9-11.助けられたのは西ヶ谷
真実を伝えていなかったことへの罪悪感に苛まれる久遠。
しかし残念ながら、今の俺にはそれを気づかってあげられるほどの余裕はなかった。いや、例え余裕があったところで、慰める手段はないだろう。「久遠は悪くないよ」「俺は気にしていないから」――そんな体面だけを取り繕うような言葉で、久遠が割り切ってくれるはずがない。
部室への登校は一週間続いた。服装は私服から制服になり、在校時間は増えていき、昼食も挟むようになり……
窮屈な部室ばかりでは息苦しいと思ったのか、久遠は化学室で実験もやらせてくれた。仲間に入ることができずに孤立した、電池の実験だ。時間制限なし、器具や薬品を使い放題、その上に久遠というわかりやすい解説者つき――という理想的な授業を、この先で受ける機会はないだろう。
「……行ってきます」
ガチャ。
週末の連休が明けた月曜日、洗濯されたばかりの制服に身を包み、ノートや体操着の入った鞄を下げ、俺は玄関のドアを押し開けた。
すぐに朝の冷気が身体を包み込む。天気予報は晴れ、だが最高気温は昨日よりも下がったらしい。十一月も残り一週間を切り、冬将軍もだんだんと近づいてきているように感じられた。
「おはよう」
「お、おはよ……」
外に立っていたのは、制服姿の久遠。毎日欠かさず、俺の家まで迎えに来てくれている。申し訳ないとは思っていたが、それ以上に一人では登校したくなかったから、何も言わないでおいた。
二人並んで近くのバス停まで歩き、いいタイミングでやってきたバスに乗り込む。朝の混みあっている車内で揺られながら、九つ目の駅前へ。そこから鉄道の高架を潜ってひたすら南へ歩く。――バスと徒歩で学校に行く時のルートだ。
いつもならICカードのチャージ金額が気になるところではあるが、母親に「学校行くから」と告げたら大喜びで一万円を渡された。これからはバス通学でもいい、という意味だろうか?
「緊張、している?」
公園の横を歩きながら、隣からそう聞いてくる久遠。
「う、うん……」
返事には小さな声を絞り出した。
もう三週間はクラスメートと会っていない。どういう顔をして教室に入っていいのか、そこでどういう反応をされるのか、今日からどう振舞えばいいのか……
そして、もういじめられないだろうか。
気に留めることでもないような小さな心配から、また不登校に戻ってしまうような大きな不安で、頭の中は一杯だった。脈は速いし呼吸は浅く、吐き気までしてくる。手足も小刻みに震えているし、口からもかすれた声しか出せそうにない。
「無理もないわ。孤立した状況から、一時的に避難しただけなのだから」
それを読み取ったのか、久遠はやさしく気づかうような言葉を掛けてくれた。
「……でも、このまま逃げ続けているわけにもいかないわ。いつかは自力で現実と向き合わなければならないの」
「……」
そうなのだ。
二年A組というクラスに、俺の友達と呼べる存在の人物はいなかった。つまり俺は孤立無援なのだ。笑われても、貶されても、殴られても……誰も助けてはくれない。
だが同時に――それから逃げ続けるわけにもいかなかった。いつかは独立しなければならない。いつかは一人で学校生活を送れるようにしなければならない。
県道に跨る歩道橋を渡りかるがもロードに入ると、見慣れた制服が多くなってきた。スポーツバッグを抱えた男子高校生や、二人並び談笑しながら歩く女子高生……
みんな、何を思ってこの道を歩いているのだろう。教室で待つ友達とのおしゃべりを楽しみにしているのだろうか? それとも、部活の朝練が面倒くさいと思っているのだろうか? あるいは、この前の模試の出来が悪かったと反省しているのだろうか?
