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9-4.助けられたのは西ヶ谷

 十五日前、放課後――

 時間が経つにつれ、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。なんで身に覚えのない無実の罪に問われなくてはならないんだ。地獄谷といい久留米といい、事実虚実の見分けもつかないのか。勢いのまま押し切られてしまった悔しさもあり、溜まりかけていた怒りを吐き出す場所に困っていた。

 曇った外のせいで薄暗く、LEDの蛍光灯の光がやけに明るい放課後の部室。その怒りを忘れるために、ロクに読んでもいない小説本を手にとって流し読みしていたが、感情が落ち着かぬままいたずらにページだけが進んでいった。内容など頭に入らないまま、だ。

 ペラ……ペラ……と紙をめくる音だけが部屋を満たしていた。

「何を怒っているの?」

 女子の声――久遠の声が聞こえた。抑揚も感情もない声。

 すぐ正面に座る彼女は、じっと俺を見つめていた。その手元には白黒のチェスのボードと初期位置に置かれた駒。何も聞こえてこなかったのは、ゲームを進めずに手を止めていたからだろうか。背筋を正し長髪を綺麗に伸ばしているその姿は、いつもと変わらない淑女だった。

「……よく怒ってるなんてわかったな」

「無言で本を読みふける西ヶ谷を見たのは、これが初めてだから」

 自分自身でもおかしいとわかっているのだ。他人の行動や仕草から思考まで読み取ることのできる久遠に、その異常さがわからないはずがなかった。その気になれば、俺の考えていることまでお見通しなのだから。

 実のところ、これを――久遠から声を掛けてくれるのを待っていた。嫌なことは話してしまえば楽になる、イライラを吐き出す相手が彼女くらいしか思い当たらなかったからだ。

 手元の本を閉じた。

「昨日、保健体育の補習があったんだよ。終わったら見せに来いって言うから職員室に行ったんだけど、入る直前にチラリと会議室を覗いちゃったわけ。そうしたら中で人が倒れてたってこと」

「そんな話は聞いているけれど、それが怒っている理由なのかしら?」

「全然違う。で、そのことで教師に呼び出された。事情を聞かれるだけだと思ったら、あいつら俺が犯人だと決め付けて自白させようとしてきたんだ。こっちは事実を話しただけなのに、それを怒鳴り散らして全否定するとか、意味わかんねえよ。俺に何を話せってんだ、やってもない妄想を並べさせて自分の考えを押し付けたいだけだろ」

「やってもいないことに対して、犯人扱いされたから怒っているの?」

「これだけじゃない。その後教室に帰ったら、今度はクラスメートから問い詰められて、また犯人扱いされたんだ。誤解を招かないように気をつけてやったのに、結局水の泡にしやがって。挙句の果てには思いっきり殴られて『サツでも突き出せよ』だと。背中へ蹴りでも喰らわせてやろうかと思ったよ」

 言いたいことを水増しし、鬱憤を晴らすようにして長々としゃべり続けた。ここ最近で一番しゃべったと思うくらいだ。

 久遠は俺の言葉が切れるのを待ってから、チェスのボードを駒ごと横へ移動させ、スカートの裾を両手でゆっくり丁寧に整えて、パイプ椅子へと座りなおした。

「西ヶ谷の気持ちは、よくわかったわ」

「だろ? どうせ中には面白半分でやってるやつもいるんだろうな、チクショウ」

「だけど……」

 そして、彼女は俺をじっと見つめると、

「疑われたとしても、おかしくはないわ」

 そう静かに告げた。吸い込まれるような視線を向けたまま、微動だにせず。

 え……、と俺は固まった。当然、同意してくれるものだと思っていたからだ。

「な……なんだよ、久遠まであいつらの肩を持つ気なのか!?」

「どんな説明をしたのかしら? 主張するだけでは単なる意見にしかならないわ。証拠と理論、そして何より信用があってこそ、説明として理解を得られるのだから」

 カメラや証人がいるのであればともかく、確固とした証拠はないのでしょう? 教師やクラスメートといった第三者は、形として証明できるものがなければ認めてはくれない。彼らから見れば、西ヶ谷は信用のできない他人なのだから。

