9-6.助けられたのは西ヶ谷
……ピチャピチャ。
……パチャパチャ。
「ん……」
それまで見えていた景色がゆらゆらとかき消され、目の前が暗くなった。どことなくボヤーッと光る薄暗い視界と、水が滴り落ちるような音。遅れて手足の生気が戻り、温い空気とパリパリの布の感触がそれらの先端から返されてきた。
ああ、寝てしまったのか。
俺はようやく、眠りから覚めたことを理解した。夢の国から帰って来たのだ。今の自分にとってはこの世の全てとなった、この部屋へと。
カサ……カサカサカサッ……
先ほどとは違う、乾いた音が聞こえた。左の方、小学生からずっと使っている学習机のある方向だ。
父親と大喧嘩をしたあの日から、俺はこの空間から一歩も出ていない。また、両親もこの部屋へは――俺の知っている限り――入ってはこなかった。食事は俺の寝ている間にドアのすぐ内側に置かれ、空になった皿を置いておけばまた消える。そんな日々が続いていた。
では、紙が擦れるようなこれは何の音だろうか?
無断で母親が掃除をしにきた? それとも閉め忘れた窓から風でも入ってきた?
俺は目を開けた。蛍光灯が消されたままで暗い天井。カーテンで遮られている窓。そのすき間から見える、どんよりと曇り雨を降らしている不機嫌そうな空。何十分、何時間、寝ていた
のかわからないが、起きていた時よりも雨は強くなっているようだ。
見える範囲へ一通り視線を回した後、重い頭を首で持ち上げながら、寝返りを打つようにして身体ごと左へと向けると……
「……」
「……おはよう」
長く黒い髪の毛を腰辺りまで綺麗に伸ばし、白く美しい顔にやや赤みを帯びた頬があり、藍色の映える制服をきちんと着こなした女の子。
久遠が机の上のプリントを両手を使ってまとめつつ、無表情だがやわらかな視線でこちらを見つめていた。少しだけその周囲を見ると、教科書やノートが整然と並べられている。あまりの散らかりぶりに耐えかね、机上の整とんをしてくれたのだろうか。
しばらく会っていなかった、外界からの訪問者であり見慣れた顔。久しぶりに対面した懐かしさやなぜここにいるのかという驚きなど、様々なものが含まれた感情を覚えた。光の量が少ないせいか、やや幻想的にも感じる。
おはよう――
久しぶりだね――
片づけてくれたの? ありがとう――
本来ならば、そんな言葉が出てくるはずだった。
だが……
「……勝手に入ってくるんじゃねえよ」
俺の口が発したのは、自分のテリトリーへ無断で入られたことに対する不満――あるいは出て行けという警告――だった。自分でもわかるくらい低かった声音。そこには彼女へのあいさつや来てくれたことへの喜び、感謝の言葉などが欠片もなかった。
俺からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだろう。久遠は少し目を開くと、手のプリントを丁寧に机の上へ置き、こちらへ向き直ると、
「何も言わずに入ったのは謝るわ」
と静かに発した。
「だったら、さっさと出て行けよ」
「でも、そういうわけにはいかないの」
身体を起こしベッド際に座り込む姿勢になった俺に対し、少し近づいてきた久遠。
鼻ですんすんと嗅ぎ、
「空気が澱んでいるし、汗臭いわね。この部屋から、しばらく出ていないのでしょう?」
と言ってきた。
「余計なお世話だ」
「カーテンも開けず照明もつけず、何をしているのかわからないけど。空気の入れ替えと、入浴くらいはしたらどうなのかしら?」
無表情を変えずに淡々と言葉を並べてくる彼女に、俺は怒りが湧いてきた。何も知らないくせに、さも自分の言っていることが正しいかのようにツンとすましやがって、と。
ギシッとベッド際から軋み音を発して立ち上がった。久遠は自らの忠告を聞き入れたと思ったのだろう。逃げることもせず、温かくも冷たくもない視線だけを向けている。
その臆さない態度が更にイラつき、怒りのこもった視線で睨みつけると、
ドンッ!