一つ言えることは、この中の誰一人として俺のような不安を感じている生徒はいない、ということだ。今日の今だけは他人が羨ましい。入れ替わりたいとさえ思う。
『おはようございまーす』
朝のあいさつをしている生徒会の役員たちから目を背けつつ校門を通過し、玄関ホールから東側の階段を上って三階へ。
ロッカールームで上履きに履き替えたら、A組の教室は目と鼻の先だった。脈はさらに速くなり、苦しいほどに呼吸が乱れている。視界がちらつき始め、貧血で倒れそうだ。足下もおぼつかない。
落ち着け……落ち着くんだ。
クラスメートの大半は朝ギリギリに来るから、この時間の教室にいる生徒はそこまで多くない。それからクラスの中心メンバーは、まだ部活の朝練をやっているだろう。
怖がらなくてもいい理由を必死に探し、それを心の中で自分に言い聞かせながら、久遠の背中を追いうつむきながら教室へと入った。
『おーっす、久しぶり』
『おはよー』
急に声を掛けられ、心臓が止まりそうになる。誰かからあいさつされるなど、考えてもいなかったからだ。
他の人へのあいさつを勘違いしたのだと、おそるおそる顔を上げると……
「津久井と……、朝霧さん?」
丸刈り頭で見るからに野球部と分かる男子と、ポニーテールが印象的な女子。津久井と朝霧が、俺の席のすぐ前に隣同士で座っていた。こちらに小さく手を振っている。
……って、津久井?
「つ、津久井って別のクラスじゃなかったのか?」
「こちらのクラスに移ってもらったのよ。西ヶ谷が一人にならないよう、一時的だけどね」
隣から久遠が説明を入れる。
個人的な理由でクラスを移動することなと、できるはずがない。おそらく、久遠が雑務部の権限を使って津久井を連れてきたのだろう。よくよく考えれば朝霧も席が移動しているから、それも久遠が手を回したのかもしれない。
しかし、いくら雑務部の命令とはいえ、よく協力してもらえたな……
一気に不安が消し飛んだ。誰も助けてはくれない孤立無援の状況と、一時的とはいえ話せる人物がいるのとでは安心感が違う。少なくとも、この二人からいじめられることはないと心を落ち着かせることができた。
「立派なことは何もできないけど、よろしくな」
「いや、いてくれるだけでも嬉しいよ。朝霧さんもよろしく」
「私は最初からクラスメートなんだけどなー」
「あはは……」
自分を取り囲んでいた空気が弛緩していく。先ほどまでの緊張感はどこへいったのだろうか。心臓も安定した脈動に戻っているし、声にも震えはない。
「ありがとう久遠。これなら大丈夫そうだ」
「そう。でもお礼は私ではなく、津久井くんと朝霧さんに言いなさい。私はただ、環境を設定したに過ぎないのだから」
久遠はいつもと同じく、表情を変えることなく返事をした。自分は雑務部の部長として、当然のことをしただけだと考えているのだろう。
でもその当然のことは、クラスメートからのいじめに怯える俺にとってどれだけ強力な援護になったことか。
『おはよう』
『あっ、おはよー』
教室にも生徒が増えてきた。だんだんと教室で談笑する声が多くなってくる。
「……まあ本当に大変なのはこれからだから、不安なことはちゃんと相談しなさい。私にまで我慢をする必要はないから」
久遠はそう言うと、そのままドアから教室の外へ……
……出て行くのではなく、俺のすぐ隣の席へと腰を下ろした。そして通学用の鞄を開けると、ノートやペンケースを取り出し始める。
「えーと……久遠?」
「それから……」
理数科の教室に帰るどころか、この場で授業を受けそうな雰囲気だ。
まさか……?
