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9-5.助けられたのは西ヶ谷

 十二日前――

 ピピピッ。

 くぐもって聞こえた、小さな電子音。二つほどボタンを外した寝間着の間から、左のわきをまさぐって十数センチの白い体温計を取り出した。

「三十九度二分……」

 トイレの個室で水を掛けられた後、濡れた制服をそのまま着ていたので、身体が冷えて風邪をひいたのだ。

 頭が締め付けられるように痛かった。喉もヒリヒリして唾を飲み込むことすら苦痛だった。部屋の温度は決して低くないはずなのに、布団を被っていても悪寒がした。

 開けていないカーテンから漏れてくる、上がりきった太陽の光。続いていた雨も一段落し、久しぶりのからっとした晴れ模様だ。

 体温計の電源を落とし、机の上へと放り投げた後、布団を肩まで上げて仰向けになった。

 点いていない蛍光灯。遮り切れない光で薄く照らされている天井。カーテンの閉められた窓。漫画の並ぶ本棚。押入れ。ドア。外からはたまに通り過ぎる車の音くらいしか聞こえてこなかった。学校へ行っている間には見ることも聞くこともできない、平日の自分の部屋だ。

「……」

 安心感を覚えた。トイレの個室と同じものだ。

 クラスメートの視線から解放され、嫌がらせへの警戒をしなくて済むからだろう。この家を知っている生徒などクラスにはいないはずだし、来たところで上がらせなければいい話だ。

 風邪を引いているのに安心するなんて、おかしな話だが。

 だが逆に考えれば、自宅ここが安心できるということは――学校へ行けば、またいじめへの恐怖にさらされるということだった。

 ノートに落書きをされる、体操着を隠される、配布物を回されない……。今度はどのようないじめが待っているだろうか? ニヤニヤという嫌らしい視線を浴びせられ、警戒の隙を突かれて被害を被り、嘲笑を背中に受ける。考えたくもないのに、自分がいじめられている映像が次々に溢れてきた。

 いじめっ子への制裁を生業なりわいとする雑務部員が、いじめに怯えるとは笑いものだ。

「……」

『何人もの人から逆恨みされたの』

『あなたもそういうリスクを孕むことになるわ』

『そういう人間が、餌食になるのよ』

 ふと四月――雑務部へ入部しようとした頃、久遠の言った台詞を思い出した。俺が兄の遺言を理由に入部を迫った時、それを拒むように放ってきた言葉だ。

 おそらく彼女は、こうなることを予期していたのだと思った。いじめっ子に対し、理不尽ともとれる暴力を振るう雑務部。ゆえに部員は逆恨みされ、何人もの生徒からヘイトを集め、ちょっとしかきっかけから一斉に攻撃を受けるのだと。

 そして、それを入部を拒否する理由としか考えられなかった俺は、油断からこうして彼女の予言どおり、クラスメートの餌食となった。完璧なまでの自業自得だ。

「……」

 もう久遠は助けてくれないだろう。警告を聞き入れなかった愚かな者など、元から助ける気がないのかもしれない。彼女はそういう人間だ。自らの組み立てた理論の下に行動し、相手が誰であろうと本当の意味で分け隔てなく接する。温情を施したり、味方につくようなことはしないのだ。

 別に、それでもいいと思った。自分を理解してくれない人間に、助けてもらおうとなど思っていない。味方がいなければそれでいい。ただちてゆくだけだ。

 寝返りを打って目を瞑った。


 九日前――

 朝ベッドから起き上がると、身体が軽く感じた。

 心拍と共に襲い掛かってくる締め付けるような痛みもなければ、喉からのヒリヒリとした痛覚もない。首を軽く振って部屋を見渡してみたが、フワフワとする違和感も覚えなかった。

 左の脇へと体温計を突っ込んだ。

 ピピピッ。

「……三十六度二分」

 小さな液晶に表示された、健康的な体温の数値。

 土日でよく寝たせいか、風邪は治ったみたいだった。久しぶりの体験で、すぐには気づかなかったのだ。

 カーテンから漏れる朝の光。ぼんやりと聞こえてくる、母親が朝食を作る音。珍しいこともない、月曜日の朝だ。

 両足を放り出し、ベッドから立ち上がった。スマホの時計が表示しているのは午前七時。風邪で寝るためにアラームを止めておいたが、自然と起きることができたらしい。この後は、朝食をとってから洗顔と歯磨き、鞄の中身を確認しながら制服に着替え、トイレに行ってから出かけるのが俺の日常だ。

