9-9.助けられたのは西ヶ谷
久遠を教師とした家庭学習――とゲーム――を挟んだ二日後は、秋晴れの日曜日だった。土日という感じが薄れているのは、ずっと部屋に引きこもっていたので曜日感覚を失っていたからだろう。ニートは週末が来る度にこんな感覚になるのだろうか?
そして今、俺はよく使う路線のバスの座席で揺られていた。
「このバスはこっちの道を通るのね」
「久遠の乗ってる路線よりも、病院の分だけ遠回りする感じかな。もっとも俺にとっては、これが普通なんだけどね」
入り口からステップを上がり後方へ入ったところにある、ベンチ型二人掛けの椅子。通路側に当たる隣には、白く薄手のコートと淡いグレーのロングスカート姿という、珍しい服装をした久遠がヘアピンの角度を気にしながら座っている。
午後一時を回った頃、久遠が訪ねてきた。静清ホームの人から頂いたらしい私服を纏った久遠は、買い物に付き合って欲しいという。俺は断り切れず――断る理由もなく――、中身が貧しい財布とバッテリーが心配なスマホだけを持って家を飛び出したのである。玄関から外に出た瞬間に肌寒く感じたから、今更ながら上着の一枚くらい羽織ってくればよかったと後悔していた。
「で、何で俺を連れ出したんだよ?」
小学生じゃないんだから、買い物くらい一人で行けるだろう。
「理数科で用意しろって言われたのよ。え、えっと……ゆーしーしーめもりーずっていうの?」
「どこの缶コーヒーだよ。USBメモリーな」
なるほど。
うちの高校は電子化を積極的に進めているから、レポートなどをワードなりパワーポイントなりで作成し、データとして提出するのだろう。その記録、提出媒体として、USBメモリーを用意するように指示された、と。
そして久遠は電子機器に疎い。このご時勢でよく生きていけるなってくらい疎い。自分では何を買ったらいいのかわからないから、俺を連れてきたということか。
「それで、そのUSBメモリーって何なの?」
「パソコンのデータを保存できるやつだな」
「パソコンのデータって、どんなデータ?」
「どんなデータでも。例えば画像とか動画とか、ワードで書いたレポートとか」
「わーど? わーどって何?」
「わ、ワードは……えーと……」
……などとUSBメモリーから発展した質問攻めに答えている間に、バスは街中へと着いた。
東京や名古屋といった大都市が近くにあるのと、西部にある浜松市の方が人口も規模も大きいせいで、「なんちゃって政令指定都市」「とりあえず県庁所在地」とまで言われている静岡市も、駅近くの中心街はそれなりに都市としての体面を維持している。高層ではないがオフィスビルが立っているし、車もけっこう走っているし。
……うーん、この考えがまさに田舎者か。
『ありがとうございました』
バスのドアから身を乗り出すと、サッと冷たい空気に包み込まれた。
駅前の「一つ手前」のバス停で降りた俺たちが向かった先は、「SANOVA」という名称で知られている私鉄の駅ビルだ。九階建てで映画館まで完備されているここには多くの店舗が入っており、買い物と言えばまずこの場所を思い浮かべる。チェーンの家電量販店もあるから、USBメモリーも選んで買うことができるだろう。
バスを降りて右に歩き、ブティックのある角を左へ。細い道にある横断歩道を渡れば、五分と経たずに到着だ。
「後で書店にも寄りたいのだけど、いいかしら?」
「別にいいよ」
「西ヶ谷も、何か買いたい物はある?」
「そうだな……書店でいいのがあったら買っていこうかな」
「漫画ばかり読んでないで、たまには普通の文庫本でも読んだらどう?」
「余計なお世話だ。てか、漫画を買う前提で話を進めるなよ……」
そんな会話を交わしながら、エレベーターで四階へとたどり着いた。
店舗は右に曲がってすぐの所だ。フロアの四分の一を占める広大なスペースに、ありとあらゆる家電製品が並べられている。エリアに入って最初の場所にはパソコンやスマホ、その次にはデジカメ、ビデオカメラ、プリンター……