 この世の中に正しいという絶対的なものはない。正しいというのは、より多くの人間が賛同するからであり、私たちがそれに従っているから。いかなることでも多数の人々が賛成すれば正しいことであり、いかなることでも少数しか賛成する者たちがいなければ間違ったことになり得る。

 表情を変えることなく、また一切の感情を入れることなく、久遠はそう言った。

「信用できないって……、それじゃあ俺が何を言おうと、犯人扱いから逃れることはできないって言いたいのかよ!?」

「確たる証拠がない限り、ね」

 証拠などあるはずもなかった。防犯カメラの類は設置されていないし、証人になりそうなのは地獄谷くらいだが……

「そ、そうだ! なら俺が犯人だっていう証拠もないだろ!? 証拠どころか、加治木を襲う理由がない!」

「今、言ったでしょう。同条件であれば、賛同する人が多い方が正しいの。つまり、両方ともはっきりとした証拠がないのであれば、味方の少ない西ヶ谷は間違っている、ということになるわ」

「ま、間違ってるって……」

「それに、他人を攻撃する理由というのは関係性がなくても推測できるのよ。馬鹿にされた、見下された、睨まれた。相手から先に攻撃され、過剰な防衛になってしまったとも考えられるのだから」

 特に倒れていた彼と西ヶ谷は、親しい友人とわけでもないだろうから。――彼女は締めくくるように、そうつけ加えた。

 思わぬ久遠の言葉。俺はしばらく何も言うことができなかった。同じ雑務部というコミュニティで過ごし、理解を深めた仲だ。擁護することはあれ、まさか否定されるなどとは夢にも思っていなかった。

「……なんだよ、その言い方は」

 気づいた時には口が開いていた。

「久遠まであいつらの味方をするのか? 無実の罪を着せられても仕方がない!? そんなに俺を疑っているのかよっ!」

「味方をしているわけでは……」

「ああそうかい――他人ひとを見下して、弄んでるんだ。私の方が知識もあるし深く考えてる、お前とはわけが違うだってな」

「そんなこと、考えてないわよ」

「言葉では何とも言えるよな。すいませんとか、ごめんなさいとか、頭のいいやつはうそをつくのも得意なんだろ? 俺みたいなバカは正直者だから、体面とか礼儀だとか、社交辞令もわからないからな」

「……」

 久遠が黙り込む。

「……」

 俺もそれ以上は踏み込まなかった。

 沈黙――

 何も言わず、何も言われなかった。ぐっと唇を噛んでいた彼女は、俺のヘラヘラした態度が気に入らなかったのだろう。

 互いに目を合わせていたが、それは今までのように相手を理解しようと探り合う、友好的な視線ではなかった。威嚇し警戒感を煽る敵対の目だ。

「……チッ」

 経験からか、本能的なものからなのか。言い合いでは彼女に勝てないと悟った俺は、自ら視線を外して面倒くさそうに立ち上がった。

 手元の本を足下の鞄へ乱雑に放り込むと、

「雑務部のせいだって言われてるのに、どうでもいいのかよっ!」

 論点のずれた反論で怒鳴り散らした。そのまま鞄を引っつかみ、

 ガシャン!

 腹いせに座っていた椅子を思い切り蹴り飛ばした。派手な音を立て、畳まれながら床に転がるパイプ椅子。すねにパイプ部分が当たったが、痛みなどどうでもよかった。怒りに身を任せていたからだろうか。もう一回蹴り飛ばすか、窓から放り投げたい衝動にさえ駆られた。

 久遠はそれをじっと見ていた。咎めることも怒ることもなく、言葉を掛けることだってなく。何をしていいかわからずに固まっているように見えたが、彼女のことだ、そんなことは絶対にありえないだろう。

 俺はスライドドアを乱暴に開けると、部室から出て行った。五時にもなっていなかったあの時間に帰ったのは、いつ以来のことだろうか。一年生の女子生徒が何人かいた廊下は明るく、そして寂しかった。

 久遠はそういう人間なのだ。一時の感情などでは動かず、確固たる理論に裏付けられた冷静な判断で自らの行動、言動を決定する。無理なものはどれだけ説得しても無理であるし、力ずくで変えさせることも不可能だ。