 スマホを充電器から外し、鞄と制服がいつもの場所にあることを確かめてから、ドアノブを回し部屋を出て……

「……」

 と、右手が止まった。

 今日、このまま登校した俺には何が待っているのか。それを考えてしまったからだ。

 細かいことであるが、人によっては日を置いた後の登校というが緊張するのかもしれない。教室に入ったらどういう反応をされるか、友人とはどうやって会話を切り出せばいいのか、休んでいる間にあったことをいつ聞くべきか……

 だが俺が考えたのは、そんな友達のいる人気者の贅沢な悩みなどではなかった。

 教室に入れば、ひそひそと陰口を囁かれる――

 目を離せば、鞄の中身を散らかされる――

 授業になれば、班の輪へと入れてもらえない――

 トイレに篭れば、水を掛けられる――

 歓迎されない自分に対する、クラスメートの冷ややかな反応。そして完全に獲物と化した、自分への激しいいじめ。……それらを受けるためにわざわざ行くのか、と。

 学校が異国の地に感じられた。それも大多数の人が憧れる夢の国ではない。自分が差別対象になるとわかりきっている、野蛮な国家だ。話し合いなどという平和的な手段では伸びる魔手から逃れることができず、反撃を試みたところで勢いと人数に負ける。事前に知っていれば、選択できるのならば、間違いなく行かない場所だ。

「……」

 ふと、そこで思った。

 ……学校へ行くのを、やめてしまおうか――

 単純なことだ。学校へ行けば、いじめに遭う。学校へ行かなければ、遭うことはない。

 俺は振り返り、自分の部屋を眺めた。

 互い違いに色が僅かに異なる板の張られたフローリング。私服や制服のシャツ、下着の類が収納された衣類用のタンス。置いている教科書やノートが立て掛けられた学習机。参考書や漫画が段ごとに区切られて並べられた本棚。そしてそれらを照らすための蛍光灯と、カーテンの閉められた窓……

 綺麗ではないが、落ち着ける場所だった。誰にも邪魔されない、自分のテリトリー。

 ここにいれば嘲笑うような視線を浴びることも、耐えがたいいじめを受けることもないのだ。したいことをして、やりたいことをやれる。ここへずっといたい、ここから出たくない。――そう考えた。

 無理をして登校するのは……

『一樹? 起きてるの?』

 母親の声と、近づいてくる足音。

 それが聞こえた瞬間、俺の身体は自然とドアから離れ、再びベッドへと向かっていた。

 カチャ。

「一樹、まだ調子悪いの?」

「……うん」

 ベッドに背を向け布団を被っている俺を、母親はまだ風邪が治っていないと勘違いしたのだろう。それ以上聞いてくることはなく、「学校の番号、何番だったかしら……」と欠席の連絡をするために電話機の方へと向かっていった。

 パタン、とゆっくり閉じられたドア。

「はぁ……」

 全身の力が抜け、我慢できずため息が漏れた。

 小学校に入学してから今に至るまで、一度たりとも病気や法事以外で休んだことはなかったのだ。中学校では真面目な陰キャラらしく、誰にも気づかれることなくひっそりと皆勤賞も取ったし。

 それが今日初めて、人生でも初めてのズル休みをすることになった。理由のない無断欠席だ。

 背徳感のようなものを覚えた。こうしている間にも、普通の生徒たちは自転車で、電車で登校し、教室で「おはよう」と声を掛け合い、ホームルームが始まる時間を待っているのだ。ズル休みをして自宅に篭っているのが、世界中でも自分だけように感じられた。

 今日だけ。休むのは今日だけだ。明日からは普通に登校しよう。いじめなど遊びのようなものなのだから、そのうちに飽きてくるはずだ。命に関わることじゃない。だから、明日からはちゃんと……