幾度となく来ているが、様々な製品があるのと配置がちょくちょく入れ替わるのとで、パッと目当ての物を探し当てられないのが欠点であった。そして今日も、USBメモリーの場所を探さなくてはならない。
「えーと、周辺機器のコーナーにあると思うけど……」
右に左に視線を動かし、商品棚に並べられている物を確認しながら歩き進んでいった。
久遠は後ろをぴったりとくっついてくる。自分より少し低いだけの身長を考えなければ、迷子になるまいと親の後を必死についてくる子供みたいだ。買い物に慣れていないのか、場所に慣れていないのか……
あまり見られない久遠の様子に、緊張感を覚えた。
「USBメモリー、USBメモリー……」
「あ、これのこと?」
周辺機器、の表示があるコーナー。ルーターやLANケーブルまである商品棚を上下左右へ見回していると、久遠が中段を指差した。
手のひらにすっぽりと収まるくらいの大きさをした平たい直方体が、「軽量!」「高速!」「高耐久!」の謳い文句のプリントされたパッケージに収められている。キャップ付きや端子の出し入れ可能なタイプ、白や黒といった色違い、そんな数種類のUSBメモリーが並んでいた。
「それで、どれを買えばいいの?」
どれでも好きなのでいいと思うよ。
……と言いたいところだが、それで久遠は納得しないだろう。そんな気がしたので、軽く説明することにした。
「この右上の数字は、データの入る量。この金色の部分をパソコンに挿して通信するんだけど、これは中に収められるタイプで、こっちはキャップをしておくタイプ。色は白がいいかもしれない、名前とか書いておけるから」
「データの入る量は、やっぱり多い方がいいのかしら?」
「何を入れるかわからないけど、学校で使うのなら一番少ないやつでも大丈夫だと思う。俺は日常生活でも使ってるけど、特に困ったこともないし」
「そう。この……挿す場所? のタイプはどれがいいの?」
「そこは好みによるかな。強いて言えば、中に収められるタイプはコンパクトで、キャップのあるタイプは端子――挿す場所が汚れにくい、ってとこかな」
「高速って書いてあるけど、体感できるほど変わるのかしら?」
「あんまり変わらない。そもそも対応してないパソコンもあるし」
大した説明ではなかったが、久遠は商品と俺の顔へ視線を移しながら、ふんふんと真剣に聞いている。
いつもとは完全に立場が逆転していた。勉強でも部活でも教えられる側の俺が教え、教える側だった久遠が教えられている。教導する立場に、それも久遠という秀才が相手というのは、上位に立てていると誇らしい一方、上手く伝わっているのかと不安にもなった。内容だって、相手が久遠でなければ教えられる立場になるようなものだし。
久遠には悪いが、電子機器が弱点であることを知っているのは俺の小さな自慢だ。おそらく久遠は、周囲から何でも知っていて何でもできる孤高の存在なのだろう。そんな意外な一面と言うか、誰も知らないことを俺だけが知っているのは、久遠を独占しているような気になれた。
数分くらい経った後、
「……これにするわ。どうかしら?」
久遠が手を伸ばした。淡い青地の背景に「小型軽量!」などと謳い文句のあるパッケージに、キャップのついたホワイトカラーのシンプルなUSBメモリーが縦に入っているやつだ。
「うん、いいと思う。あまり高くないし」
「それじゃあ、お会計してくるわね。あ、西ヶ谷は何か買う物とかあるの?」
そうだな……
時計をぶっ壊してしまったが、スマホで代用できるから必要ない。パソコン用のマウスもまだちゃんと動いている。スマホは……新しい機種を見たいような気もしたが、買い換える頃には新モデルが出ているだろう。
「今はないな。いいよ、会計してきて。俺は出口で待ってるから」
「わかったわ。すぐに済ませてくるから」
久遠はそういうと、足早に左奥にあるカウンターへと向かっていった。
やっぱり久遠は礼儀正しいな。自分の買い物が目的でここへ来たのに、さりげなく俺に買う物はないか確認したり、待たせないようにしたりと気をつかえるんだから。素性を知らなければ、裕福な家庭のお嬢様に見えてもおかしくない。