 あの理屈も――彼らに味方するような理屈も、彼女なりに考えた結果なのだろう。

 証拠がなければ信用されない。多数の意見が正しいとされる。理由など唐突に生まれる。……間違ったことは言っていない。改めて考えても、反撃できる余地がないほどの正論だ。

 だが、それに――完璧な反論をしてくることに腹が立った。

 なぜ? 久遠はそういう人物だとわかっていたはずなのに。いつもなら「久遠にそう言われたらな……」と自分の理論の浅はかさを反省し、そこで終わるはずなのだ。それが退くタイミングを間違えたのか、仲違いの状態までもつれこんでしまった。

 何かがおかしい。具体的に言えないが、事件の日以来、自分の中で何かがかみ合わなくなりつつある。

 その日から部室に行くことも、久遠に会うこともなかった――


 十四日前――

 その日はいつもより遅く学校に着いた。登校中に雨が降り出し、途中のアーケード下で雨合羽を着る羽目になったからだ。

 他学年の生徒と共に階段を上がり、自分の教室へ入った瞬間、

「……」

 違和感を覚えた。

 目に入ったクラスメートの人数が多かった、湿気のせいで窓が曇っていた、……そんな平和的なものではない。

 睨みつけられているような視線。でも誰一人として、俺の方を見ている生徒はいなかった。

 ひそひそと交わされている陰口。でも誰一人として、囁き合っている生徒はいなかった。

 教室中から、クラス中から、拒絶されているような雰囲気を感じたのだ。自意識過剰、気のせいだと思いなおしたが、それはこびりついたように頭から離れてはくれなかった。

 キーンコーンカーンコーン……

『朝のホームルーム始めるぞー、席につけー』

 チャイムと同時に担任が姿を見せ、SHRが始まった。

 出欠確認で、名前を呼ぶ担任。返事をする生徒。

「西ヶ谷」

「はい」

 面白おかしく返事をしたわけでも、気だるそうな態度で受けを狙ったわけでもない。

 だが……返事をし、次の生徒の名前が呼ばれるまでのわずかな間に、どこからともなく囁き合うような声が聞こえた。

 空耳だったのだろうか? 心なしか、笑うような――馬鹿にするような囁き。しかも教室中から聞こえたような声、だ。

 教室に入った時に覚えた違和感が、だんだんと不気味さに変わりつつあった。

『ありがとうございました』

 出欠確認と連絡事項の通達でSHRは終わった。

 俺は朝にできなかった授業の準備をしようと、ロッカールームへと足を運んだ。すでに他のクラスメートも殺到し、かなりの混雑だった。

 ロッカーが出席番号順に並べられているゆえ、自分の場所は一番混んでいる真ん中あたりだ。落ち着いた頃に後から取りに行けばよかったと悔やみながら、戻るに戻れず仕方なく順番を待っていると、すぐ前にいた男子生徒が教科書を取り終わり、横へと退いた。

 ドンッ。

 順番が回ってきたと一歩踏み出そうとした時、急に後ろから押された。身体が当たってしまったとか、そんな軽いものではない。明らかに意思を持った手が、強く背中を押し出してきたのだ。唐突な力にバランスを失い――アルミ製のロッカーの扉へと勢いよく額をぶつけてしまった。

って……」

 直後に鋭い痛み、遅れて鈍い痛みがやってきて、思わず額を手でさすった。開閉部の突起で切ったのだろうか。薄い血が指先についていた。

 クスクス……

 クククッ……

 その時、今度は確かに聞こえた。後ろから嘲笑あざわらう声が。それも一人ではない。二人、三人……男子か女子かはわからなかったが、何人かが自分の背中に馬鹿にしたような笑いを向けているのだ。

 途端に憎悪が湧いてきた。すぐにでも後ろを振り返り、嘲笑ちょうしょうしているやつらを殴り、蹴り、殺してやりたいとすら思ったくらいだ。

 しかし同時に、昨日のことも思い出してしまった。俺に味方はいないことを――自分は孤立無援であることを。一人を殴れば二人に殴られ、一人を蹴れば三人に蹴り返される運命にある。俺がどんな抵抗をしてもねじ伏せられるが、相手は何をしても許される。一方的な力関係なのだ。

