9-7.助けられたのは西ヶ谷
夢を見た。
まだ小学生だった頃、席替えで隣になった女子から気持ち悪がられ、半個分ほど机の間隔を空けられた嫌な夢――記憶だ。教師が無駄に頭を突っ込んできたこともあり、それから卒業するまでの俺は、女子からは避けられ男子からも「うわっ、イツ菌が感染った!」と他人を病原菌扱いする幼稚ないじめに遭うこととなった。
友達らしい友達と言うか、信じられる仲間がいなくなったのもその時代からだろう。
「はっ……!」
あまりの辛さに学校の屋上から飛び降りようとしたところで、現実の世界へと意識が舞い戻ってきた。
起き上がって周りを見渡すと、すでに夜が更けていて真っ暗だ。窓からカーテン越しに、白い電燈の光が漏れてきている。天候が回復したのか雨や風の音は聞こえず、静寂が満ち溢れていた。
今、何時だ? 時計、時計……
「あれ……」
手探りで時計を探したが見つからない。枕元で充電器に挿されているはずのスマホも場所がわからなかった。仕方なく、壁際に手を伸ばして部屋の蛍光灯のスイッチを入れる。ピッと言う電子音と共に、久しぶりにまぶしい白色の光が降り注いだ。
ああ、そうだった。
散らかった部屋を見て思い出す。久遠が訪問してきて、俺がキレて、時計もスマホも投げつけてしまったんだ。部品がバラバラになった時計と、カバーが割れただけで済んだスマホが、同じように投げつけた漫画やファイルと一緒に床へと転がっていた。
せっかく片づけてくれた部屋、結局散らかしてしまったな……
「ん?」
その床に落ちていたのは、見慣れない――二つ折りの携帯電話とピンク色の裁縫箱。
久遠の持ち物だと、考えずともわかった。
蹴り飛ばされた時にポケットから転がり落ちて、そのまま忘れていったのか。
俺は立ち上がり、自分のスマホより一回り小さいガラケーを右手に、プラスチック製の裁縫箱を左手に拾い上げた。針しか入っていないのか、裁縫箱はとても軽い。
学習机の方へ歩きながら、昼間のことを思い出した。
結局、久遠は何のためにこの部屋へと来たのだろうか? いじめに加担しその戦果を確かめにくるようなプライドの高い人間でもなければ、自らの忠告を聞かなかった俺を笑いにくるような、性格の捻じ曲がった人物でもない。
冷静になって考えてみると、確証こそなかれ、俺の考えはどうも腑に落ちない。
となればやはり……好きな人ができたのだろうか。俺の存在が邪魔になるような男子が。
「……」
そうだ。携帯だ。
学習机に裁縫箱を置いた俺は、ガラケーは置かずにパチッと開いた。デフォルトのまま変えられていない待ち受けに、午後十一時を指し示しているデジタルの時計表示。
もし男がいるとすれば、携帯で連絡を取り合っているはず。電子機器に疎い久遠は履歴が消せることを知らないだろうし、そもそもこうして見られるものではないと思っているだろう。実際、簡単に盗み見れるようなものではないし。
特に暗証番号も設定されていない携帯を操作し、メインメニューからメールを開いた。高校生になってからガラケーなど触ってもいなかったが、基本的な操作方法は今でも身体が覚えている。
受信ボックスを開いてみた。一番新しいのは、半月ほど前のメール。
『朝に? わかったよ……』
鳴海の件で呼び出された時に送った、俺の返事メールだった。少し遡ってみたが、ほとんどは俺や理数科の担任、神崎先輩や静清ホームからのもの。怪しいメールは何一つない。
男から教えられ、削除されてしまったのだろうか……
彼女のしたたかさに舌打ちしつつ、諦め切れない俺は送信ボックスの方ものぞいてみた。
「なんだ、これ?」
開いた瞬間に目に入ったのは、今日の日付で送られていたメール。時間は午後三時過ぎ、送信先は――
「『西ヶ谷 一樹』……」
俺へのメールだった。しかし身に覚えがない。おそらく受信した時は寝ていて、未だに読んでいないからだと思うが……
『話したいことがあるから、訪問しても良いかしら?