「きゃっ!?」
やや強めに、フローリングの床へ彼女を押し倒した。
こういう時だけ、か弱い女の子みたいな声出しやがって。
「男の部屋へ勝手に入ってきて、どうなるかわかってるんだろうな?」
仰向けとなった久遠に迫り、そのまま気づけば彼女へ覆いかぶさるような体勢になっていた。顔と顔、その間は三十センチあまり。それまでの学校生活でも、ここまで近づいたことはない。わずかだが互いの吐息を、耳で、肌で、感じられるくらいの距離だった。
藍色の制服と白いブラウス。濃い赤色をしたリボン。それらの上からでもわかる、締まったウエスト。慎ましく膨らんでいる胸は、呼吸と共に小刻みに上下している。露出した首と顔は、透き通るように健康そのものだ。つやのある唇。形の整った鼻。目の前の景色を反射している瞳。そして、黒くしなやかな長い髪。ふんわりとした柔らかないい香りも漂ってくる。
「そんな度胸、西ヶ谷にはないでしょう」
その美少女から返されたのは、落ち着きのある悟ったような言葉だった。
「恋人がいなければ、いたこともない。誰かを脅して行為に持っていったような経験もない。こんなことで強がっても、自分を誤魔化すことはできないわ」
まるで心を見透かされたような台詞だ。
すぐにでも右手で制服を退かし、ブラウスを剥がしてやろうかと思った。だが俺の手と腕はわずかに震えるだけで、制服を掴むことすらできない。やはり俺には久遠を恥辱するような行為など取れるはずがないのだ。
それよりも……と、彼女は俺が苦し紛れに怒鳴り散らそうとする直前に、それを阻止するようにして静かに続けた。
「私が言いたいことが……いえ、西ヶ谷から言いたいことがあるのではないかしら?」
「……」
言いたいこと――
「私は西ヶ谷に、そのような説明では疑われてもおかしくないと言った」
久遠は俺の方を真っ直ぐに見つめながら言い始めた。
「でもそれは、けっして西ヶ谷が悪いと、西ヶ谷が犯人であることを前提に言ったわけではないの。主観的な意見だけで賛同することはできない、そう伝えたかったのよ」
「……遠まわしに否定してることなんか、わかりきってんだよ。どうせ連中から、俺を犯人に仕立て上げるように頼まれたんだろ」
「私がそういう人間に見える?」
「ああ見えるよ。他人を攻撃する理由は、関係性がなくても突然できる。……お前の言った言葉だ」
久遠に対し、初めて「お前」の呼称を使った。躊躇ったあたり、まだどこかで強がっているのだろう。だがそんなこと、もうどうでもいい。一生解り合えない、嫌われたところで影響のない捨てられた関係なのだから。
「……」
自分の言葉で反論されたせいなのか、お前と呼ばれたからなのか、久遠は唇を噛んで言葉を詰まらせた。
「入部する前にお前から言われたこと、ようやく意味がわかったよ」
しばらくの沈黙の後、優位に立ったと考え、自らの影が落ちた彼女の目を睨みつけながら口を開いた俺。
「言われたこと、とは?」
「いじめを制するという立場上、逆恨みされるリスクを孕み、それを大丈夫という人間ほど餌食になる」
「……半年以上前に言ったこと、よく覚えていたわね」
「そして、俺はその予言の通りになった。自分は兄のようにならないとタカを括った結果、こうして潰されたのさ」
ふふっと自らを嘲笑った。何日か振りに笑ったのが、自分への嘲笑になるとは。
俺が加治木を襲った犯人にされたのは、雑務部員であることも要因の一つだろう。久留米など、俺に対して恨みを持っていてもおかしくはない。他にも大会への出場停止処分を下された剣道部、その時に濡れ衣を着せられたバスケ部からもヘイトを集めていたはずだ。今回はその鬱憤が、一気に爆発したと考えていた。
まさに、久遠が想像していた通りのパターンだっただろう。
「どうした、笑えよ。私の忠告を聞かないばっかりにこうなったのよ、ってさ」
「……」
「ああそうか。心の中では大笑いしてるもんな。何か言いたいことはあるか?」
「……」
「ほら、言えよ。笑えよ」
「……」
彼女は何も言わず、表情を変えなかった。
バシッ!