自分が誇らしく思えた。
成績は優秀で運動神経も抜群。社会的なマナーと他人への気づかいを持ち、大人の女性に勝るとも劣らない振る舞いができる。それゆえに嫉妬までされるような文武両道の美少女、久遠 葵。
俺は今、そんな女子とまるでデートのように同時行動をしているのだ。勉強も運動もできず、根暗な性格でいつも一人ぼっち、しかも少し前まで部屋に引きこもっていた自分。そんな自分が、恋人の一人や二人、いてもおかしくないような娘と一緒に……
「……西ヶ谷?」
我に帰ると、久遠が不思議そうな目でこちらを見ていた。右手には店舗のロゴが入った白い袋を下げている。レジが混んでいたわけでもなかったから、会計を済ませたのだろう。
「あ、ごめん」
「西ヶ谷って、たまに上の空になるわね。変な妄想でもしているの?」
「ち、違うって! 久しぶりの外出だから、ボーっとしちゃうんだよ」
しどろもどろになりながら誤魔化した。こんなうそは通じないとわかっていたが、間違っても久遠で妄想していましたなどと答えるわけにはいかない。
「……理由になっていないのだけど。まあ、いいわ」
それ以上は追求したりせず、そのまま俺から視線を外した久遠。なんとかやりすごしたようだ。ホッと胸をなで下ろした。
「書店へ行きましょう。五階だったかしら?」
「うん。エスカレーターで上がればいいか」
俺に確認を取ると、久遠は反対側にある上りエスカレーターの方へと……
きゅっ。
――えっ?
……ごく自然な動作で俺の左手を取り、軽く握り、先導するように歩き出した。たまたま手が当たった、のではない。明らかに意思を伴う行動だった。
突然の予期せぬ出来事に、前を行く久遠と歩幅が合わなくなりよろけそうになる。
俺をくいっくいっ、と引っ張る白くて小さな手はとても柔らかく、でもどこか頼りがいがあり、女の子の温もりを感じられた。女子と手をつないだ経験など、過去にあるわけがない。緊張のせいで急に脈拍が速くなり、息が浅くなった。
少し歩いても、わずかに近くなっただけの久遠との距離を上手く保てず、エスカレーターの乗り口で思わず転びそうになる。
「とっ……ととっ……」
「どうしたの? 大丈夫?」
「あ、いや……。急に手をつながれたものだから……」
おそらく、こうして久遠に向けている顔は恥ずかしさで真っ赤だろうな、と頭をかきながら素直に答えた。
「そう……。もしかして、嫌だった?」
「そ、そんなことないよ。いきなりだから緊張しただけ。気にしないで」
「それなら、いいけど」
少しうつむいた久遠。嫌がられたと勘違いされてしまったのだろうか。
何しろ小学校では女子から逃げられ、中学生の頃には隣になった女子に「キモいから」と机を離されたくらいの俺だ。異性と身体的に接触するのは抵抗感というか、慣れないものがあった。何か裏があるのではないかと邪推してしまう。久遠に限って、そんなことはないのだが。
自分に対して、気兼ねなく接してくれるのはとても嬉しく感じた。普通の人間として見てもらえている、と。
エスカレーターは上がっていき、書店の五階の天井が見えてきた。
「……こっちかしら?」
「もう一つ向こうじゃないのか?」
幾何学模様の床に新緑の壁。クリーム色の天井にはゆっくりと回るシーリングファン。それらによって作り出された空間に、いくつもの木目調の本棚が並んでいる。
落ち着いた曲調の音楽が静かに流れる店内は、森の中を連想させた。大型商業施設の一角とはいえ、ここにくれば大概の本は手に入る。ノーベル文学賞や芥川賞で話題になった小説、毎号の付録をプラモデルのように組み立てていく雑誌、人気の漫画、参考書、図鑑等々……
日曜日のせいかやや混雑気味のメインストリートを、久遠は目的の本の置かれている本棚を探し回っていた。その手はまだ握られたままだ。恋人気分だった俺も、ここまで来ると親を引っ張る子供か、あるいは逆に子供を先導する親のように感じてきた。
「あっ」