「……私も、ここで授業を受けることにしたから」
「……n=1の時、左辺は1で右辺は1に二乗でこちらも1になり式が成り立ちます。それを前提としてn=kと置き換えますと、(2k-1)とkの二乗が等しくなります。両辺に2k+1を足して計算をしても等しいままであり、これでn=k+1でも式が成立することが分かります。以上より、全ての自然数において式が成り立つことが証明できます」
沈黙――
それまで私語の溢れかえっていた教室が、一瞬にして静かになった。「わかんねーよ」と嘆いていた男子も、後ろの席としゃべっていた女子も、声一つ上げない。いや、上げることができない。しばらくしてから、囁くような小さなざわめきが聞こえてきた。
今日から「数学的帰納法による証明」という新たな単元に入った、四時限目の数学Bの授業。数学担当はいつも偉そうにしている数学担当の白ヒゲ親父。おしゃべりをやめさせようと、『よし、これはどうやって証明すればいい?』と本日の生贄を冷酷に指名した。
ところが指した先にいたのが理数科のエース、久遠だったのが運の尽き。模範解答と寸分違わぬ答えをあっさりと返され、今は「あー……そうだな……」とホワイトボードを見つめたまま呆然としている。生贄に逆襲された格好だ。
もちろん、A組の生徒で久遠の解答が分かる者などいないだろう。クラストップの眼鏡男子ですら懸命に教科書を読み込んでいる最中だし、俺の耳には魔法の呪文にしか聞こえない。
一時限目の英語から、ずっとこんな感じだ。指されればスラスラと答えてしまうし、ホワイトボードへの板書に指名されれば迷う様子もなく書き込んでいくし、説明の誤りを指摘して教師を黙らせてしまうし……
学校では一番の天才集団である――と俺が思っている――理数科の生徒、しかもトップクラスの位置にいる久遠にとって、普通科の授業はあまりにもレベルが低すぎたらしい。クラスメートが教科書の例題に頭をひねっている中、久遠はすでに全問を終わらせて理数科の問題集を埋めていた。チラリと中身を覗いてみたが、もはや日本語であるのかすらわからない。
『久遠さん、久遠さん』
ふと、前から久遠を呼ぶ小声が聞こえた。朝霧だ。
『これわからないんだけど』
『ここ? これはn=4から始めるの。一角形や二角形なんて存在しないし、三角形には対角線がないから……』
ふんふん、と後ろを振り返って説明を聞く朝霧。難しいのはこちらもなのか、津久井も横から身を乗り出して久遠の説明を受けていた。
俺もわからないから聞きたいのだが、どこがわからないのかわからない。いや、そもそも勘違いしているのかわからないのか……
「西ヶ谷、教えてあげるわ」
わからないという単語に混乱しているのを読み取ったかのように、説明を終えた久遠が声を掛けてきた。
「でも、教えられても……」
「噛み砕いて教えてあげるから。……よく聞くのよ?」
断ることもできずコクリと頷くと、久遠はノートを広げて見せた。
字が曲がっておらず、とても綺麗だ。ギッシリ埋めて満足感を得ている――そんな自己満足で作られたノートではない。まるで最初から他人に教えるために書いたような見やすいノートだ。赤ペンすら使わず白黒だったが、そんなことは全く気にならない。
「n角形の対角線の総数が計算で求められることを証明せよ、というのをこの問題は聞いているの」
「うん」
「まずはn=4として計算するわ。そのまま式に当てはめてあげれば……こういう式になるから。もう数字の式だから、計算できるでしょう?」
「えっと……これは掛け算だっけ?」
「そうなんだけど、先にこっちを引き算した方が早いわ。括弧の中は先に計算してもいいですよ、という意味だから。つまりこれは……」