私の選んだ言葉は、正しくなかったと思う。ごめんなさい。
西ヶ谷の気の済むようにしてもらえば、私はそれで構わないわ』
最後の一文が、頭の中に響いた。
――気の済むようにしてもらえば、私はそれで構わない――
「まさか……そんな……」
その意味を読み取った時、俺はガーンと後頭部を思い切り殴られたようなショックを受けた。
久遠は……久遠はわざと受けとめたのか……
いじめという理不尽へ対抗する雑務部、その部長たる彼女のことだ。正確無比の針で俺の動きを完全に封じ込め、右に出る者は存在しないと言い切れる口論の強さで押し切れる実力を持っている。例え間違っていようとも、自分の意見で相手をねじ伏せることができるのだ。
ところが実際は違った。怒り狂う俺に対して反撃をするどころか、防御すらとらなかったのだ。
ビンタを喰らい、右頬を殴られ、腹から蹴り飛ばされ、マシンガンのように物を投げられ……。普通の人間であれば逆ギレしてもおかしくないような状況で、久遠は何もしなかった。腫れやあざを作りながら、口から血を流しながら、だ。
そしてその理由――そこまでして、反撃や防御を躊躇った理由とは?
「なんでそんなことを……」
おそらく、あらゆる攻撃を受け止めることで、溜まった俺の鬱憤を晴らそうとしたのだろう。サンドバッグのように殴られ、蹴られることで、俺のストレスを発散させることができる。そう考え、あえて反撃や防御をしなかったのだろう。
なぜそんな行動を取ったんだよ……
なぜ傷を負い血を流してまで、そんな役割を果たしたんだよ……
俺は携帯を待ちうけ画面に戻してから折りたたみ、ふらふらとベッドに戻った。そのまま倒れこむようにして横になる。
激しい後悔の念と自己嫌悪が自分を襲ってきた。
男なんかいなかったんだ。ましてや、いじめに加担したわけでもない。
久遠に対する不信感が作り上げた、自己陶酔と言っても過言ではないレベルの妄想だ。少なくとも彼女は、真っ直ぐに俺のことを見つめてくれていた。そして俺はそれを、うそだ欺瞞工作だと頑なに拒んだ。
両腕で頭を抱えた。
俺はこうして、友達を失っていくんだ。不器用でも自分を気に掛けてくれている人を拒絶し、自分は悪くない、相手が陥れようとしているんだと妄想を広げ、自滅していくんだ。
布団を被ったが、その日は眠れなかった。やってはいけないことをし、取り返しのつかないミスを犯し、もう一生手に入らないような友達をむざむざ失ったという後悔と、その代償として明日から始まるであろう孤独の生活への恐怖で――
ほとんど眠れないまま、次の日がやってきた。
外は朝から明るい。警報も解除され、昨日の嵐はなんだったのかと思うほど晴れていた。空を見上げたわけではなかったが、カーテンが光っているのかと思うくらいの明るさが部屋へと入ってきていたからだ。
そんな清々しい外界とは対照的に、俺はかつてないほどの無気力感に襲われていた。睡眠不足のせいもあるのだが、ゲームをする気力も漫画を読み漁る気力も起きない。存在を忘れかけているパソコンで動画を見流すことはおろか、眠る気力すら湧いてこなかった。
起き上がって、すぐ横になって、気づいたら起き上がって……。自分でも何がしたいのか、はたまた何をしているのかわからない。
そんなことをしている間に、時間はどんどん過ぎていった。
「……あ」
何回目かもわからない起き上がった時、久遠のガラケーと裁縫箱の存在を思い出した。
返さなくちゃ。
しかし、俺の思考はそこで停止した。なぜなら返す手段もなければ、それを考える気力もなかったからだ。
返したい――
返せない――
その二つの単語だけがぐるぐるを頭の中を周回し、追いかけっこをしているだけ。何かするわけでもなく、そのままぽけーっとしていた。
と、その時……
トン……トン……トン……
うちの玄関は二階にあるのだが、そこへの階段を上る足音が聞こえた。
コンコンコン。
カチャ……、キィ……
ノックの音と、ドアが開く音。
最初は両親どちらかだと思った。だが父親はノックなどしないし、母親は帰るたびに「ただいまー」と玄関で言う。十年以上は経験している親の帰宅パターン、見分けられないはずなどない。
泥棒? ノックをする泥棒なんて、初めて聞いたぞ?