「ここだな。生物・地球科学、って書いてあるし」
本棚の横にあるプレートを指して見せる。
地学の参考書を無くし、それを探していたと言う。久遠が物を無くすなんて珍しいと思ったから少し掘り下げて聞いてみると、どうやら休み時間に席を立った時に盗まれてしまったようだ。
「しかし、久遠でもいじめみたいなことに遭うんだな」
そんなことを聞いた記憶がなかったし、気の強い久遠であれば遭うこともないだろうと思っていたが……
「よくあるわ。シャープペンを捨てられたり、メモ帳に落書きをされていたり。模試の解答用紙を回収途中で捨てられて、その日の受験科目は全て再試になったこともあったわよ」
「それ、期末テストなんかでやられたら留年じゃないか! 証拠もあるんだし、明らかにいじめだろ!? 担任には言ったのか!?」
「言ってないわ。……言えないのだから」
「言えないって……?」
久遠が足をとめ、握っていた左手を離した。本棚の方を向き、離した手を上へと伸ばす。目的の参考書が見つかったようだ。
「……雑務部は、所属している部員のいじめについては対応することが禁じられている」
手に取った参考書の表紙、裏表紙を確認し、パラパラとページをめくってそれを見つめる。
そこから視線を外すことなく、久遠はそう言った。
「西ヶ谷のいじめに対して、何もできなかったのと同じ理由よ」
「でも、担任に言えば……」
「対処してくれると、できると思う? もしそれで解決するのであれば、私たちは――雑務部はいらないと思わない?」
パタン、と参考書を閉じ、ようやく久遠が俺に視線を移してきた。
「私は別にいいわ。いじめられるのは慣れているし、我慢もできる。彼女たちは私に嫉妬しているから、低俗な行動で貶すことによって満足している――そういう可愛そうな人間なのだと割り切っているから」
「久遠……」
「もちろん、それが許されることだとは思わないわ。でもヘイトの分散、という考え方もあるの。私がいじめを受け入れることによって、誰かがいじめを受けなくて済む。私がいじめを受けなければ、誰かがいじめを受けることになる」
本当に憎くてやっているいじめなど、数えるほどしかない。いじめと呼ばれる行為の大半は、やっている人間のガス抜きのため――
久遠は自らいじめの標的となっているのだ。正確には、自分に降りかかってきた火の粉を払い落とすことなく、むしろ自ら受けることで他人の傘となっていく。自分ならいじめに耐えうる、と。
反論できない。でも相容れないものを感じた。
自分が犠牲になれば、というのは愚行だと思っている。どこかで自分を見ている人が存在し、その人を自分の行動によって知らず知らずのうちに傷つけてしまうからだ。そんな自己犠牲を美徳とするような考え方は久遠らしくない。
そういう俺も、どこかで自己犠牲を肯定するような行動を取っているのだろう。誰も見てはくれない、気づいてくれる人などいない――そういう思考で。
「……ねえ、西ヶ谷」
久遠が参考書を開き、そこへ目を落とした。宇宙のページだ。
「宇宙って、誕生から百五十億年も経つの。地球誕生は四十六億年前。――気の遠くなるようなスケールだと思わない?」
「百億年か。考えることもできないような時間だな」
「もっと言うと、月までの距離は三十八万キロ。太陽までなら、一億五千万キロメートル。はくちょう座のデネブに至っては千四百十一光年――約一( )京三千兆キロメートルという、感覚が麻痺するほどの距離よ」
一京――そんな単位を真面目に聞くとは思わなかった。小学生が覚えたての知識を披露して優越感に浸るための桁だ。数字という概念をおおよそ理解し、日常生活で多量の数値と接してもピンとこない。
久遠は参考書を静かに閉じると、再び視線を上げた。
「こうすると、人間はちっぽけな生物だと思わないかしら? 宇宙から見れば塵にも等しい小さな星で生きているのに、その中で助け合うどころか互いを貶すことに必死なのよ?」
「同じ人間だってのに、潰しあってるのは滑稽ってことか?」