シャープペンで説明している場所を丸で囲んだり、出てきた計算結果をいちいち書き込んでいく久遠。
中学レベルの計算ですら怪しい俺にとって、細かい解説はありがたかった。教師に聞いたところで、「そんなこともわからないのか……」と呆れられながら、意味不明な計算でわけがわからないまま答えが出てくるだろう。どうせなら、久遠が教師をやってくれたらいいのに……とすら思った。
キーンコーンカーンコーン……
『ありがとうございましたー』
数学が理解できるという喜びを味わっていた時、午前中の授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。あいさつを終えれば、昼休みの始まりだ。
「ありがとう久遠さん、分かりやすかったよ」
「うちのクラスにも、ここまで説明が上手いやつはいないもんなー」
朝霧と津久井が久遠の説明を絶賛しながら、鞄にノートをしまい入れ替わりに弁当箱を取り出す。
昼食の時間だ。
朝霧の小さな二段弁当は、ふりかけご飯に卵焼きやトマトなどが並んでいるバランスの良さそうなもの。対して津久井は、一段だが詰め込まれたような白飯と大きな生姜焼きが入っているボリュームたっぷりの弁当だった。それでも足りないのか、りんごやみかんの入ったタッパーが別に置いてある。
ちなみに俺は、焼きそばパンとジャムパンにパックのフルーツジュース。登校を伝えたのが朝だったので弁当を作ってもらえず、仕方なく残っていたパンを持ってきたのだ。ジュースもさっき学校で買ったもの。まあ明日は行く前に作ってあるだろうから、今日だけの辛抱だ。
「ん? 久遠さんは食べないの?」
早くもご飯を半分ほど片づけた津久井が、それを口に頬張ったまま聞いた。
確かに久遠は、魔法瓶を机の上に出した状態で本を読んでいるだけだ。弁当箱を広げるわけでもなければ、菓子パンを取り出しているわけでもない。
「え? ええ……」
「どうして? ダイエットしているとか?」
「そ、そういうわけではないのだけど……」
恥ずかしそうにしながら言葉を濁した。
久遠が生活しているのは、静清ホームという変わった環境だ。親から満足な小遣いをもらえるわけでもなく、自由に物を与えてもらえるわけでもない。
だから弁当も、何か事情があって持ってくることができないのだろう。理由を本人が言いたくないのならば、深く聞くようなことはしない方がいい。
でも昼食がないのは、見ている方も心配になってくるというか……
「久遠」
俺はまだ手をつけていないジャムパンを久遠に差し出した。
「……いいの?」
「うん」
昼食を食べないのは慣れているのだろうけど、空腹は感じるだろう。こんなところで食欲を我慢しても仕方ないし、俺は焼きそばパンとジュースがあれば十分だ。
久遠は少し躊躇ったようだったが、しばらくジャムパンを見つめた後、
「……ありがと」
と小さく礼を言いながら、本を閉じてからおそるおそる受け取った。
そういえば部室登校の時も、久遠は「ちょっと職員室に行ってくるから」と席を外し、しばらく経ってから「お昼は食べたから」と戻っていた気がする。食堂か購買で軽く済ませたのかと思っていたが、順番を待つことを考えればあまりにも短い時間だ。本当は、食べていなかったのだと思う。
ジャムパンを頬張る久遠を見ていると、身体的な問題があるわけではないようだ。つまり何らかの理由で弁当を持ってくることや昼食を買うことができず、食欲を我慢しているのだろう。
何も食べていない人の前で弁当を広げるというのは、気まずいというか心苦しい。でも毎日パンをあげるわけにもいかないし……
いつの間にか、俺の頭の中は「どうやって久遠に昼食を食べてもらうか」で一杯になっていた。
次の日の朝――
ピピピピッ! ピピピピッ!
