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9-10.助けられたのは西ヶ谷

 こうして久遠のエスコートのおかげで、俺は外出に対して――正確には赤の他人に対して――拒否反応を起こさずに済んだ。また同時に、両親とも顔を合わせられるようになった。……あれは久遠が狙ったわけではないけど。

 俺としては、かなり気分が楽になった。人間不信になってはいなかったとはいえ、十日以上も外を歩いておらず、人との接触をゼロに等しいレベルまで減らしていたのだ。誰かが横にいてくれ、しかもそれが自分を理解してくれている久遠であったことはとてもよかったし、また感謝もしていた。

 もし久遠がいなかったら、俺はどうなっていたのだろうか――

「そこを右に曲がるわ」

 あくる日、俺は再び久遠に連れられて外を歩いていた。静岡駅のバスロータリーから国道を東方向へ歩き、交差点で今度は県道に折れて進んで行く。

 昨日と同じく、上は雲一つない快晴だ。ただ上着を着ていても肌寒いし、唇がひび割れそうになるほど乾燥していた。弱い風でも身震いが起こり、太陽の光の当たっている場所を通り過ぎるたびに、その温かさが惜しく感じる。

「久遠、今日はどこに行くんだ?」

 上着を深く羽織り直しながら、隣を歩く久遠へと聞いた。

 昨日とは打って変わり、久遠は灰色のパーカーに同じ色のスラックスという地味な服装だ。俺は服に関しては無頓着もいいところなので、よほどのことがない限り他人がどういう格好をしていようと抵抗感を覚えることはない。だが、パーカーの生地は厚いとは言えなさそうだし、上着もなしで寒くないのだろうか? と心配になっていた。

 そんな、冬に近づいている季節の服装をしているとは言えない久遠。車道を走る乗用車が走り去りつかの間の静けさが訪れたところで、

「行けば、わかるわ」

 とだけ俺の質問に答えた。

 今日は――どこへ行くのか、という質問に対し――この返事しか聞いていない。いつもなら行き先をあらかじめ教えてくれる久遠にしては珍しいというか、何か怪しげなものを感じていた。

 怪しいと言えば、昨日のように会話が弾まないことにも違和感を覚える。バスの中でもあまり話しかけてはこなかったし、俺が話題を出しても「そう」「ええ」と素っ気なく返してくるだけだった。視線もずっと前しか見ていないし、表情を変えることもない。

 不機嫌なのだろうか? だが心当たりがなかった。昨日だって、喧嘩別れしたわけでもないし……

 女の子は自分のメッセージに気づいてくれないと不機嫌になるとどこかで聞いた気がするが、俺は何か見落としているのだろうか? でも久遠がそんな回りくどいことをするとは思えない。言いたいことは自分から言ってくる性格だ。

 うーん……

 かつてないほど話しづらい状況の中、沈黙を貫き通しながら久遠の隣を歩き続けた。歩幅を合わせ、ペースを維持し、付かず離れずの距離を保って。

「……」

「……」

 中央分離帯のある片側二車線の広い県道をひたすら進み、別の県道とぶつかる交差点をさらに真っ直ぐ歩いていく。ここからは乗用車のすれ違いがやっと、という狭い道だ。当然、歩道などあるはずもない。

 車がすぐ横を通るこの道の端を、俺は自然と久遠の後ろについて歩いていった。

「?」

 そんな本当に県道なのかと疑うような道を抜け、ようやく広い道路に出てきた交差点で、急に久遠がキョロキョロと周りを見渡し始めた。何かを探しているようにも見える。

 もしかして……

 俺をどこへ連れて行こうとしているかはわからないままだが、そこは久遠も初めて行く場所なのではないだろうか? そのために目標物を探し、場所を確認しようと周囲を見回しているのかもしれない。

