の仕事だから。久遠葵として、やらなければいけないことだと思っているわ」

「で、でも……」

「それに私が雑務部にいられなくなっても、西ヶ谷がいれば雑務部は存続できる。……今の西ヶ谷は、刀も竹刀もないし」

「そ、存続できるって……」

 部の存続にまで話が飛躍し、何をするつもりなのかと怖くなってきてしまう。

 久遠は俺を助けたいのだろうが、俺も久遠の身が心配だ。自分が犠牲になれば誰かが助かる――そんな考え方、すぐにでも捨てて欲しい。久遠がいるから、俺は雑務部にいる価値を見出せるのだから。

「いいから、黙って隠れておいて。……お願い」

 そう言って久遠は、校舎から駐車場への入り口に向き直った。

「……」

 俺は口を閉ざし、校舎の陰へと向かう。

 何を言っても無駄だと思ったからだ。良くも悪くも、久遠は簡単に自分を曲げたりしない。

 無理だけは、しないでくれよな。

 キュッキュッ……

 ゴムを擦り合わせるような音がリズミカルに聞こえてきた。地獄谷だ。白いスニーカーに暗い青色のジャージの上下。左手にはリュックサック。そして右手にあるのは、有名なスポーツ用品メーカーのロゴが入った黒いバットケースだ。久留米が言うには、加治木を殴った後に買い換えたノックバット――それが入っているのだろうか。

 車まで数メートル。……そこで地獄谷は足を止めた。

『失礼します。少々お時間、よろしいですか?』

 久遠がやや崩した体勢で、しかし視線は真っ直ぐに地獄谷を見つめたまま聞く。

『これから見舞いに行く。明日にしろ』

 この時間に生徒が駐車場にいることを不思議がるわけでも咎めるわけでもなく、再び歩みを始める地獄谷。

 華奢な久遠の横を、隆々とした身体が通り過ぎようとする。

 ……と、

『口止めですか? それとも、土下座ですか?』

 タイミングを計っていたように、久遠が言い放った。

 思わぬ言葉を返され、地獄谷がサッと振り向く。

『は?』

『菓子折り一つでことを片づけようという浅はかな考えは、お捨てになった方がよろしいと思います』

『……生意気な小娘だな。俺に文句でもあるのか?』

『それとも脅迫しますか? それでしたら、病院という場所は避けるべき……』

『うるっせえな! 言いたいことがあるなら、はっきり言いやがれ!』

 大地がうなり、空気は震え、照明が揺れたと感じるくらいの咆哮が響き渡った。

 俺はこういう状況が大嫌いだ。何をされるかわからない、少しでも逆らえば怒号と鉄拳が飛んでくる。その恐怖に怯えなくてはならない、今この瞬間ほど苦手なものはない。例え自分が第三者の立場であっても、だ。

 おかっぱ頭の下にある目が、ギロリと久遠を睨みつけた。

『加治木くんから、全てお聞きしました』

 獲物を狩る、肉食動物のような目。

 それに臆することなく、久遠は先ほどと同じトーンと大きさで静かに告げた。

『会議室で彼をバットで殴り、重傷を負わせたばかりか、それを発見した西ヶ谷くんに濡れ衣を着せた。……大人として、教師として、品格に欠ける自らの行動に恥すら感じないのですか?』

 落ち着き払って地獄谷を挑発する久遠。

 そしてゆっくりと振り返り、目の前の相手を見つめ……いや、睨み返す。

 俺ならその姿を見るだけで心臓が縮み上がるような悪魔と、わずか数十センチの間合いで対峙していた。相手がどんな人間であろうとも、久遠は絶対に怯えない。引き下がらない。屈しない。少しでも押し引きを誤れば、拳が飛んできて二、三メートルは吹っ飛ばされる――そんな雰囲気の中で、久遠は火花を散らしていた。

 重苦しい沈黙が下りる。

『……ふっ』

 突然、地獄谷から笑みがこぼれた。馬鹿にするような嘲笑だ。言い訳ができない状況だと悟った、そうも見えた。

『お前らに何がわかるんだよ』

『どういう意味ですか?』

『ただ欲望を満たし、後始末は大人に任せる。……そんな身勝手なガキに、大人だの教師だの、品格だの、何がわかるってんだ?』

 試すような口調。

『いじめを制裁する? そんなおままごとに付き合うために、俺が何をしていたかわかって言ってんのか? なあ? ガキの尻拭いは誰がやってんだ?』

 段々と強くなっていく語尾。それを聞きながら確信した。

 地獄谷は兄の自殺の責任を負わされたことを根に持っているのだ。つまり俺に濡れ衣を着せたのは、その場の思いつきで自分のせいにされるのを避けようとしただけでなく、雑務部とそのメンバーにダメージを負わせようとしたから。私怨を晴らそうとしたのだ。

 雑務部が力を発揮できる裏には、担当顧問を始めとした学校職員の尽力がある。俺たちの知らないところで、教育委員会に報告したり、保護者への説明を行っているだろう。もしかしたら、情報の隠蔽工作や目撃生徒への口止めといった汚れ役も引き受けているかもしれない。