「んっ……」
携帯のアラームの音に無理矢理起こされた俺は、ボーっとしている頭で携帯を充電器から引っこ抜いた。動きたがらない身体をズルズルと洗面所へと連れて行き、冷水を顔に浴びせて意識をはっきりとさせる。
時計が指しているのは午前六時半、まだまだ寝ているはずの時刻だ。だが今日はやると決めたことがある。ゆっくりしている暇などない。
顔と手を洗ったらキッチンへと向かい、まずはガスの栓を開けて電子レンジのプラグをコンセントに差し込む。そのまま冷蔵庫を開け、中に入っているものの確認だ。
「卵はあるな。こっちにはウィンナーとベーコンとハム。冷凍室には……」
自分の考えていた食品が一通り揃うとわかったところで、今度は食器棚から弁当箱を取り出す。よく使っている黒色で二段の弁当箱は、手前のわかりやすい場所に置いてあった。それを広げてテーブルの上におけば準備完了。
そう、お昼に持っていく弁当を作るのだ。
だが弁当と言っても、自分が食べるための弁当ではない。お昼のない久遠へ渡すためだ。コンビニとかスーパーのパンやおにぎりをそのまま渡すより、手作りの弁当の方がいいだろう。
「さて……と……」
……準備こそ完了したが、ここからどうすればいいのかわからない。弁当を作った経験などないからだ。
しばらく迷った挙句、ご飯から先に入れることにした。パックのご飯を電子レンジへ放り込み、温めて間にふりかけを用意する。いくつか種類があったが、今日は当たり外れのないたまごにしておく。
……チーン。
「あっ、そうだった……」
電子レンジから取り出したパックご飯は、白い湯気と熱気を放っている。当然のことなのだが、こうやって別のことばかりを考えているとつい忘れてしまう。
さすがにこのまま入れるのはまずい。ちょっと冷ましておこう。
おかずも作らなければならない。とりあえず王道の卵焼きとウィンナー。最初は卵焼きから作ることにした。
生卵二つを深い皿に落とし、甘くするために砂糖をスプーン一杯。……あまり変わらないので、もう一杯。菜箸でかき混ぜてから、四角いフライパンに流し込んで火をつけた。
「これだけじゃ少ないよな……」
冷凍室を覗き、お弁当に合うものがないか探す。フライドポテトを入れると脂っこいものが多くなってしまうし、チャーハンなんてご飯ものが被るからダメだ。何かないか、何か……
「お、これにしよう」
カップ入りの小さなグラタンだ。これなら脂っこくもないし、弁当のメニューとしても最適だ。実際、朝霧の弁当に入っていたし。小分けのカップに入っているから、盛り付けるのにも便利そうだ。
箱の裏を見ると、時間は三十秒。一つ分を切り分け、電子レンジへと入れた。タイマーを三十秒にしてスイッチオン。
『どうしたの、こんなに早く……』
ハッと気がつくと、母親が起きていた。今日は父親の仕事が遅いのだろう。
「お弁当を作ってるの? 自分で?」
「う、うん。たまには自分で作ってみようかな……なんて……」
お昼がない女の子へ渡すために作っている――なんて恥ずかしくて言えるはずもなく、とっさに思い浮かんだうそで誤魔化す。
だが、これで自分用の弁当を作ってくれるアテがなくなってしまった。弁当を作り始めてからわずか数十分しか経っていない俺に、二人分を同時に作るなどという高等技術はない。
ん? なんか焦げ臭いような……
「そこのフライパン、焦げてない?」
「え? あっ!」
ジュウウ……
フライパンから黒い煙が立ち上っている。慌てて火を止めたが、時すでに遅し。端の方はこげ茶色に変色しカリカリになっていた。おまけにフライパンの底面に張り付いてしまい、裏返すことすらできない。
仕方なくフライ返しを持ってきて、ガツガツと削るように底面から剥がしていくと……真っ黒に焦げた裏面が姿を見せた。できあがったのはふわふわの卵焼きにはほど遠い、硬くてパリパリの焼き卵だ。
やってしまった……
「油、使った?」
「え、卵焼きに油って使うの?」