 仰向けになり、顔を布団で隠した。これがいけないことだとわかっていて、それを平然とやった自分が恥ずかしくなったからだ。


 七日前――

 今日だけ。明日は学校へ行こう。

 そんな先延ばし、自分の行動を「次はやるから」と正当化するのはロクなことではない。

 案の定、俺はズル休みをした翌日も家から出ることはなかった。十一時頃に寝間着姿で昼食を要求し、レトルトのお粥と作りおきの味噌汁を食べた後、部屋に帰って漫画を読むかゲームのプレイ。一度経験した自由は、そう簡単に手放せないものだ。

 その日の俺も、登校することを諦めていた。いや、諦めていたというよりも、はなから学校に行く気など失せていた、という表現の方が正しいだろう。

 部屋の電気をつけることなく、カーテンは閉めたまま。シワのないシャツとブレザーが、着られることなくハンガーに掛けられていた。鞄も口が開かれた状態だ。登校する準備など、全くされていなかった。

 今からっても、ホームルームにはとても間に合わない時刻。本来なら焦りを隠せないような状況であるのに、俺はベッドの上でぐうぐうと寝ていた。たしかアラームも設定していなかった気がする。

 トントン。

「ん……?」

 布団の上から軽く叩かれ、面倒くさそうに目を開けた。

「一樹、今日も休むつもりなの?」

 淡い黄色のエプロンに身を包んだ、母親の顔に焦点が合った。

「……勝手に入ってくんなよ」

「もう六日よ? まだ風邪が治らないの?」

 そう、六日目。風邪を引いてから、その日で六日目だった。ただの風邪なら、とっくの昔に治っているはずだ。

「熱は測ったの?」

「測った」

「何度? まだ下がらない?」

「平熱」

「喉とか大丈夫? 声はおかしくないみたいだけど……」

「別に」

 小さくぼかすようにして短く答えた。余計なことを言って仮病がバレるのを防ぎたかったのが半分、もう半分は単純にしつこいと思ったからだ。

 このまま部屋から立ち去ってくれることを期待したが、状況は悪い方へと移っていった。

「とりあえず、病院に行くよ。悪い病気だったら困るから」

「びょ、病院?」

 思わず焦り声が出てしまった。

「立てるなら支度して。上着を羽織るだけでもいいから」

「ま、待ってよ。別に病院行くほどじゃないからっ。もう二、三日も寝ていれば治るからっ」

 病院なんか行けば、それこそ仮病がバレてしまう。大事おおごとになるのも嫌だった俺は、必死になって反発した。

「ちょっと頭が痛いだけだから。大事をとって休んでるだけだってば」

「それで脳の腫瘍だったりしたらどうするの? この前だって、テレビ番組でやってたのよ。軽い頭痛が続いて、検査したら大きな腫瘍が見つかったっていう……」

「そんなの稀だから。そういうのじゃないから」

「そういうのじゃないって、自分でわかるわけがないでしょう?」

 会話――というより口論――は面倒な方向へと進んでいた。病院へ連れて行きたい母親と、行きたくない俺。

「ほら、早く支度して。違うなら違うで安心できるから。それとも、服が着れないの?」

「そうじゃないからっ。とにかく、俺は絶対に行かないからなっ」

 これ以上はボロが出ると、振り切るようにして言葉を強く吐いた。

 親の言うことをここまで懸命に拒否したのは、反抗期以来だっただろうか。学校の提出書類や洗濯物など最低限の連絡以外、学校生活とか部活のことは全く交わされなかった会話。ウソを隠すための言い訳が久しぶりのまともなやりとりになるとは、自分が成長していないことを感じさせられた。

 横向きに布団を被り、母親からの視線を遮った俺。

「……一樹」

「なんだよ」

 少しばかりの沈黙の後、母親が声のトーンを下げてこう言った。

「うそをつくの、そろそろやめなさい」

 誤魔化せるようなことではないとわかってはいたが、実際の言葉として突きつけられると背筋が寒くなった。

「学校で何かあったの? 休むことなんてなかったでしょう?」

「うるさいな、何にもねえよ」

「じゃあ何で行きたがらないの? ちゃんと理由を説明して……」

 布団をはがされ、左腕を軽く掴まれた後にくいっと引かれた。母親がいよいよ痺れを切らし、自分の方を向かせようと考えたのだろう。

「うるせえっ!」

 自分でも驚くほど大きく出てしまった声。掴まれた腕を激しく動かして強引に振りほどいた。

 説明したところで、訴えたところで、その場にいたわけでもない大人になど、わかってもらえるはずもない。いじめられているという苦痛を伝えたところで、帰ってくる返事は「そんなの気にしなければいい」「我慢するべき」「やりかえせばいい」……こんなところだ。それで嫌がらせが収まるようならば、それはいじめですらないだろう。――そう思った。