 地獄谷の言っていることも一理ある。理解されない苦労へのストレスが溜まっていたのだろう。

 しかし……それでも……

『尻拭いしなければならない原因。それを作っているのは誰ですか?』

 久遠が鋭い声を放った。

『先輩をいじめから解放するために動いていれば、尻拭いなどする必要もなかったでしょう』

『なんだと……』

『先輩は様々な生徒からいじめを受けていた。そして、先生はそれを知っていた。……にも関わらず、責任の追及を恐れて自己防衛の許可すら出してはくれなかった。その結果、先輩は自殺し、先生はさらに大きな責任を負わされることになった。――違いますか?』

 自己防衛の許可、か。

 兄が自殺したのは、自分の身を自分で守れなかったからだ。

 雑務部は部員が口実をつけて権利を乱用しないよう、自らへのいじめは部として対処できないようになっている。大きな権力を持つ雑務部への足枷だが、同時に部員がいじめられても部活としては何もできないということだ。

 本来であれば、そういった事態にも対処できるよう、顧問には一時的に足枷を外す力があるのだろう。もしそれが発動されていれば、兄は久遠によって守られ、自殺という最悪のパターンは回避できたはずだ。

 だが、当時の顧問――地獄谷はそれをしなかった。雑務部の対処が適切であったかどうか、それを追求されたくなかったのだろう。一歩間違えば、自分は雑務部の暴走を助長した張本人になりかねないのだから。

 その結果、兄はいじめに耐え切れず自殺した。地獄谷は、避けていたものよりもさらに大きな責任を負うはめになってしまったのだ。

『最終的には自分へ跳ね返ってくる。なぜそれがわからないので……』

『黙れっ!』

 久遠の言葉を途中で遮り、再び地獄谷が吠えた。我慢できなかったのだろうか。

『貴様らに、俺の何がわかるってんだ!? てめえらはみんなそうだ! 言いたいことを言い、好き勝手身勝手に動きやがる! それで後始末は俺に押し付けだ! 誰が責任を負い、どんな苦労をしているかも知らないで!』

 口から唾を飛ばし、地獄谷は訴えるようにして叫んだ。

『いいか! 世の中をロクに知らねえガキがデカい口叩くんじゃねえ! 社会にはな、代わりに後始末をしてくれるやつも、泣きついたら許してくれるようなやつもいねえんだぞ! 全部自分でやるんだコノヤロー!』

 そして、

 グイッ!

 怒りが抑えきれなくなり興奮した地獄谷は、久遠の胸倉を鷲づかみにすると、思い切り手繰り寄せ強引に目の前へ持ってきた。ギギギ……と歯を食いしばっているその顔には幾筋ものしわが走り、ギラギラと鋭い目を光らせている。鬼のような形相だ。

 フーッ! フーッ! と息を荒げる地獄谷。

 それでも久遠は、眉一つ動かさなかった。相手を見下すような、哀れみの目で静かに目の前を見つめている。

 怯まないと悟ったのか、地獄谷はさらに口撃を加えた。

『クソガキは黙ってろ! 余計なことに首突っ込むんじゃねえ!』

 そこでニヤッと薄気味笑いを浮かべ、

『……あの三年生のように、何もできないくせにな』

 ――その瞬間だった。

 フワッ……

「え?」

 目の錯覚だろうか? いや、そうに決まっている。

 久遠の長い髪の毛が、後ろへとなびいた気がした。風もなく手でといたわけでもない。まるで自ら意思を持つかのように。

 直後、

 ガッ!

『うっ!?』

 地獄谷の身体が宙を舞っていた。状況を理解できず、驚いた様子の地獄谷。おかっぱ頭が横へと流れていき、入れ替わるようにしてスニーカーがその先端を空へと向ける。

 キラ……

 ほんの一瞬だけ煌いた、白い閃光。

 ドサッ……

 コロン……

 リュックサックとバットケースの落ちた音が聞こえた時、

「え、えっ?」

 そこにあったのは、顔だけを横に向けうつ伏せになっている地獄谷。そこへ両手を重ね、のしかかっている久遠。散乱したリュックサックとバットケース。……これらだった。

 地獄谷はうめき声を上げているが、動こうとしない。両腕をアスファルトに放り出したまま、目をカッと見開いている。何が起こったのかわからない様子で、混乱しているようだ。

「も、もしかして……?」

 ハッと思いつき、地獄谷の首元に視線を移す。

 やっぱりそうだった。筋肉が隆々としている首に刺さっていたのは、細く銀色に光る針。久遠の針だ。

 足を蹴ってバランスを崩し、倒れたところへ針を刺して動きを止める。髪がなびいたように見えたのは、俺の目が追いつかなかったため。一瞬光った白い閃光は、久遠が取り出した針だ。

 凄いものを見せ付けられてしまった。理解が追いつかないほどの早業はやわざ、あの一瞬で動きを完全に封じ込めるとは。さすがは雑務部の部長たる人物、相手が誰であろうとも一切の手加減は……

「ひいっ!」

 その久遠の顔を見て、思わず悲鳴が漏れてしまった。

 目が……視線が……怒っている……!