「当たり前でしょう。油を塗っておかないと、そうやって底に張り付いちゃうからね」
今さら言われても遅い。
時間を掛けて作った以上、捨ててもう一度作るわけにもいかないので、フライ返しで無理矢理押し付けて丸めようとした。……が、上手くいかない。不恰好ながら一応丸めることはできたのだが、フライ返しを離すとばねのように元へと戻ってしまう。
これ以上はどうにもならないと諦め、包丁で四角く何枚かに切った。
次はウィンナーか。失敗した直後だけに、気が重いな。
剥がし切れなかった卵焼きの破片が残る四角形のフライパンを退かし、丸いフライパンをコンロに乗せた。ウィンナーの袋を開け、数本を放り出して火をつける。
菜箸でウィンナーを転がしながら、チラリと時計を見た。思ったより時間が掛かっている。遅刻しそうになったら、迎えに来てくれる久遠に何て言えばいいのだろうか……
朝食を食べずに家を出たことで、登校にはギリギリ間に合った。寝坊で遅刻しそうになって朝飯抜き……などしょっちゅうだったから慣れてはいるが、学校に着くとやはりお腹は空いてくる。
空腹と慣れない早起きからくる眠気を相手に戦いながら、午前中の授業を乗り越えた。
キーンコーンカーンコーン……
『ありがとうございましたー』
号令と同時に、教室は一気に昼休みムードになる。食堂や購買へ駆け出す男子がいたり、弁当箱を片手に集まって談笑を始める女子のグループがいたり……
目の前の津久井や朝霧も、鞄からそれぞれの弁当箱を取り出し、机の上に広げ始めた。そして今日も変わらず、弁当の代わりに水筒と本を出す久遠。
「あー……久遠」
「何かしら?」
しおりを頼りに続きを開こうとしていたところを呼び止める。
視線をこちらに向けてきた久遠を見て、急に恥ずかしくなってしまった。お互いをよく知っている久遠が相手ではあるが、女の子に弁当を作ることはもちろんのこと、渡すのも初めてだ。どう言えば渡したいことが伝わるのか、断られたらどうしようか……、と不安ばかりが浮かんでくる。
「き、昨日はお昼なかっただろ? だからその……お弁当を作ってきたから、よかったら食べないかなって……」
顎から頭のてっぺんまで真っ赤だろうな……と、想像した自分の姿。余計に恥ずかしくなりつつ、久遠に弁当を差し出した。あまりにも恥ずかしくなりすぎて、途中から久遠の顔を見れなくなる。
「お弁当? 私に?」
「えっ? 西ヶ谷くんの作ったお弁当!?」
朝霧が興奮気味に会話へと参加してきた。津久井はご飯を口に含んでいてしゃべれない様子だったが、興味はあるらしく身を乗り出して弁当箱を覗き込んでくる。
二人に注目されそうだから、登校している最中に渡しておけばよかったのだが……
朝霧と津久井の視線に戸惑うことなく、久遠は俺の手から弁当箱を受け取った。丁寧に机の上に置き、両端のロックをカチッと外してふたを開ける。
「あー……」
朝霧の「もっと驚いてあげたかったが、期待外れだったので驚くことができず、でも残念そうにするとかわいそうなので、気をつかって最低限のテンションは確保した」反応。
卵焼きは焦げているし、ウィンナーは中から出てきた油が白く固まっているし、野菜枠に入れたブロッコリーはあちこちへ遊びに出かけてしまっている。別の段のご飯はふりかけが濃淡を作っているし、デザートにと入れたりんごは塩に付け忘れて赤みを帯びた状態だ。しかも中身がスカスカなので、全体的に寄ってしまって底が見えているという惨状……
おまけにグラタンを入れるのを忘れていた。母親が気づいていなければ、まだ電子レンジの中でポツンとしているだろう。
恥ずかしい思いをして渡したというのに、それを上回る恥ずかしさを感じた。そのまま何ごともなかったかのように持ち帰りたいくらいだ。
「ま、まあそれなりにはできてると思うよ。うん」
フォローするように朝霧が慰めてくれたが、その言葉はむしろ俺の心への追い討ちとなった。
どうしてこうなった……
「い、嫌なら……、食べなくてもいいから……」