 俺は怒りと悔しさを押し殺しながら、ロッカーから教科書とノートを取り出し、顔をうつむかせクラスメートの顔を見ないようにして、逃げるようにロッカールームを立ち去った。

「うっ……!」

 ところが教室に戻った瞬間、うめき声が出てしまった。想像もしていなかった光景が広がっていたからだ。

 ペンケース、その中にあったシャープペンや消しゴムといった文具、文庫本、ファイルと挟んであったプリント類、携帯ゲーム機、弁当箱と水筒……。鞄に入れておいたありとあらゆる物が、広げた覚えもないのに机の上へと散乱していたのだ。それもバラバラにされたり、グシャグシャのしわだらけになった状態で。

 やるせないというか、泣きたい気持ちになった。

 授業が開始されるまでの時間は残りわずか。表に出てきそうな様々な感情を必死にこらえ、俺は片付けを始めた。シャープペンと消しゴムをペンケースにしまい、プリントをファイルに収め、ゲーム機や弁当箱、水筒を……

 そこで気がついた、鞄がないことに。

 こういうことは慣れているというか、経験済みだったから鞄がどこにあるのかすぐに見当がついた。掃除ロッカーに隠されているか、教卓の上に放り出されている、あるいは……

「……」

 鞄は予想の一つ、ごみ箱の上へと被せるようにして乗せられていた。靴の跡がいくつもついているのは、何度も踏んづけたからだろう。

 クスクスクス……

 ハハハハッ……

 フフッ、フフフッ……

 こっちを指差して笑っている男子。隣の生徒と囁き合っている女子。見て見ぬ振りをしている生徒……。

 まるで見世物にされている感覚だった。動物を虐げ、滑稽こっけいな姿を見て笑っているのと同じ類だ。手の届かないところから一方的に嫌がらせをされ、その反応を見て楽しんでいる。――そう、いじめが始まったのだった。

 抵抗できるような力も、助けてくれるような友達もいない俺は、クラス中からのいじめを甘んじて受け入れるしかなかった。原因は間違いなく加治木の件だろう。だが、それがわかったところで何の意味も成さなかった。自分は無実だと主張したところで、多勢に無勢、残酷なほど結果は同じだ。

 様々な感情を抑え、ごみ箱の上の鞄を取りに行った。


 十三日前――

 十一月に入った初日。化学の授業は、化学室での実験だった。

『銅板と亜鉛板を希硫酸に入れ、それぞれに電極をつけると電気が発生します。これをボルタ電池と呼び、最も基本的な電池です。ダニエル電池というのは……』

 若い化学の教師がホワイトボードにマーカーを走らせ、それを指で指ししめしながら説明をしていた。それを真剣に聞いている生徒、広げた教科書の上でうつ伏せになっている生徒。五人から六人ずつに分かれた前後三班、計六班がそれぞれ化学室の大きな机についていた。

 俺の席は前のテーブルで、ホワイトボードのすぐ前。教師の目に入りやすい席だったが、別に眠くもなかったから嫌だとは思っていなった。

 ……と、

 コンッ。

 後頭部に軽い衝撃を感じた。何かが当たったようだ。足下を見渡してみると、数ミリ程度まで小さくなったプラスチック消しゴムが落ちていた。自分のを落としたのかと思ったが、ちゃんと机の上にあったし、第一、後ろから飛んでくるはずがない。

「西ヶ谷、ちゃんと聞きなさい」

「あ、はい……」

 説明が一区切りついた教師に怒られてしまった。遊んでいたわけじゃないのに。そう言おうかと思ったが、下手に反論しても面倒くさいだけだと、素直に謝ってしまった。

 キュッキュと音をたて、文字や記号が消されたホワイトボード。教師は再びマーカーを手に取り、別の説明を始めようとしていた。

 ……コンッ!