俺は怒りを爆発させ、久遠の左頬へとビンタを喰らわせた。弾けるような音が部屋にこだます。
なぜ急に激昂したのか、自分でもわからなかった。ただ一つわかったことがあるとすれば、溢れ出てくる感情に流され始め、自分自身の制御が利かなくなりつつあるということだった。――あの状態のように。
ザァーッ!
雨の音が部屋を包み込んだ。豪雨だと、窓から外を見なくてもわかる。まるで俺の感情を表現しているようだった。
「……」
彼女は頬を真っ赤に腫らしつつも、まだ俺の方を見つめ続けていた。
「……なんだよ」
「……」
久遠は答えない。
「……何か言えよっ!」
バチーン!
その瞬間、部屋に肉を打つ音が響き渡った。俺が久遠の右頬を殴ったのだ。それも峰打ちのように制御されたものではない。手加減なし、正真正銘の全力、相手にダメージを与える目的での攻撃だった。
人を殴ったことなど、今までに一度もない。いじめられても「殴って先生に怒られたらどうしよう」「もし骨でも折れて、警察に捕まったりしたらどうしよう」などと余計なことを考え、反撃そのものを諦めたり、物への八つ当たりで我慢したものだ。
利き手でないとはいえ、初めて人を思い切り、それも久遠を殴った。
「ぐうっ……!」
彼女は痛みに耐えかね、うめき声を上げて体を丸めた。顔に何本もしわが入っているのがわかる。
それを見た俺は止まるどころか、立ち上がってもう一度反対の頬を殴った。反射的に両手で押さえる久遠。うーっ、うーっ、という苦しそうな息づかいから、痛みを必死に堪えているのがわかった。
「言えよ! 笑ってるんだろ!? 私は忠告したのに、自業自得だって笑ってるんだろ!」
外の雨に負けずと、あるいは彼女のうめき声をかき消すように、出せる限りの大声で怒鳴り散らした。
ああそうだよ! 俺は馬鹿だよ! こうなったのだって、自業自得だ! だが温情やご機嫌取りで隠されると、無性に腹が立つんだよ! 影でコソコソ笑うのがそんなに面白いのか!
「……私は、……笑わない」
足下から聞こえた、震える小さな声。
「……私は、……いじめを受けた人間を、……いじめと正面から向き合う人間を、……笑う気にはなれない」
はーっ、はーっ……
痛みに耐え、息を吐き出す久遠は、顔を上げ弱々しくもしっかりとした視線を俺へ向けていた。
「ふん。実際はどうだか」
それ以上攻撃をすることができず、俺は目を背ける。
「主張するだけでは単なる意見にしかならない。証拠と理論、信用があってこそ、説明は認められる。……これもそっくりそのまま、お前の言葉だぜ」
嘲笑うようにしてそう言ったが、心の中では自分の意思が揺らぎつつあった。苦しみに耐える彼女を見て、どこまでを信じていいのかわからなくなってきたからだ。
あれは久遠の演技だ。俺に疑われないための、うそがばれないようにするためのテクニック。加治木を襲った犯人は西ヶ谷だということにしてくれ、そう頼まれて任務を実行している最中であり、実際には俺を嘲笑い、見下し、貶している。殴った時の反応すら本物ではないかもしれない。
いや、本音なのではないだろうか。久遠が、俺がいじめられる状況になると予期していたとしても、それに加担する理由がない。加治木とは違い、俺と彼女はそれぞれ第三者ではないし、そもそもいじめられるとわかりきっているのであれば、入部を認めなくてもよかったはずだ。
……まてよ。
一つだけ、ある考えが浮かんだ。俺がいじめられ雑務部に、学校にいなくなると、久遠にとって利益となるパターンだ。
でもそれは、いや……
「……雑務部へと、……戻ってきて」
再び小さな声が、激しく打ちつける豪雨の音にかき消されそうになりながら聞こえた。
「……西ヶ谷がいなくなったら、……誰が代わりを務めるの?」