 うん、久遠ならありえる。

 それなら、今日の態度も納得がいく。不機嫌なのではなく、短絡的に言えば緊張しているのだ。口数が少ないのは道順を思考しているからであり、行く先を伝えないのは迷った時にそれを悟られないため。あるいは下手に指示されたくない――自力でたどり着きたいのかもしれない。

 久遠らしくないと言えばそうだが、こういう時くらいは見栄を張りたいのだろう。

 他の人間にこういうことをされたらイラッとくるが、今回は久遠だけに可愛くもすら感じた。俺をリードしようと必死になっている姿に、愛嬌があるからだ。

 さて、行き先を告げない理由がだいたい予測できたところで、実際にどこへ向かっているのかを考えるか。

 この交差点を左へ行けば、県下指折りのイベント施設がある。今日は月曜日、でもあそこは平日でもちょくちょくイベントをやっているから、そこに向かってもおかしくはない。直進してさらに歩いた先にあるのは、弥生時代の登呂遺跡。こっちに行く確率は低そうだ。

 信号が青になり、久遠が横断歩道を歩き出す。渡り切ったところで進んだ方向は――右だ。

 先にあるのは「鑑定屋」。ゲーム、カード、釣竿、靴……と様々な嗜好の物を買い取ってくれ、あるいはそれらを安く売っている総合リサイクルショップだ。県内ではチェーン店舗が存在するなど割と有名だから、同世代なら知らない人の方が少ないだろう。

 今日はそこへ向かうのだろうか? 本も純文学からライトノベルまで揃っているから、行き先に選んでいたとしてもおかしくはないが……

 興味はおろか知識としてすら知らなさそうなジャンルの多い店であることや、外出のリハビリにしてもわざわざ二人で行くような所ではないことから、久遠にしてはずいぶん珍しい場所を選んだな、と思った。

 周囲を見渡しながら歩く久遠の背中を追いかけること、およそ五分。

やや暗いオレンジ背景に白い太文字。『高価買取宣言! 鑑定屋!』の見慣れた看板と、奥の駐車場へと続く通路がある一階部分が見えてきた時、

 あれ?

 鑑定屋の入り口であるエスカレーターに乗るだけ、というところで、久遠がくるっと歩く向きを変えた。そしてすぐ脇にある、車一台がようやく通れるほどの小道を進んで行く。

 どうやら、目的地はここではなかったようだ。

 では久遠が行こうとしている場所は、一体どこなのだろうか? 

「おい久遠、あとどのくらいで着くんだ? それくらい教えてくれよ」

 どうせ行き先は教えてはくれないと考え、歩く時間から推測しようとした。かわされては困ると、不本意ながら強めの口調になってしまったが。

「そうね……」

 久遠は少し考えてから、

「……もう五分もあれば着くと思うわ」

と振り返ることなく歩きながら答えた。

 五分。ここから五分歩いて到着できる場所と言えば、スーパーと図書館くらいだ。が、スーパーなら静清ホームからほんの数百メートル、図書館もバスで数分の市役所近くにある。何もこんな遠方まで歩いてくる必要性はない。

 そんなことがわからないほど、久遠は愚かではないはずだ。

 二階建て、三階建て、古いトタン屋根、新しく綺麗なベランダ……。色々な家屋が、高度の低い太陽の光を遮るようにしてひしめき合っている住宅街を歩いていった。お互いに何も話さない。喧嘩をしたわけでもないのに、視線を動かすことすら躊躇われる息苦しいムードだ。そしてこの雰囲気を維持しようとしているかのように、車とはおろか人や野良猫にすら出会わない。

 交差点やT字路に差し掛かるたびに、久遠が周囲を見回しながら進んで行く。それがまた五分、続いた。

「……ここよ」

 自宅を出発してから、一時間ぶりに久遠から口を開いた。同時に目的地にある建物を見上げて見せる。

「……」

 俺はその場に立ち尽くしてしまった。行き先を告げなかったこと、会話が少なかったこと、時折キョロキョロと周囲を見渡していたこと。それらの謎が――解けて欲しくなかった謎が解けてしまったからだ。