 もはや怖いとか怒っているとか、そんな次元ではなかった。死神の目、殺し屋の目、殺人鬼の目。目の前にいる者の命を何とも思わない、殺戮の目だ。殺すなどという行為をするはずがないのに、俺の脳はそれを受け入れてくれなかった。

 や、られる。見つかったら、殺される……!

 カラ……

『……何もできなかったのは、……あなたでしょう』

 ただでさえ冷たい空気が、キンと凍りついた。抑揚のない声が、刹那でこの場を支配する。

 静かにバットケースを片手で拾い上げる久遠。そしてそのまま上へと振りかざし、

『……先輩は、……あなたのせいで』

 ドゴッ!

『うぐっ……!』

 躊躇いなく地獄谷へと振り下ろした。チリン、と小さな音。針が抜け痛みを感じたのだろう。うめき声が漏れ出てくる。

 それでも久遠は止めるどころか、再びケースを高く振り上げ、

『……何もしなかった、……あなたのせいで』

 ドゴオッ!

『ガハッ!』

 もう一度、背中へと叩きつけた。

 鎌で人を斬る、死神にしか見えない。聞こえただけで戦慄するような声。視線は冷たく地獄谷を見下ろしている。

 先輩を――兄を馬鹿にされ、久遠の中でスイッチが入ったのだろう。それほど兄は、久遠の中で大切な存在だったと言える。傍らにいてくれた人物を見殺しにされ、死んだ者を冒涜された久遠の怒りが、静かに、そして冷たく爆発したのだ。

 いくら片手とはいえ、バットで打たれて痛みを感じないわけがない。今の久遠に、手加減という言葉はないはずだ。

『……そして今度は、……西ヶ谷まで取る気ですか?』

 ケースが大きく、高く振りかざされる。

 直感的に理解した。頭部を狙っている!

 もし金属製のノックバットで頭を殴られれば……、そこに待っているのは、加治木と同じ結末だ。脳を激しいショックが襲い、意識は混濁し、吐血し、下手すれば死すらありえる。

 いくら地獄谷とはいえ……

「くっ、久遠っ!」

 恐怖に震える足を無理矢理動かし、俺は叫んだ、怒鳴った、吠えた。何が何でも止めなければ、眼前に悲惨な光景が広がると思ったからだ。

 ――私が雑務部にいられなくなっても、西ヶ谷がいれば雑務部は存続できる――

 まさか直前に言ったのは、これだったのか!? 怒りが抑えきれなくなると予期して? 自分が制御不能になり取り返しのつかないことをしてしまうだろうと考えて?

 ……いやだ! 俺はこんなことで、久遠と離れたくなどない。

 怒りの余り教師に重度の傷害を与え、それが問題視されて退部、あるいは退学。ここまで久遠は読んでいたのだろう。そしてそれに巻き込まないよう、俺を切り離し第三者にさせた。

 そんな結末、あってたまるか。久遠が雑務部からいなくなるようなことがあれば、結局兄と同じような結果じゃないか。俺と久遠、二人揃って雑務部だ。兄だってそう言うだろう、久遠がいなくなったら意味がないと。

「……私から、まだ大切な人を……」

「久遠っ!」

 ダッ!

 今にもケースを振り下ろそうとしていた久遠に、俺は横から突っ込んだ。両腕を腰の辺りに回し、抱きかかえるようにしながら倒れこむ。

 ドン!

 アスファルトの冷たい感触。顔が擦れ、痛みを感じた。それでも両手を離すわけにはいかない。久遠を守ろうと、転がりながらも必死になって華奢な身体を包み続ける。

 二、三回ほどゴロゴロと転がった後、力果てて両手が離れた。

「ハァハァ……」

「はぁ……はぁ……」

 二人共、息が上がっている。

 よ、よかった……。最悪の事態は、避けられたようだ。

「に、西ヶ谷……」

 ふと顔を上げると、久遠が心配そうに覗き込んでいた。さっきまでの戦慄を覚えるような顔ではない。

 も、戻ったか……

「お、俺は大丈夫だから」

 無理に笑顔を作り、笑って見せた。

 俺で言う「あの状態」みたいなものなのだろうか。怒りが一定を超えると発動する、みたいな。我を失い、目の前の敵を倒すことだけに全神経が向かう。理性が飛び、身体が言うことをきかなくなる瞬間だ。

 久遠にも、そういう体質があるのだな。

「うっ……、うううっ……」

 地獄谷から、うめき声が聞こえた。

 うつ伏せの状態から両腕を立て、歯を食いしばって起き上がろうとしている。が、受けたダメージが大きく痛みが激しいのか、腕や背中がプルプルと震えるだけでなかなか起き上がれない。

 それを見た久遠は、立ち上がって地獄谷へと近寄ると、介助するようにその上半身を起こした。

「はーっ……、はーっ……」

 息を上げている地獄谷。それに対し、久遠は告げた。

「……西ヶ谷くんに感謝してください。彼がいなければ、私は先生の息の根まで止めていたでしょう」

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