トッ……トッ……トッ……
足音が近づいてきた。真っ直ぐにこの部屋を目指している。玄関から近いこの部屋から品定めしようってのか。
「いや、もしかして……?」
コンコンコン。
と乾いたノックの音が再び聞こえた。今度はすぐ目の前の――俺の部屋のドアを軽く叩いている。
この軽やかなノックの音と間隔を、俺は知っている。聞き慣れている。
脈拍が速くなった。息が浅くなり、ごくりと唾を飲み込む。期待と緊張感の両方が心情を支配し、無気力さはどこかへと消え去っていた。身体にも力が戻ってくる。
キィ……
数秒ほど間を空け、そのドアは開いた。ゆっくりと、丁寧に、こちらの反応を確かめるようにして。
開ききった時、自分の推測は正しかったと証明された。
「久……遠……」
「失礼します」
制服に身を包んだ、久遠の姿がそこにあった。通学用の鞄を左手に下げ無表情で真っ直ぐな視線をこちらに向けると、落ち着いて一礼し、一言告げてから踏み入れてくる。ドアが静かに閉じられるまでの一連の動作は、面接試験ならば満点合格は間違いなしだと言い切れるほど完璧だった。
髪もきっちり整えられ、優等生と言われるだけある品格を備えている彼女。
しかし一方で、左頬の腫れと右頬のあざ。額にも短く走る切り傷のかさぶた。先端だけ見えているブラウスの袖には、どす黒くなった血痕……。それぞれが昨日のやりとりを思い出させるかのように痛々しく残っている。
久遠は横に鞄を置き、部屋の真ん中あたりへと正座した。ちょうど俺のいるベッドの前だ。
「あ、あのさ……」
「こっちに来て」
何か言わなければ。
そう焦る俺を彼女は目で制し、自身の前へ来るように促してきた。
お、怒ってる……
俺にはそういう風に読み取れた。表情こそ変わらない久遠だが、おおまかな喜怒哀楽は行動でわかる。そしてピンと張り詰めた空気を作り、静かに指示を出す彼女からは、俺に対する怒りらしきものが感じられた。
逆らうことなどできるはずもない俺は、声を奪われたままベッドから下りる。
「座りなさい」
言われるがまま、久遠のすぐ前に正座で座った。フローリングの床は冷たく硬かったが、このシチュエーションであぐらを掻けるような度胸などない。
ほんの数十センチ手前で向き合うと、再び彼女は口を開いた。
「お互いに言いたいことがありそうね。私が先に言うか、それとも西ヶ谷から言うか、選んで」
冷たくも鋭くもない声だったが、俺には地獄の審判で掛けられている言葉に感じられた。
「……久遠から、……言ってください」
震える声をようやく搾り出す。緊張のあまり、自然と敬語になっていた。
俺が先に謝ったところで、久遠は情状酌量などするつもりはないだろう。そもそも謝る勇気や適当な言葉がないのも事実だ。
「そう」
彼女は短く答えると、ゆっくりと瞬きをし、やや身を乗り出してきた。
「目をつぶりなさい」
その一言に、俺の心臓が大きく脈を打った。
殴られる。俺が久遠を殴り、蹴ったように、俺もまた久遠に殴られ、蹴られる――
抵抗するつもりも防ぐつもりもなかった。彼女は俺の攻撃を全て受け止めたのだ。男より女の方が弱いとか、そんな考えではないが、あの華奢な身体で、腫れやあざを作り血を流して見せた。
拳でもなんでも、甘んじて受け入れよう。野球部員を一撃で倒せるような久遠の攻撃に耐えられるかどうかわからないが、それは言い訳にならない。
言われた通りに目をつぶり、ギュッと歯を食いしばった。
右の頬か左の頬か――
腹を蹴られるか――
それとも――
「……!」
ふわっ。
その瞬間、クッションよりも柔らかいものが俺の顔を包み込んだ。やや遅れてやってくる、いい香り。優しい温もりが、こめかみから、後頭部から、じわじわと伝わってきた。とても温かい。
「……ごめんなさい」
囁くような、小さくて弱々しい声だった。
「……自分らしく振舞おうとするあまり、見えない悲鳴を無視し続けた。……雑務部の部長として、友達として、私は失格ね」
「……」
ああ……俺は今、久遠に抱きしめられているんだ。
膨らみがようやくわかるほどの小さな胸。そんな目の前にいる女の子の胸が、こんなにも大きく、そして柔らかいものなのだということを初めて知った。トクン……トクン……と心臓の鼓動が、はーっ……はーっ……と呼吸の音が、頭の中まで響いているようによく聞こえる。かすかに漂ってくる女の子特有のいい香りは、俺を優しく包み込み安心を与えているようだった。