 初めて行く場所だから慎重になっている――そんなのは、とんだ俺の見当違いだった。

 行き先を告げなかったのは、俺が外出をやめる可能性があったから。会話が少なかったのは、久遠自身も緊張していたから。周囲を見渡していたのは、建物がギリギリまで見えないか確かめていたから。

 住宅街の中に突然現れた、七階建てでガラス張りの大きな建物。広々としたグラウンド。それらを囲む、背の高い緑色のネット……

「行き先を隠していたのは、謝るわ」

 ――学校だ。

 いつもとは逆方向から見る学校からは、刑務所……いや強制収容所のような、入ったらどうなるかわからない恐怖感を覚えた。

 遠回りをしたのは、校舎を遠くから見られないためだったのか。

 ごめん、久遠。俺はまだ無理だ。

 そう言い残し、その場から立ち去ろうとした時、

 ……ギュッ。

 刹那、腕を掴まれる。

「これから言うことを、よく聞いて」

 久遠が振り返り、視線を合わせてきた。鋭く、ではない。強く、俺を見つめている。

 有無を言わさない久遠の目に、手を振り切ることができず、また強引に歩き去ることもできず、吸い込まれるように見つめ合うことを余儀なくされた。

 俺が逃げることを諦めたと判断したのか、久遠が再び口を開く。

「時刻は午後二時前で、どこのクラスも授業中。体育をやっているのは一年C組で、男女共に体育館で授業を受けているわ。A組を初めとした二年生普通科は模試の予定を繰り上げていて、理数科は物理室での実験中よ」

「……」

「今から西棟のグラウンド側を回り、非常用のドアから進入、西側の階段を上って四階に上がるわ。目的地は雑務部の部室。鍵は開いているから、そのまま入れるわ。……いい?」

 どうやら、生徒とは会わないように時間を調整し、誰にも見られないルートを考えている、と言いたいらしい。

 拒むこともできず、コクリと小さく頷くしかなかった。

「……行くわよ。歩いていくけど、嫌なら走ってもいいから」

 掴まれている手が、腕から左手へと移動した。柔らかな久遠の手だ。小さくも頼りがいのある綺麗な手から、ほのかな温かみを感じた。

 久遠が歩き出し、俺の様子をうかがいながら、グラウンドの土と校舎前のタイルの境を進んで行く。

 カチャ……

 避難訓練でも使わなかった、西側の非常口。そこから入った校舎内、その奥まで続く廊下には誰もいなかった。廊下は蛍光灯で照らされ職員室からも明かりと声が聞こえているが、教師や生徒の姿は見えない。

 それでも、競歩の選手のような走らない程度の早足で、白く明るい西側の階段を上がっていく。

 私服で学校に来たのは……あの日曜日以来、か。

 全てが始まった日曜日、全てが変わった日曜日。

 あの出来事から、俺の人生は大きく捻じ曲げられてしまった。何事もない平和な学校生活が一変、クラス中からいじめの標的にされ、誰も信じることができなくなってしまったのだ。

 負のスパイラル。無限ループ。底なしの沼――

 そこから助け出してくれたのは、すぐ前を行く美少女。学校でも指折りの優等生であり、雑務部の部長である久遠だ。

 自らの身を危険に晒してでも俺を受けとめ、実母のように慰めてくれ、不安を払拭しようとエスコートしてくれた久遠。もし久遠がいなければ、俺は暗く汗臭い部屋で、今も引きこもっていただろう。栄養失調で死んでいたかもしれない。

 ここまで面倒を見てくれた久遠に、応えたい。

「……」

 四階にたどり着いた。角度の関係上、部室の前は各教室から死角になって見えない。気にしたこともなかった位置関係をありがく思いつつ、久遠の開けてくれた部室へと身体を押し込んだ。