「そんな感じね。私たちだって、ミジンコの喧嘩を気にしたりしないでしょう?」
人間は利益を目指して行動を起こす。不快感を覚えた者を虐げることによって、優越感や快楽を味わうことが利益となり、動機の成立するのがいじめなのだろう。
だがそれは、社会的欲求を一時的に満たすものでしかない。人間という生物の枠組みの中では、同じ種族を欲求のために自らの手で淘汰していくというあるまじき行為なのだ。
普段から社会という人間のコミュニティ内にいるために気づかないが、こうして大きな視点で考えるとその愚かさに気づかされる。宇宙からは、共存すべき中でどうして争っているのだろうと不思議に見えるだろう。
「まあ、そこに手を出している私たちも小さな存在だということに違いないのだけど」
「確かに。俺たちはちっぽけな存在だよな」
久遠は参考書を右手に下げると、同じように本を探している人の間を抜けて中央の通路へと抜けた。俺もそれを追い、生物と地学の参考書のコーナーから出る。
「西ヶ谷は何か買っていく?」
「そうだな……雑誌でも見ていこうかな」
「漫画だと私に何か言われそうだから?」
「ち、ちげーよ。いつも購読している雑誌があるんだって」
そんなのはうそだ。毎週付録がついてきて、それを組み立てる週間雑誌だって、三週間で放り出したくせに。
二人でレジの方へと歩き出した。雑誌のコーナーが入り口近くのレジ周辺にあるからだ。
日が暮れてしばらく経った頃に、帰りのバスはバス停へとたどり着いた。
『ご乗車、ありがとうございましたー』
ICカードで精算を済ませながら、両開きのドアから歩道へと降りる。プシューという空気の音。他に降車する人がいなかったのか、バスはそのままエンジン音を響かせ走り去っていった。
「あー疲れた」
「座れなかったわね。この路線、本数は多いのだけど」
このバス停を通過するバスにはかなり山奥の方まで行くバスもあり、今日は偶然それに乗ってしまったみたいだ。普段はさほど混まない路線に乗っているので、混み合っている車内で立ち続けるのは想像以上に疲れる。
「それじゃあ、今日はここで解散だな」
「大丈夫? 一人で帰れる?」
「まさか。小学生じゃあるまいし、そんなに遠くないんだから一人で帰れるよ」
まあ家に入る時の方が心配だが。親と鉢合わせになったらどうするか……
「そう……。よかった」
あれ?
少しうつむき小さくため息をついた久遠の姿に、ちょっと疑問を抱いた。冗談で言ったわけではなく、本当に一人で帰れるのか心配したらしい。でも、なぜ?
二人の間に、わずかだが沈黙が下りる。
そして意を決したように久遠は顔を上げ、俺を見つめてきた。
「西ヶ谷。今日は怖くなかった?」
「え?」
意味が分からず、きょとんとする俺。
「家を出てバスに乗って、二つの店舗を巡って、またバスで帰ってくる。……この間に、怖かったり辛かったりすることはなかった?」
「……別に? 誰かに絡まれたわけでもなかったし」
書店のフロアへ向かう時、唐突に手をつながれ、ドキッとした時はあったが。
怖かったり辛いと思った時は全くなかった。むしろどういうシチュエーションでそれらを感じる場合があるのだろうか。
「……あのね」
少し間を置き、久遠が口を開いた。
「……不登校になるほどの深刻ないじめを受けると、中には人間不信になってしまう人がいるの。他人に会うのが怖い、何をされるかわからない、いじめがトラウマになってしまってね」
「もしかして、俺がそうでないか不安だってことか?」
「ええ。今日は人がたくさんいる場所を歩いたでしょう? あれが苦痛になってしまう人もいるのよ。だから西ヶ谷がそうでないか、心配で……」
久遠の声が車道を走る車の走行音にかき消された。
人間不信――おそらく数日前までの俺は、まさにそれだっただろう。誰にも信じてもらえず、誰も信じられない。自分へ向けられている目は責める隙を狙っていて、周囲にいるのは敵、敵、そして敵。味方などどこにもいない、自分は死ぬのを待つだけの孤立無援の状態なのだと。