むくりと起き上がった久遠。この短時間で髪はやつれ、制服もくしゃくしゃになっていた。さっき殴られた時に切ったのだろうか。口からは鮮血が流れ、ポタポタとブラウスに伝っている。
しかしその目には――いつもの力強さが宿っていた。
「誰が、西ヶ谷の代わりになれるの?」
「代わりになれる人間なんて、いくらでもいる。どうせ、もう交代要員は見つけてあって、俺には『本人から辞退の申し出があった』という口実作りに来てるんだろ。わかってんだよ」
「理不尽ないじめに対抗できる力を持った人物。そんな人が、簡単に見つかると思っているのかしら?」
「俺より優秀なやつなんか、いくらでもいるからな。むしろ俺より下の人間の方が珍しいだろ」
そう、どうせ俺は底辺。成績でも性格でも、スクールカーストでも最下位の人間だ。一番下より下など存在しない。俺が務められる仕事であるならば、他の誰でも務まるのだ。
雑務部員としての役目だって、久遠の的確な指示の下で果たせているだけ。つまり彼女の指示通りに動ける人間であれば、別に俺でなくとも支障はない。
「私は……西ヶ谷でないと困るの」
久遠の声がはっきりと聞こえた。もう、雨の音など邪魔にならない。
「ずっと一人だった私が、ようやく手にしたパートナーだから」
パートナー、か。
聞こえはいいが、果たしてそれは本心なのだろうか。都合のいい相手、逆に言えば、都合が悪くなれば切るという選択肢もありうるという意味ではないだろうか。
「そんなの、お前の勝手だろ」
俺は吐き捨てるように言った。
「仮に、お前から見て俺がパートナーだったとしても、俺から見たお前はそうじゃない。自分の考えを勝手に押し付けるな」
互いに助け合えるような関係など、ただの理想、机上の空論でしかない。もし存在するとすれば、利害が完全に一致しているか、片方にしわ寄せがいっているかのどちらかだ。そして俺と久遠は、もうそのどちらにもなれない。
壊れ始めた関係は修復できないのだ。直ったところで、それは表を取り繕った程度。何かのきっかけで、またすぐに崩れ落ちるだろう。
……そんな思い、もう二度としたくはない。
「いいよ。お前の理想通り、俺から退部したということにしといてやるよ。だからとっとと出て行け。いっつもチヤホヤされているお前なら、新しいパートナーなんて星の数ほどいるだろ」
「やめて。私はそんなことを望んでいない」
「じゃあ何を望んでいるんだ? 正直に言ってみろよ。それとも……」
自分の口元が、嘲笑と怯え両方の意味で歪んだのがわかった。
「……男が出来たから、バレないよう学校に来て欲しくない、と?」
「……!」
彼女の目が見開かれる。
「代わりがいないとか、パートナーだとか、聞こえのいい言葉を並べておいて、実は男がいましたなんてバレたら、色々と不味いもんな。でも俺が学校に来なければ、そんな心配は杞憂に終わる」
これが浮かんだ考えだった。
二年生女子、いや学校単位で考えても指折りの美少女、久遠。性格のせいで避けられていると言うが、それでも付き合いたいと考える男子など何十人もいるはずだ。むしろいないと考える方がおかしい。
ましてや四月に会った時よりも、だいぶ社交的になってきているのだ。鈍感な俺ですらそれに気づくのだから、常日頃から彼女を狙っている男たちが、気づかぬはずもないだろう。
当然、久遠も一人の女の子だ。好みの男子がいて、接触する機会があったならば……
しかもここ数日、彼女は俺の目から逃れている。
「そんなこと、あるはずがないでしょう……」
「証拠はどこにあるんだよ? ほら、証拠と理論が必要なんだろ?」
「証拠は……ない。でも信じて」
「は? 誰が信じるもんか」
「お願い。私は誰とも……」
ドンッ!