 そもそも「わかる」という考え方そのものが間違っているだろう。

 いくら言葉を積み重ねられようとも、学校にも病院の精神科にも行く気はなかった。精神ケアの専門家とやらが、テンプレめいた言葉を掛けてくるだけなのだから。

「……出てけよ」

「その言葉づかいは……」

「出てけって言ってんだろっ!」

 バッと起き上がり、ベッドのすぐわきに立っていた母親を突き倒した。突然の出来事に驚いた表情で倒れこんだ目の前の肉親など、もう俺は必要としていなかったのだ。

 自分の息が少し上がっていた。

「早く出て行けよっ! 二度と来るんじゃねえ!」

「……お父さんに言うからね」

 自分の力ではどうにもならないと考えたのか、母親はそう言い残して部屋を後にしていった。

 カチャン! とやや荒い音と共にドアが閉じられた。

「……」

 ……親という生き物は、なぜここまで自分に構うのだろうか。悩みを聞いたところで、それを解決する手段も力もないくせに、「どうしたの?」「何があったの?」と質問してくるばかりだ。

 別に解決などしてくれなくてもいいし、ご機嫌とってヘコヘコしてくれなんて、これっぽっちも思っていない。ただ無駄に干渉せず、こちらがやって欲しい最低限のことをやってくれればそれでいい。

 どの道、俺は現在進行形で人生のレールを外れつつあるのだ。この先どうなろうと知ったことではない。なるようになる。ただ誰にも干渉されたくない。もう他人との関係に神経をすり減らすのは疲れたのだ。

 もう一度ベッドに戻り、横になった。……いつになく、寝付けなかった。


 五日前――

「ん……」

 起きたら周囲は真っ暗だった。闇夜に慣れた目で、ベッドと床の境界線がかろうじて見える状態だ。

 手探りでスマホを探し、スリープから復帰させた。明るい画面に表示された時刻は、午後十一時。どうやら夕方頃に眠気を感じて横になり、そのまま寝てしまったようだ。新月なのか曇っているのか、窓からは道端の電灯の光が淡く見えている程度だった。

 一日中ずっと部屋に篭っていると、時間の感覚がおかしくなる。目が覚めれば起き、腹が減れば食べ、眠くなったら寝るという動物のような生活サイクルに俺はなっていた。……太陽の影響がない分、動物より酷いかもしれない。

 その時も起き上がった直後に空腹を感じた。一応夕飯に当てはまる食事をとっていなかったからだろう。

 部屋の電気を薄くつけた。暖色の光を発し始めた蛍光灯に淡く照らされた室内。読んで放り出したままの漫画が散乱する床。濡れてしまった服を着替えようとして、取り出したズボンが出しっぱなしのタンス。ゲームの負けを八つ当たりし、ビリビリに破かれた無地のノート。――様変わりした自分の部屋だ。

 俺はドアを開け、やはり暗い中を手探りでダイニングルームへと歩いた。

 冷蔵庫やガスコンロ、食器棚が並び、キッチンにテーブルが置いてあるとも言えるのがうちのダイニングルームだ。シンクの上にある小さな電灯をつけ、困らない程度の明かりを確保して食器棚の下にある引き戸を開けた。

「……」

 仮病がバレて以降、親の目に入らないよう動いていた。トイレは隙を見て行き、入浴はなし。そして食事や飲み物は、こうして夜の間に済ますなり確保なりをしていたのだ。

 引き戸から持ち出したカップ麺に、電気ケトルで沸かしたお湯を入れる。栄養バランスが取れていないことは百も承知だったが、冷蔵庫にある野菜をかじる気にもなれなかった。料理など、色々な意味でできるはずがない。

 カップ麺の在庫が切れたらどうするか。冷蔵庫のジュースのストックがなくなったらどうするか。明日にも起きそうな問題が山積していたが、それを考えてどうにかなるような状況でもなかった。