だが――今は違う。
「大丈夫だったよ」
自信を持って、そう返し切ることができた。
久遠の必死の行動によって、踏み外しかけた道に戻ることができた。信じられる味方がいるのだと考えられるようになったのだ。
今日、人ごみの中で違和感を覚えずに行動できたのは、もしかしたら久遠のエスコートのおかげかもしれない。不安を覚えずに外出するなど当たり前のことかもしれないが、そういう何気ないことにも気を配れる久遠はさすがだと思う。
「そう……」
「心配してくれてたのか。ありがとな」
南北方向の信号が青から黄、赤へ。それに従い、何台もの車がブレーキを掛けて停止する。少しの間の後、東西方向の信号が赤から青へと変わり、商用バンと軽トラックがそれぞれ異なるエンジン音を響かせながら曲がっていく。
久遠はそんな交差点へくるっと振り向くと、
「あ、明日も訪問させてもらうから……」
と言い残し、車の切れた隙を縫って横断歩道を小走りで駆け抜けて行った。
礼を言われて恥ずかしくなった――は考えすぎだろうか。
俺も帰るか、と反対方向にある自宅へと向かうために歩道を歩き出した。
十一月という季節もあり、周囲は薄暗くなっている。一面が濃いオレンジ色に染まり、見事な夕焼けとなっている空。そこへシルエットのごとく走っている灰色の電線。看板に照明、電飾がつき始めている店舗。ヘッドライト、テールライトを点灯させて走っている車。そして――それらと共に歩く人々。
そういった外の世界に触れるのは久しぶりの経験だったが、やはり怖くも辛くもなかった。
もしかしたら、久遠は意図的に俺を連れ出したのではないだろうか? 怖いだろう、辛いだろうと考えてばかりでは先へ進めない。外の雰囲気に触れさせ、成功を体験させることで恐怖感を取り除く。そう考えていたのかもしれない。……いや、きっとそうだ。
他人の知らない――俺しか知らない久遠は、とても友達思いだった。
そんな久遠に、明日も会える。そう考えると、明日が恋しくなってきた。まだ別れてから、数分も経っていないのに。
日が暮れたおかげで、より冷え込んだ空気に身震いをしながら自宅へと着いた。
ガチャ……
手応えのある玄関のドアを引き開け、いくつかの靴が並んでいるところへと自分も靴を脱ぐ。入って右側には胸くらいの高さがある靴箱と、その上に虫除けスプレーや家族写真といった小物。左には昔使っていたボロボロの竹刀や父親のゴルフバッグ。特に見栄えもしない、狭苦しい玄関だ。
ゆっくりとドアが閉まるのを音で確認してから、右の奥にある自分の部屋へ戻ろうとした。
「……」
意図したわけではなく、いつもの癖みたいなものだ。
何気なく視線を移した居間。そこにいた炊事をする母親と、食卓で新聞を見ていた父親とちょうど目が合ってしまった。
「……」
「……」
そのままじっと互いを見つめ合うはめにしまう。
無視していけるような空気でもなく、かといって下手に反応するわけにもいかず、心中の大混乱とは裏腹にその場で棒立ちになってしまった。
『以上、現場よりお伝えしました』
『怖いですねー。近隣住民の方々、十分にご注意ください』
新しくない液晶テレビの音声と、エアコンの送風音だけが部屋を満たす。
そんなしばらく――実際は十秒も経っていないと思うが――の沈黙の後、
「……夕飯、食べる?」
母親が口を開き、
「……食べる」
と俺も返事をした。
そこでようやく緊張感が解かれたのだろう。父親は再び新聞へと目を落とし、母親はカチャカチャと皿を出しにかかり、俺は椅子を引いてテーブルについた。
照明で照らされたテーブルに並ぶ、おかずの盛り付けられた皿や調味料の小瓶。漂ってくる焼けた肉の香ばしい香り。カチャカチャという皿の音……
三週間ほど前までの日常が、不完全ながら戻ってきた。問いただされるかもしれない、説教されるかもしれないと思っていたが、そんなことはないようだ。一番の不安が解消され、ホッと胸をなで下ろした。
コトッ。
ご飯と味噌汁、ハンバーグの盛り付けられた大き目の皿が運ばれてきた。