どうやって渡すかよりも、ちゃんとした弁当の作り方を考えるべきだった。前日にネットで調べておけば……
「……ありがとう」
しかし、久遠が発したのはお礼の言葉だった。
そしてプラスチック製の短い箸を取り、ご飯から口に運んでいく。嫌な顔も、我慢している様子もない。けっしておいしいとは言い難い出来のはずなのに。
「嫌ではないわ。商売のために大量生産されたコンビニ弁当よりも、私のためにわざわざ作ってくれたお弁当の方が温かみがあるから」
頬を動かしながら言った久遠の言葉に、目の奥が熱くなって涙が出そうになる。朝早く起きて、失敗して、緊張しながら渡して、中身を開けたらぐちゃぐちゃで……、と積み重なった苦労が報われたのだ。努力――と呼べるものでもないが――が実を結ぶというのは、実に嬉しいものである。
「そう言われると、納得できるな。毎日コンビニ弁当のやつとかいるけど、冷たい家庭なのかなって思うよね。違う人もいるんだろうけど」
うんうん、と頷く津久井。
「でも、久遠さんってそういう面があるんだね。私はずっと冷酷……じゃなくて、理論派だと思ってたから」
朝霧の言っていることも、わからなくもない。
数少ない久遠の様子からは、冷酷だとか計算高いだとか、機械みたいな冷たいイメージを持つ人が多いのだろう。久遠自身がそう振舞っているからだ。
でも、久遠の素顔は違う。
他の人同様に感情を持ち、稀ではあるがそれに流されることもある。良いことがあれば嬉しさを感じ、嫌なことがあれば怒る。久遠もまた人間なのだ。
「ごちそーさまっ」
朝霧の陽気な声。
お昼を食べ終わる頃になると、潤んでいた目は乾いていた。この歳になって人前で涙を流すことほどの痴態はない。――今日は恥ずかしいことばかりしている。
残った昼休みは、午後の授業を乗り越えるための羽休めをする時間だ。朝霧はたくさんのキーホルダーがついたスマホをいじっているし、津久井は机の上に雑誌を広げて寝そべるようにしながらそれを見ている。久遠は昨日も読んでいた小説に目を落としていた。
教室を見渡しても、片隅で談笑している女子のグループや、机に突っ伏していびきをかいている男子など、それぞれの生徒が思い思いの時間を過ごしている。
さて、と。
俺は鞄から携帯ゲームを取り出し、電源を入れてソフトを立ち上げた。二年前くらいからずっとやり続けている、お気に入りのソフトだ。話題のRPGや流行のアクションゲームなどと様々なソフトで遊んできたが、途中で飽きたりクリアしでやることがなくなったりと長く続かなかった。それに比べてこのソフトは内容が濃く、他のソフトに飽きては戻ってくる、というのを繰り返しているのだ。
タイトル画面が出てきたところで、ふとトイレに行きたくなった。昼休みが終わる直前は混み合うだろうから、今行っておくか。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
別に確認しなければならないことではないのだが、三人に告げながら席を立ち……
ドンッ。
「きゃっ!」
「あっ!」
……立って後ろを振り返ったところで、ちょうど通っていた女子生徒に当たってしまった。早めに次の授業の準備をしていたのか、教科書やノート、参考書がバサバサと床へ散乱する。同時に女子は後ろへ尻餅をついていた。
「ああっ、ごめんっ」
後ろを確認しなかった自分のせいだ。
そう思い、広がった教科書とノートを拾い上げてまとめた。参考書はページが折れてしまったので、一度開いて手で慣らす。あまり目立たないが、折り目がついてしまったようだ。
女子に手を差し伸べて「ケガはない?」と言おうかと思ったが、俺にそんなことができる度胸はないし、ドン引きされるのがオチだろう。
「ご、ごめん……」
女子が手でスカート叩いてほこりを落とした後、視線を上げたタイミングで教科書類を渡した。謝罪の気持ちを表すように、少し頭を下げて。
「……」
キッ!