 カップ麺の容器を早々と空にし、明日のために食べるものを探そうとした時、

 パチッ。

 突然、ダイニングルームの蛍光灯が明るくついた。

『一樹』

 続いて、背中から聞こえた聞き覚えのある低い声。

 振り返った先にいたのは――寝間着姿で右手に煙草の箱を持った、父親の姿だった。

 勤務時間が不定期で、いつ起きていつ寝ているのかも、仕事の内容もロクに知らない。最近はほとんど顔を合わせていなかったし、まず会いたいとも思っていなかった。

「ちょっと、そこ座れ」

 父親は落ち着いた雰囲気で着席を促してきた。母親から俺のことを聞いたか、何か言ってくれと頼まれたのだろう。普段は話そうともしないくせに、こういう余計なことはする面倒くさいのがうちの親だ。

 無視して部屋に帰りたい気分だったが、嫌がる身体を無理矢理に座らせた。逃げても俺の部屋まで追ってくるだろうし、その時には「なぜ逃げる?」とさらに面倒なことになりそうだと思ったからだ。

 カチッ。

「お前、学校に行ってないらしいな」

 俺が座ったのを確認すると、ライターを取り出して煙草に火をつけ、テーブル上の灰皿を手繰り寄せた。ゆらゆらと揺れる白い煙。

 それが話をしようとする人間の態度か。

「……それが、なんだよ」

 視線を落としたまま、ダルそうに言い返した。

「なんで行かないんだ」

 その俺の反抗的な言い方が気に障ったのか、親として叱らねばならないと考えたのか、声色が僅かながら強くなった。おそらく、向けられた視線も厳しいものだっただろう。

「……別に、なんでもいいだろ」

「いいわけがないだろう。なんだ、学校で何かあったのか?」

「……何にもねえよ。放っておいてくれ」

「じゃあ何で行かない?」

「……」

 だんだんと答えるのも面倒くさくなり、そこで一旦会話が途切れた。

 普段は「自分でやれ」「自分で何とかしろ」と自力解決を押し付けてくるくせに、都合のいい時にはしゃしゃり出てくる。自己中心的な人間だ、親という存在は。

「お前……もしかして、いじめられているのか」

 いじめ、の単語に身体が少し震えてしまった。

「は? ちげえよ」

「もしそうなら、相談するんだぞ。誰かに言えば気持ちも晴れるかもしれないか……」

「違うって言ってんだろっ!」

 ダン! とテーブルを叩きながら吠えた。我慢が限界を迎えたからだ。

「いちいち他人ひとのことに口出すんじゃねえよ! 俺のことを何もわかってないくせに、黙ってろ! このクズ!」

「クズだとぉ……!」

 ガタッと父親が椅子を立ち、その目は怒りで燃えていた。

 合わせるようにして立ち上がり、睨みつけるような視線を送った俺。

「クズ以外の何なんだよ! てめえ他人たにんを馬鹿にして遊んでんのか!?」

「親に向かっててめえとはなんだ、この小僧。……殴られたいのかコノヤロー!」

「……来いよクズ。てめえなんか殺してやる」

 俺はくいっくいっと指で挑発し、怒りを爆発させた父親がテーブルを回ってきた。

「もう一度、言ってみろ……!」

「何度でも言ってやるよ。……他人ひとの気持ちもわからねえようなクズなんか、死んじまえよ」

 言い切った瞬間、痛烈なビンタが左頬へと飛んできた。バシッ! という音、身体が持っていかれるほどの衝撃。鋭い痛みは後から追うように襲ってきた。

「お前こそわかってないだろ! わざわざ心配してやってるというのに……」

「わざわざ!? だったらほっといてくれ! いちいち心配される義理なんかねえよ!」

 怒鳴りながら右手で後ろを探り、使いかけのラップの芯で、

 バシッ!