伝わってくる温もりに、心の中のわかだまりがとけていく。
「……うっ、……ううっ」
と、同時に目の奥に熱いものを感じとった。我慢する間もないまま、決壊したダムの水のようにまぶたの奥にある眼球を潤していく。それはいつしか、閉じられたまぶたからすらも溢れ、涙となって頬へ、口へ、顎へ――雫となって滴り落ち、少しずつ少しずつズボンを濡らしていった。
俺は泣いているのだ。久遠の優しさと思いやりによって、我慢する必要がなくなり、押さえつけられていたものが解放された。言葉にできない感情が次々と、涙となって頬を伝い、顔を濡らしていく。
「……もう、大丈夫だから。……もう、見放したりしないから」
「うううっ……」
「……たくさん、泣いて。……誰も怒らないし、誰も責めたりしない。こんな目に遭わせた、私を許して……」
久遠の母性溢れる声色が耳をくすぐる。とても愛おしくて、うるおしくて……
ぽんぽん、と軽く後頭部を叩かれ、優しく撫でられた。母親にあやされる赤ちゃんのようだ。それなのに恥ずかしいと感じなかったのは、誰も見ていないからか、久遠であるからか。
しばらくの間、俺はその声と温もりに身を預けた。今まで耐えていた分の反動で、誰かに甘えたいという素直な欲に支配されたからだ。なすがまま欲求に流され、感情を放出することが、これほど気持ちよいとは。
今、この時くらいは、こうしていても、いいだろう――
……どのくらいの時間が経っただろうか。
「……」
「……」
「……西ヶ谷?」
「……もう、大丈夫だ」
久遠の胸から顔を上げ、笑顔を作って見せた。まだ純粋に笑えるほど心に余裕ができたわけではないが、心配してくれた天使を安心させたかったからだ。
守るようにして包んでいた両腕が、名残惜しそうに離れていった。
「制服、濡らしちゃったな。ごめん」
「構わないわ。服は洗えば綺麗になるけれど、心の洗濯は簡単にできないでしょう?」
さりげない久遠の気づかい。ちょっとしたことであっても、自分に対して望んでいた通りに反応してくれるのが嬉しかった。
制服の藍色が涙で濡れ、黒っぽくなってしまったのは申し訳ない。
窓を見ると、カーテンが淡いオレンジ色に光っていた。昨日までは牢獄から見る夕焼けだっが、今なら自分がいる世界の景色として感じられる。一日という時間の中で、絶望の暗闇が希望の蒼穹へと変化を遂げていた。
「あのさ、くお……」
「……」
久遠は自らの行動が間違っていたと認めた。俺も久遠に謝らなくては。
そう思い口を開いたが、それは久遠によって遮られた。人差し指が俺の口を優しく制したからだ。
「言いたいことはわかるわ。でも、お互いに謝り合ったらきりがないでしょう? 今はやるべきことをやる、それを第一に考えなさい」
「やるべきこと?」
意味がよくわからず、キョトンとしながら聞き返した。
「そうね、やるべきことはたくさんあるけれど……」
少し考える素振りを見せた久遠は、また身を乗り出してくると、
すんすん……
と鼻を動かした。
「……まずはお風呂に入ることかしら。けっこう臭うわよ」
「げ、やっぱり?」
最後に入浴したのがいつだったのか忘れるくらい、シャワーも浴びていなかったっけ。まさか久遠に言われるとは思っていなかった。カーッと顔が真っ赤になるくらい恥ずかしくなる。
「今から入ってきなさい。心の汚れを取り除いた後は、身体も綺麗にしないと」
「ああ、わかったよ……」
「あ、待って待って。着替えの服と下着は持った? タオルはバスルームにある?」
少し早口に確認を促してくる久遠。
やれやれ。これじゃあ本当にお母さんだな。きっと結婚して子供が出来たら、面倒見の良い母親になれそうだ。
タンスから替えのシャツとズボンを引っ張り出し、部屋のドアを開けた。下着とタオルは脱衣所の引き出しにある。
キィッ。
トイレくらいしか出ることのなかった自分の部屋。誰もいない家の中は、どこか懐かしい雰囲気がした。別の家に引っ越してきたような、でも見覚えがあるような、複雑な感覚だ。この家は、こんなにも広かったのか。
ガス給湯器のスイッチを入れ、脱衣所で脱いだ服と下着を洗濯機へ放り込む。久しぶりに全裸となった身体へ向けて、シャワーの蛇口をひねった。
シャーッ!