 ……タン。

「はぁー……」

 スライドドアが閉まった瞬間、思わず大きなため息が出た。階段を上がっただけだというのに、一日中歩いたような疲れがどっと押し寄せてくる。

 久遠が内側から鍵を掛けると、そこは二人だけの空間となった。

 消されている蛍光灯が一本だけ設置されている、白い天井。両脇で壁の役割を果たしている、ねずみ色の戸棚。その中に並べられている、分厚いファイルや難しそうなタイトルの本。真ん中にある木目調の長机。向かい合っている二脚のパイプ椅子……

 それらは締め切られた窓から入ってくる光によって、適度な明るさで照らされていた。少々カビくさい、どこか懐かしい匂いもする。

 実に三週間振りとなった、雑務部の部室だ。

「どうかしら? 久しぶりの部室は」

「なんだろう……家に帰ってきたみたいに落ち着くよ」

 ここなら誰にも干渉されない、そんな安心感があった。ドア一枚を隔て、すぐ外には生徒が教室で授業を受け、あるいは休み時間にはトイレや購買に歩き回っているというのに。用心棒付きのプライベートルームにいるような感覚だ。

 床の感触を確かめるようにしながらゆっくりと歩き、パイプ椅子へ腰を下ろした。

「……やっぱり、変わらないな」

「良くも悪くも、ここは何も変わらないわ」

 そう応えた久遠も、正面のパイプ椅子に座った。

 ずっと前まで見ていた、当たり前の光景だ。正面にはボードゲームをやっていたり、本を読んでいる久遠がいて、右からは相談のノックの音が聞こえたりして、左からは吹奏楽部の演奏が聞こえて――

 そんな当たり前をもう一度経験できるとは、ついこの間までなら考えることすらできなかったし、本来の日常が戻ってきたみたいで嬉しく感じた。

「俺がいない間、何かあった?」

「佐々木先生から頼まれて、会議の準備を手伝ったくらいね」

「そうか。何か言ってた?」

「西ヶ谷についてかしら? なぜ休んでいるのか、不思議に思ったようではあったけど」

 特に気に留めているわけではない、か。

「……さて」

 会話が一区切りついたところで、久遠は持ってきた通学用のバッグから、プリントを数枚と教科書、ペンケースを取り出した。

「ええ……、ここでも勉強するのかよ……」

「当然でしょう? 元から遅れている頭がさらに遅れているのだから、部長としても問題視せざるを得ないわ」

「こういう時くらい、ゆっくりさせてくれよ……」

「ついさっきまでグータラしていたじゃない。ほら、この教科書見ていいから。このプリントを埋めなさい」

 そういうと、久遠は鞄から薄茶色のブックカバーが掛けられた小説を取り出した。

 プリントにひたすら並ぶアルファベット。よりによって、一番苦手な英語かよ……

 さらにゲンナリした。英語は暗記科目の頂点と言ってもいいだろう。なぜなら無数にある単語のスペルと意味を全て暗記する必要があり、それを前提にして長文を読み理解しなければならないからだ。読みと発音すら覚えさせられるリスニングとか、もう日本人の解く問題じゃないとすら思っている。

 プリントは記述式の模擬問題だった。今日の二年生普通科は模試の予定を繰り上げてやっているというから、おそらくそれだろう。

 センター試験はマーク式なんだから、模試もマークにしてくれよ。ちゃんと解く力が身につかないとか言われたが、元々ないやる気がさらになくなっちゃうだろ。もうやめて! 西ヶ谷 一樹のやる気はもうゼロよ!