 と正面の顔を思い切り殴った。

「この……小僧……っ!」

 十分に威力はあったらしく、父親は頭を擦り痛みに顔をしかめたが、俺はそこへ、追撃するように口撃こうげきを加えた。

「自分の言い分を勝手に押し付けてくんな!」

「勝手なのはお前の方だ! 誰のおかげで生活できてると思ってんだ! 恥を知れっ!」

 怒り狂ったような怒号。

 それが薄暗いダイニングルームに響き渡った後、俺は胸倉を掴まれていた。高校生にしては身長の低い自分と父親の目線はさほど変わらない。生まれてから飽きるほど見てきた目の前の顔は、鬼のような形相に変貌していた。

 それでも――怯むことのなかった、止まることのなかった俺。

「こっちだって……好きでこの家にいるわけないだろっ!」

 躊躇いなく右足が動き、気づけば父親を蹴り飛ばしていた。加減することなく、出せる限りの全力で。

 うぐっ、といううめき声。飛び散った唾液。

「嫌なら……! 嫌なら産むんじゃねえよっ!」

 腹を抑える父親を見ることなく、力の限り声を張り上げながら、右脇にあった食器棚を開け、

「俺は好きで生まれてきたんじゃないっ!」

 ブンッ!

 茶碗、どんぶり、平たいもの、深さのあるもの……。目の前でうずくまっている目標へ、手に触れた皿を片っ端から投げつけていった。

 ドゴッ!

 パリン!

 ガチャン!

「やめなさい……! やめろっ……!」

 あるものは頭を庇うために広げられた腕に当たり、あるものは外れて床で粉々に砕け散り、またあるものは先に投げられた皿に当たって甲高く派手な音を立てた。

 ――わかるはずがないのだ。いや、わかってもらいたくもない。

 親がここまで俺にこだわるのは、「実の息子が学校を無断欠席する」ことは世間体が悪い――すなわち、他人の目を気にしている――からだ。かわいそうだとか辛そうだからとか、人間らしい温情からではない。

 そんな「心配してやっている」という上から目線の気づかいなど、俺は全く必要としていなかった。むしろ、現場にいたわけでもなく実情を把握しているわけでもない、痛みを知らない他人になど心配などして欲しくない。

 人間同士は分かり合えないのだから。

 相手の意見を聞いている「ふり」をし、自分の意見を素直に伝えている「ふり」をし、それで互いに理解した「ふり」をする。実際には、相手のことを本当の意味で知っているわけではないし、自分のことを本当の意味で伝えることができていない。

 なぜそう言えるのかと聞かれれば、「言葉はうそがつける」からだ。嬉しくもないのに嬉しいと言う。あるいは悲しいのに悲しいと言わない。――これができてしまうのだから。

 しかもそれは、現代社会において美徳とされている。

 だからいじめの苦痛を訴えたところで、それが解決されることなど絵空事なのだ。その痛みは誰にもわからない。子供のように注意を引きたいだけだと軽く見られる。挙句の果てには「みんな苦労しているのだから、お前も我慢しろ」と退路すら塞がれるのだ。

 ――俺の痛みもわからないのに、相談しろなどと軽々しく言われたくない。

『ちょっと! 一樹っ!』

 ちょうど食器棚の皿を投げ尽くした時、ダイニングルームに姿を現した母親の声で手がとまった。騒ぎで目が覚め、様子を見に来たのだろう。

 息ははぁはぁと上がり、叫び続けたおかげで喉はヒリヒリと痛み、腕や手は鈍く熱を放っていた。目の前にはおそるおそる腕を退けた父親と、鋭利に割れた何十枚もの皿。十六年以上住んでいる自宅で、想像すらしたことのない光景が広がっていた。

「……チッ!」

 間の悪くなった俺は大きな舌打ちをして見せると、食器棚を蹴飛ばしてから大股で歩き自分の部屋へと戻った。ダン! という派手な音を立ててドアを閉める。

『あの子、きっといじめられてるのよ』

『なんで聞かなかったんだ? お前、ずっと家にいたんだろ?』

『だって、部屋に篭りっぱなしなんだから。ちょっと開けようとしただけで怒鳴られるし……』

 ダイニングルームでは、両親が早くも口論を展開していた。

 父親と母親の間ですら協調できないのに、俺のことなど解決できるはずがないだろ。

 くだらない口論がさっさと終わることを祈りながら、ベッドへ横になった。相変わらず散らかった俺の部屋。だがそこは、誰にも邪魔されることのない自由な空間だ。他人を受け入れる必要がなく、また受け入れてもらう必要もない。

 目を閉じると、騒いだせいなのか、スッと眠りに溶け込むことができた。


 そして、その日からはこの部屋が俺の全てになった――――

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