ムカッとした瞬間、俺の身体は反射的に動き、気づけば久遠の腹へと思い切り蹴りを入れていた。
クッションよりいくぶんか固めの感触。重い反動と衝撃波。制服姿の女子高生が華奢な身体を海老のように曲げながら、一メートルくらい先へと吹っ飛ばされていった。吐きそうなうめき声と共に、唾液と血液が数滴、宙に取り残されてから床へと落ちる。
「俺はそういうのが一番腹立つんだよ! 自分の方が賢いからって、他人をだまそうとすることがな!」
ピカッ!
ダーン!
突然、閃光と轟音が同時にきた。雷が、そう遠くない場所に落ちたのだ。直後、ザアア……というにわか雨の音がドォーッという豪雨の音へと強まった。空も怒り狂っているように。
背中を丸めて腹を庇い、青ざめた顔をしている久遠に向かって、俺は落雷と豪雨に負けじと力の限り吠えた。積み上げられていた漫画のタワーが突き崩されていて、それが彼女を囲むように広がっている。衝撃でスカートのポケットから落ちたのか、ピンク色の裁縫箱と二つ折りのガラケーが転がった。
俺の怒りは静まらない。
まずはベッドの近くに置いてある時計を手に取った。手のひらサイズのアナログ時計だ。それを一度振りかぶり、彼女に向かって力任せに投げつけた。
ガン!
時計は狙いを外れ、顔から十センチもない床上へと叩きつけられた。破壊音と共にプラスチックの透明カバーが割れ、その破片が二つ三つに分かれて広がる。動かしていた単三の乾電池もゴロゴロと音を立てて転がった。
次はスマホ。壊れたって構うものか、どうせ連絡を取るような人間はいないのだ。これも思い切り投げ、
ゴンッ!
「うぐっ!」
今度は顔を上げた久遠の額へ、ちょうど命中した。本能的に両手で額を押さえ、彼女は痛みに耐える。
「いいよな! 友達でも恋人でも苦労せず手に入れられるやつは!」
心の中から、溢れ出す感情がとまらない。どんどん出てきては、言葉となって昇華されていく。
「こっちはいつも独りなのに! いっつもいっつも、孤独で惨めで寂しいってのに!」
「……」
「誰もわかってくれない! わかろうともしてくれない!」
「……」
「恵まれた人気者に、俺の気持ちなんかわかってたまるかっ!」
「……」
「このクソ女っ! 偽善者っ! 死ねっ!」
発狂したように叫びまくった。考え付く限りの汚い言葉で罵倒した。手当たり次第に物を掴み、目の前でうずくまっている華奢な身体に向かって次々と投げ込んだ。
美少女として生まれ、勉強も運動も才能に恵まれ、人間関係に苦労することなく日々を送っている。友達も恋人もいないのは、単に選んでいるだけ。そんな久遠に、全てが逆である俺の苦悩などわかるはずがない。
受け入れられなかった。彼女が俺のことを本気で心配している。本気で雑務部に戻ってきて欲しいと思っている。――それをすんなりと受け入れることができなかった。
絶対に裏がある。人間は利益がなければ動かない。そして俺が戻ったところで、久遠に利益はない。何らかの損失があるとすら言える。
どうせ、俺は独りなんだ。誰にも受け入れてもらえない。
どうせ、俺は要らないんだ。誰にも必要とされていない。
どうせ、俺は――――
「はぁっ……! はぁっ……!」
手の届く範囲にある物をあらかた投げ切ったところで、初めて息が上がっているのに気がついた。手と足が小刻みにブルブルと震え、心臓がトットットッ……と早鐘のような鼓動を打ちつけている。
「……」
壁際に追いやられた久遠が、投げられた時計やファイルや漫画の散乱する中心から、ゆっくりと顔を上げた。俺からの攻撃がようやく止んだためだろう。うっすらと血が滲んでいる額。真っ赤に晴れ上がった左頬。対照的に真っ青なあざになっている右の頬。唇も切れたのか、口元には血痕が縦に一本増えていた。制服もしわだらけだ。
少しの間、互いの視線が交錯し沈黙が下りる。いつの間にか雨は小康状態になり、落雷もなくなっていた。