 嫌々ながら問題に取り掛かり始めたことを確認したのか、久遠が小説のページをめくる音が聞こえた。


 上空で突き抜けるような蒼穹に染まるような黄昏たそがれが姿を現し始めている頃、俺は学校を後にし、すぐ隣を歩く久遠と共に帰途についているところだった。

 三時を過ぎたばかりだから、同じように帰宅している高校生はいない。もう三十分もすれば、このかるがもロードは帰宅部の生徒で溢れるだろう。そういう光景を見慣れているだけに、人通りの少ない今は知らない道にも感じられた。

「どうだったかしら? 久しぶりの学校は?」

「なんだか落ち着かなかったな。学校だけど学校じゃない、みたいで」

 平日の通常授業日だというのに、午後から登校してきたし、場所が教室ではないし、私服で来たし……

 一日中、久遠以外の誰とも接することがなかったというのも大きいだろう。

 しかし、それが苦痛だとは全く思わなかった。むしろ周囲からの視線がなかったから、気をつかう必要もいじめに怯える必要もなく、気楽に過ごすことができたくらいだ。

「そう。気持ち良さそうに寝ていたものね……」

「うっ……」

 俺はこれでもデリケートなんだからな――と言い返したいところではあったが、模試のプリントを埋めている最中の記憶が途中すっぽり抜け落ちているので、意識が飛んでいた事実には何も言えない。

 その結果といえば、二百点満点中の――二十五点。パッと見ただけでも空欄の方が多いし、スペルミスは頻発しているし、日本語訳には意味不明なことを書いてあるし……と採点する方が大変そうだった。

 ただでさえ学年ワースト三位の実力しかないのに、日常的に使う機会のない英語などわかるわけがない。やっぱり日本人は日本語だけ使えればいいのだ。別に留学する予定もする気もないし、外国人が来たら通訳でも連れてくればいい。餅は餅屋、その道の専門家に任せればいいのだ。何も国民全員が英語を覚える必要性は全くない。

 以上、自分の成績を正当化するための言い訳でした。

「あ、ちょっと寄ってもいいか?」

 県道との交差点の手前で、角にあるコンビニを指差した。

「ええ、別にいいけど……」

 特に必要な物があるわけではないが、外出に慣れてきたせいフラッと入りたくなったのだ。

 ここは学校と駅の中間地点で、どこにも寄り道をすることなくたどり着ける。だから食堂の争いに参加したくない生徒が昼食を買ってから登校したり、帰りに立ち寄って漫画を立ち読みしたり……と南城高校の生徒なら誰もが利用しているといっても過言ではない、と言えるほど校内では有名な店舗だ。コンビニ側もわかっているのか、ノートやシャープペンの類が多目に並べてあったりする。

「ん? 入らないのか?」

 先に出て行った客が開けたドアに手を掛けながら振り返ると、久遠は少し離れた所で足をとめていた。

「……あまり、お金を使いたくはないから」

「外は寒くないか? まあ、入らなきゃいけないっていうものでもないけど」

 久遠はとても貧乏だ。だから、つい何かを買ってしまうから、あるいは買わなければ失礼だと思っているから、安易に入りたくはないのだろう。俺なんか二時間くらい立ち読みした上、何も買わずに出て行ったことすらあるのに。

 ピロリン♪

 ドアを開けると聞こえる、独特の音。久しぶりのコンビニだ。久遠を待たせているから、あまり長居できない。

 とりあえず、漫画コーナーでいつも読んでいる雑誌を手に取った。お菓子は特に欲しい物がなく、見るだけ見てスルー。飲み物を見ると新製品の炭酸ジュースに興味が湧いたが、値段が張るので今日はやめておいた。

「いらっしゃいませー」

 カウンターに雑誌を置き、財布を取り出そうとポケットに左手を突っ込む。――そのわずかな時間でもついつい目がいってしまうのが、横のおでんや揚げ物の類だ。

 スーパーあたりで冷凍の素材を買い、家の電子レンジでチンすれば遥かに安上がりだと言うのに、そんな屁理屈などあっという間に吹き飛ぶくらいの魅力でレジに並んだ客を誘惑してくる。前の人が「ポテトください」と言えば、それにつられて自分も言いそうに……いや、言ってしまう追加効果まであるのだ。