――俺に向けられたのは、そんな効果音がピッタリの怖い視線だった。
おそらく、いや確実に悪かったのは俺だ。だから礼をもらおうとは考えていなかったし、何も言われなければそれでいいと思っていた。
でも……これはあんまりだ。
女子生徒は俺を睨みつけると、教科書をひったくるようにして俺の手から受け取り、小走りで教室の隅にいる他の女子のグループへと混ざっていった。
『教科書触られたけど。マジキモい』
『何あれ、わざと?』
『善人アピールしてるんだよ。もうクラス全員から嫌われてるくせにね』
聞かれても問題ないのか、それとも意図的に聞こえるようにしているのか、そんな小声でのやりとりが耳に入ってきた。
キモい……、善人アピール……
忘れかけていた、忘れようとしていた、忘れたかった記憶がよみがえってくる。鞄をごみ箱の上へと被せられ、グループで無視され、トイレの個室で水を掛けられ……
俺はクラスメート全員を敵に回したのだ。加治木を襲った犯人に仕立て上げられ、A組中から嫌われている。
そのことを、忘れかけていた。
いくら久遠が助けてくれても、いくら津久井が話しかけてくれても、いくら朝霧が接してくれても――俺がこのクラスで村八分にされていることに変わりはない。そしてこれは、事実がわからない以上変化することは考えられないのだ。
やはり無理だ。俺がこのクラスで過ごしていくのは……
『礼の一つも言えないのかしら?』
突然襲ってきた絶望感に押しつぶされそうになった時、そんな言葉が聞こえた。
本を閉じて立ち上がり、視線を女子生徒の方へと向けた久遠の口からだ。
『知識や身体能力もないけれど、常識的な礼儀すらも持っていないのね。小学生でもないのに、見苦しいわ』
抑揚のない声。容赦のない台詞。それは温かな雰囲気を一気に凍らせ、談笑を止めて沈黙を下ろし、教室の全てを支配するのに十分な威力だった。
ひそひそ話をしていた女子のグループも、思わず会話を止めてこちらを見る。
俺を睨みつけ、戻ったグループで陰口を叩いた女子へ怒っていることは明らかだった。教室中の視線が集められた久遠は、獲物を狩る肉食獣のような――雑務部の部長として、いじめっ子に制裁を科す時の鋭い眼光を放っている。
やがて息苦しい雰囲気を我慢できなくなり、近くの生徒と言葉を交わす小さな声が聞こえてきた。
『と、トイレに行こっ』
『そ……そうだね』
緊張が緩み始めたタイミングで、そそくさと教室から出て行こうとする女子のグループ。久遠は小走りで去っていく女子たちに視線を向け続けたものの、追うようなことはしなかった。それ以上、何かを口にすることもない。
男子の一人が会話を再開し、その相手も視線を戻し、それを見た別の女子が久遠から目を背ける……といった具合で、教室の緊張は徐々に解かれていった。
「えーっと……、何かあったの……?」
とても話しにくそうに朝霧が久遠に聞く。
「西ヶ谷が後ろを通った女子にぶつかり、その時に落としてしまった教科書やノートを拾ってあげたみたいなのだけど、その娘がお礼の一つも言わなかったから」
一応、女子が俺にぶつかってきたと誤解しているわけではなさそうだ。だが気になるのはそこではない。
助けてくれた――味方になってくれた――ことには感謝している。しかし、クラスメートの注目を浴びすぎた。それも嫌われ者の俺を擁護するという悪い意味で、だ。
今のを見たクラスメートは、どう思ったのか。「久遠の言っていることが正しい」? 「倒れた彼女はお礼を言うべきだ」? 「同じA組のメンバーとして恥ずかしい」?
いや……絶対と言い切れるほどありえない。
――他のクラスから来たくせに、うるさいやつだ。
――頭いいからって、調子乗ってるよね。
――西ヶ谷なんかの味方してるの?
そんな久遠を嫌うような感情ばかりが出てきたことだろう。次に思いつくのは、嫌いなやつには何をしてもいい。嫌いなやつを教室から追い出せ。嫌いなやつはいじめても問題ない。
アプローチこそ異なれ、かつて自分の置かれた状況と酷似した現状に、俺は不安を感じた。