「……」
「……」
俺の呼吸が久遠と同じくらいまで落ち着いたところで、彼女はブラウスの袖で口を拭った。まだ固まりきっていないのか、赤い鮮血がべったりとつく。
「……西ヶ谷の代わりなんか、いるはずがないわ」
その目は鋭かった。有無を言わせない、いじめと対峙する時の目だ。
「……部員としても、パートナーとしても、私が納得できるような人間は、西ヶ谷以外に存在しないわ」
「……」
クラスでも学年でも、私と付き合いたい人ばかり。
でも彼らは私が好きで、私のことを見ているわけじゃない。
私というステータスが欲しいから。私と付き合うことで、周囲の人間からの羨望の眼差しを受けられるから。私と付き合っているという優越感に浸りたいから。
そう。私は高級車やマンションと一緒。学年指折りの優等生という値札がついただけの物としてしか見てはくれない。
だから、私のことを理解しようとしない。私を守ろうともしてくれない。
「だけど……西ヶ谷は違った」
そこで久遠は視線をやわらげた。
「私の過去を知っても、私を拒んだりしなかった。久遠 葵という一人の人間として見ると宣言した」
「……」
「そして、私を助けてくれた。体育祭の時、西ヶ谷ほど私に気を掛けてくれた人はいなかった」
「……」
「雑務部員として必要なスキルと精神力を持ち、かつ私という人間を理解しようと……いいえ、してくれる人物は――」
瞳孔が絞られ、目が細くなる。
再び、久遠の視線が鋭くなった。
「――西ヶ谷 一樹以外に、存在しない」
俺はその視線に吸い込まれていた。逸らせない、閉じれない、真っ直ぐに見つめるしかない。
一切の否定を許さない、強い意思を強制的に送り込まれたようだった。彼女自身の言った証拠も理論もないというのに、弱々しい反論すらできない。言動と行動に矛盾があるというのに、それを指摘することすらできないのだ。
「……」
「……」
息すら躊躇われるような沈黙が下りた。
『ただいまー。はぁ、もうびしょびしょ……』
カチャ――と、玄関のドアが開かれる音。キュッキュッ――と、底の濡れた靴が滑る音。ガサガサ――と、ビニール袋が擦れる音。
それを破ったのは母親の帰宅だった。パートから帰ってきたのだろう。外も薄暗いし時計も見ていなかったが、午後六時は回っているはずだ。
久遠が手を付きながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……おいとまさせて頂くわ」
「早く、帰れよ。……二度と来るんじゃねえ」
彼女の丁寧な言葉に対し、俺が発したのは吐き捨てるような台詞。だがそこに、さっきまでの威勢はなかった。我に返ったと言うか、怒りが空になったと言うか、風船が萎むように勢いがなくなったと言うか……
久遠は反論も咎めもしなかった。制服を手で軽く正し、置いてあった自分の鞄を持ち上げ、ドアの方へと歩き、
「……」
錯覚だろうか? 少し悲しそうにも見えた目で俺の方へ振り返り、一呼吸の間ほどの時間、じっと見つめてきた。
何かのメッセージを……伝えたいのか。
そんな考えがよぎった直後、くるっと向き直った彼女はドアを押し開け、俺の部屋を後にしていった。カチャン、という金具の音が耳に響く。
『あら、お友だ……ちょっと! どうしたの、その顔!?』
『少々転んでしまっただけですから。失礼しました』
顔――の赤みやあざ――を見て驚く母親と、さりげなく誤魔化す久遠の会話。それが玄関がの閉する音と共に遠く聞こえた。
「……はぁ」
しとしとと降る雨。一層薄暗くなった部屋。床に散乱している漫画やファイル、砕け散った時計の破片……
見渡してため息が出た。何に対してのため息なのか、よくわからない。嵐が過ぎ去り元の空間が戻ってきただけなのに、あるべきものがない虚無感を覚えるのだ。ただ何かが足りない気がした。
もう……どうでもいい……