 そんなコンビニのアイドルに誘惑された俺には、もう我慢など頭になかった。

 おでんは容器がかさばるから、チキンにしようかな。いや待てよ、最近は肉まんを食べていない。そうだ、肉まんにしよう。

「あ、肉まんをひと……」

 と、注文しようとしてチラリと店の外を見た。

 久遠が両手に息を吹きかけている。我慢出来ないほどの寒さではないが、パーカーしか着ていないから冷えるだろう。

「肉まん、ですか?」

「ああ、すいません。肉まんを一つください」

 店員の言葉に視線を戻し、ちょっと考えてから言い直した。

 ピロリン♪

 雑誌の入った白い袋を左手に、そして右手には包装紙で包まれた肉まんを持って店の外に出る。湯気の立っているそれは、持ち続けていれば火傷するのではないかと思えるくらいホカホカだった。

「お待たせ」

「……早かったわね」

「コンビニなんて長居するものでもないだろ」

 立ち読みするなら別だけど。

 袋を左腕に下げ、空けた両手で肉まんの包装紙を開いた。むわっと濃い湯気が空中に消えていき、遅れて独特の匂いが漂ってくる。

 包装紙を使い、直接触れないよう注意しながら肉まんを二つに分けると、

「はい」

 片方を久遠に差し出した。

「……え?」

「半分、あげるよ」

 ほら、早く取って――と肉まんをクイッと上下に動かしてみせる。

 一人で食べるのもな、とレジで思ったからだ。他人には物をあげたりするのは、自分のお金を無駄にしているようで嫌なのだが、久遠に対してはそういった抵抗を全く感じない。以前プレゼントした、ヘアピンに然り……

 突然出された肉まんに戸惑っていた久遠だったが、やがて、

「……ありがと」

 そう小さく答えて手を伸ばし、半分の肉まんを受け取った。

 県道に掛かる歩道橋を渡り、公園の隣の道を二人並んで歩いていく。バスで帰る時に通る、いつもと変わらぬルートだ。今年に入ってからは、この道を歩くことが多くなった気がする。

 並んで歩く久遠は、肉まんを両手で大事そうに持ちついばむよう食べていた。別におかしな食べ方ではないのだが、こういう女の子っぽい仕草を見ていると意図せず笑いがこみ上げてきてしまう。ギャップと言うやつだろうか。

「……ねえ、西ヶ谷」

「ん?」

 最後の一口を飲み込んだ後、話しかけてきた久遠。

 少しうつむいていただけだったが、俺には何かを決意して話しかけてきたように思えた。

「……気持ちの良くない話を、してもいいかしら……?」

 搾り出すような声だ。

「いつかは、いつかは……それが、今しかないと思ったの」

「……何の話だ?」

「……お兄さんの話」

 俺の兄――西ヶ谷 雄太の話、か。

 もう亡くなってから、一年を迎えようとしている。俺の中では気持ちの整理はついたし、気をつかってもらうほどの話題でもなかった。そういえば、年を明けたら一回忌もやらなければならない。