気持ちいい。ただお湯を掛け、シャンプーとボディソープで全身を泡立て、それを流すだけの行為がこれほどまでに気持ちがいいとは。汗や臭い、汚れだけではなく、もっと別の何かが洗い流されていくようだ。
頭は根元から毛先まで念入りに。首と胸、背中や腹を洗い、肩から指先まで泡を行き渡らせる。臀部から太もも、ふくろはぎも入念に洗った。
シャワーに十五分は掛けてから出た後、バスタオルで身体を拭いている最中に、今度はヒゲが気になった。鏡を覗いてみると、思った以上に顎ひげが立派になっている。
どうせならここもサッパリしておこうと、今度はひげそりを手にした。顎、頬、唇と鼻の間……
「……よしっ」
洗面所で数回顔を流し、私服に着替えた。強く剃ったせいで頬がヒリヒリと痛む以外は問題ない。
こんな時間にシャワーを浴びたのは初めてだなと思いつつ、ドアが半開きになっている自分の部屋へと戻った。
「お帰りなさい。……だいぶ綺麗になったわね」
「うおっ」
帰ってきてびっくり、乱闘でもあったのかと疑うくらい荒れ果てていたこの部屋が、見違えるように綺麗になっていた。床は全て片づけられ、明るいフローリングがしっかりと見えている。ベッドはきっちりメイキングされ、ホテルに来たみたいだ。本棚には漫画が作品ごと、巻数の順番を揃えて並べられ、図書館の本棚と化している。学習机に整然と並べられたファイルや教科書、ノート。また携帯ゲーム機などの小物も、本来あるべき場所へ置かれていた。
あまりの手際のよさに、思わず絶句する。
「……よく、置いてある場所がわかったな」
「昨日来た時に見ていたから。元はちゃんと整とんしていたみたいね」
誇る様子もない久遠。
やっぱり侮ってはいけない。あの短時間で何がどこにどうやって置いてあったのかを理解し、その通りに整とんして見せた。ここまでくると母親と言うより、家政婦と言った方がいいのかもしれない。俺なら間違いなく雇うだろう。
「要らないと思った物はこっちにまとめておいたから。後は自分で整理してね」
そう言うと久遠は鞄を持ち上げ、俺と入れ替わるようにしてドアを開けた。
「ありがとうな。……携帯と裁縫箱、気づいたのか?」
「ええ。わかりやすい場所にあったから」
くるっと振り向いてきた。数十センチの距離で、また視線が合う。
「……一つ、聞いてもいいかしら」
「何を?」
「なぜ、携帯電話も裁縫箱も捨てたりしなかったの?」
「え? ええっと……」
意外な問いかけに、返答に困った。
「……なんか捨てる気が起きなかったというか、久遠が悪いという確信が持てなかったというか」
上手く言葉に出来ない。
その時の俺にとって、久遠は嫌いな人物ではなかったのだ。口では「偽善者」だとか「二度と来るな」とか言ったものの、それは怒りに身を任せた結果だった。気持ちが静まり心が落ち着いてくると、久遠は恨むべき人間ではないとわかったのだ。
だから、そんな人が意図せず落とした物を捨てるなどと言う行為は考えもしなかった。
「そう……」
久遠は一度目線を落とすと、一呼吸して再びこちらを見つめた。
「西ヶ谷は、賢いのね」
「俺が? 賢い?」
「一時の感情に左右されず、冷静な判断で正しい答えを導き出す。……それが私にとって、代わりのいないパートナーである理由よ」
また、明日も来るから。
久遠はそう言い残し、静かにドアを閉めた。玄関の開閉音と、外の階段を降りて行く足音。
賢い、か……
小学校でも中学校でもロクな成績を取れず、勉強しろとしか言われてこなかった。賢いなどと言われたのは、これが初めてだ。それも久遠から。
ちょっと嬉しかった。褒められたのも久しぶりだったから。
ふと頬を撫でる、涼しい風を感じた。窓が開いている。きっと部屋の空気を入れ替えるために、久遠が開けておいたのだろう。そのおかげなのか、息苦しさもどこかへ消え去っていた。
急に忙しなく動いたから、少し疲れたな。横になりたいが、メイキングしてくれたベッドが綺麗すぎて寝づらいよ……