「俺は別にいいよ」

 その言葉に、久遠は一度深呼吸をした。

「……西ヶ谷のお兄さんは――先輩は、私を守ろうとして犠牲になったの」

「久遠を守ろうとして?」

 雑務部という、いじめをする者へ制裁をするための部活。

 それゆえに反感を買い、自分がいじめのターゲットになり、耐え切れぬほどの集中砲火を受けた末に体育館から投身自殺。

 それが久遠から聞いた、兄の最期だったが……

「……先輩は、私の代わりにいじめられたのよ」

「どういうことだ? 詳しく聞かせてくれ。……いや、無理にとは言わないけど」

 夏の旅行で過去を問い詰めたあまり、久遠がトイレに逃げ込んでしまったことを思い出す。言いたくないことまで言って欲しくはない。

「……あれも、今くらいの季節だったわ。西ヶ谷と同じように、私もいじめられていたの」

「久遠が、いじめられていたのか……」

「ええ。過激なものではなかったけどそれが続いて、先輩に相談したのよ」

 先輩――西ヶ谷の兄――はそれを聞くと、私のことを気づかい、すぐに動いてくれたわ。いじめたクラスメートを制裁したりしてね。

「部員のいじめに対処するのは、規定違反じゃないのか?」

「もちろん違反よ。でも、本当の問題はそこではなかった」

 久遠は顔を上げた。

「先輩の行動によって私へのいじめがなくなり、……代わりに先輩へのいじめが始まった」

「学年が二つも違うのに、か?」

「いいえ。先輩をいじめたのは、同学年の三年生よ。おそらく所属部活の中で、私と先輩に関するやりとりがあったのでしょうね」

 ターゲットが移り、兄はいじめられた。自分を助けてくれる人などいなかったのか、一人で背負い込み他人に相談することすらなかったのか……。そのまま耐え切れず、苦しみから解放されるために身を投げた――

 久遠のいじめに対処し学校側から問題視された直後ゆえ、自分で反撃することも躊躇われたのだろう。

「……私は知らなかったの、先輩がいじめられていたのを。……私のいじめを先輩は気づいてくれたのに、私は気づいてあげられなかった」

「そこは……気にするなっていったらアレだけど。昔から他人を頼りたがらないからさ」

 できるだけトーンを上げて、慰めるようにそう言った。

 兄だって、久遠を恨んではいないだろう。むしろ自分の守った人間が、こうして元気にしているのを喜んでいるかもしれない。

 しかし……兄の自殺にはそんな裏があったのか。

 ここまで話してくれなかったことに、憤りは感じなかった。久遠は久遠なりに伝えるタイミングをうかがっていたのだろうし、自分だけが事実を知っているという優越感に浸って満足するような小さな人間ではない。

 駅前のホテルの直下、高架をすぐ目の前に臨む信号で足がとまる。

「……本当は、もっと早く伝えるべきだったわ。……だけど、もし言ってしまったら、西ヶ谷が部を出て行ってしまう気がしたの」

「俺が?」

「実の兄が亡くなった理由が、部活の性質によるものだった。……そうだとわかったら、普通はその部活動にいたいとは思わないでしょう? 先輩の様子を、誰よりも知っているのだから」

 信号が変わり、赤から青になった。

 だが、久遠はうつむいたまま動こうとしない。

「……私ね、西ヶ谷が初めて部室に来た時、心のどこかで喜んでいたの。やっと孤独から解放される、って」

「喜んで、いた?」

「……実際には出て行けなんて言ったくせにね。……笑ってもらっても構わないわ」

「……」

 笑う気などさらさらなかったが、代わりに掛ける言葉も見つからなかった。安易には肯定も否定もできなかったからだ。

「西ヶ谷と離れたくない。だけど、真実は伝えなければならない。……とても、悩んだの」

 親のことを思い出しただけで情緒不安定になる自分の経験から、きっと兄のことを伝えたら俺もそうなるだろうと久遠は思っていたのだろう。そして、もう二度と孤独にはなりたくない――とも。

 いずれ迫られる選択の葛藤に苦しんでいたのだ。

 何時いつ如何いかなる時でも正確な判断を下し、自らの感情を抑え込み、やるべきことを成し遂げる。――そんな完璧だと思っていた久遠も「一人の人間」だったことを、改めて思い知らされた。

 久遠ですら、感情に流される時がある。

 それが、変なことだとは思わなかった。流された原因が、孤独になりたくないという人間として基本的な欲求であり、求めていた人間が自分であることに嬉しさすら感じたくらいだ。

「久遠……」

「……雰囲気を、悪くしてしまったわね」

 早く帰らないと。もう下校は始まっていると思うから。

 再び青になった歩行者用信号を見上げ、久遠は横断歩道へと踏み出した。何かを振り切るように、大股で。

 俺はその背中を追うしかなかった。百万の言葉を投げかけても、久遠は自分を責め続けるだけだと思ったからだ。

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