 その瞬間、また後頭部に何かが飛んできた。だが、先ほどのような軽いショックではない。痛みを感じるくらいの、明らかに狙って――意図的に投げられたものだった。

 刹那。背後を振り返った。見えたのは、後ろのテーブルや窓の方を向いている数人の男子。彼らはわざとらしそうに俺から視線を外し、たまにチラチラと俺の反応をうかがっていた。

「西ヶ谷」

「あっ」

 呼ばれて振り返ると、いつの間に板書を終えたのか教師が眉間にしわを寄せていた。

「お前は落ち着きがないな。ただでさえ成績不良なんだから、しっかり前を向いてろ」

「……はい」

 クスクス……

 フフッ、フフフッ……

 顔の向きを正すと同時に、後ろから漏れ聞こえてきた嘲笑。

 完全に俺は遊ばれていた。後ろから消しゴムが飛んできましたと言ったところで、彼らが否定すれば、俺がうそをついていると思われるだけだ。子供のような、幼稚な嫌がらせに腹が立った。

 また飛んでくるのではないか。そう考え一人で勝手にピリピリしている間に、授業は説明から実験に移ろうとしていた。

『では、一人一つずつ亜鉛板と銅板、希硫酸を持っていってください』

 教師の言葉に、だるそうに生徒たちが前にある教師の机へと集まり、指定されたものを手に取っていった。

 一人一人で電池を作り、それを班員でつなげて電圧を測定する、という実験だ。電池を作ると言っても、希硫酸の入ったビーカーに亜鉛版と銅板を入れて電極を挟むだけだから、メインはもっぱら班全員でどのくらいの電圧が出るのか、という測定結果だった。

 俺もすでにできていた列の後ろへと並び、ビーカーに金属板二枚を突っ込んだ状態で机へと運んだ。

『電極ある?』

『電圧計、持ってきてないじゃん』

『これ、どこにつなぐの?』

 机上ではクラスのメインメンバーがここでも班を主導して、各々が作った電池を豆電球を介してつなげては電圧を測っていた。一つ、二つ、三つ……と徐々につなげる電池の数を増やし、発生した電圧を記録していく実験だ。

「……」

 が、俺の電池が役割を果たすことはなかった。

 ガヤガヤと活発な班員の中心で、電池が回路に加えられ、豆電球が点灯する。一人が電圧計を銅線に当て、数値を読み上げると他の班員はノートやルーズリーフにそれを書き留める。――その中に俺の作った電池が、いや、俺自身も入ることはなかったからだ。

 回路に入れてもらえず孤立した電池は、まるで班という輪の中に入れてもらえない俺みたいだった。そこに存在しないかのように気づかれず。あるいは、関わってはいけないと意図的に無視されているように。

 普段、一人で空気になっているのとは違った感覚だった。嫌い、邪魔、要らない……そんな排他的な雰囲気。「俺の電池も使ってくれ」と声を出せばよかったのかもしれない。しかし元から孤独だった俺はどうしていいかわからず、下手に行動すれば余計に深刻化するとしか考えられず、ただただ制服のすき間から見える豆電球を見つめることしかできなかった。

 キーンコーンカーンコーン……

 俺の班は人数が一人多かったため、教師は俺が実験に参加していないことに気づくこともなく、化学の授業は終わりを告げた。

「……」

 教科書やノートを持ったまま、真っ直ぐトイレへと向かった。別に便意をもよおしたわけではない。あの雰囲気の中、教室に戻る勇気が持てなかったからだ。

 珍しく誰もいない、教室の近くにあるトイレへと入り、個室に入って鍵を掛けた。

「はぁ……」

 教科書をふたの上へ置くと同時に、こらえきれずに漏れ出てきたため息。

 廊下の喧騒が遠く聞こえた。ふたの閉じられた白い洋式便器と、備え付けのトイレットペーパーが二つ、それらを囲み個室を仕切っている三面の仕切り板とドア。――この無機質で隔離された空間は、人間の相手をする必要がない。

 そんな当然のことで安心するほど、俺の心は疲れ切っていた。

 向こうは俺に対して常に視線を浴びせ、隙があればけなし、それを見て嘲笑する。こちらは反撃の手を打てないまま、ストレスが溜まり、精神だけが消耗していく。状況を打開する方法など考えられず、暗いトンネルをあるかもわからない出口に向かって歩いている気分だった。

 そんな中で一時的にでも視線から逃れられるトイレの個室は、砂漠のオアシスにも感じられたのだろう。

『…………?』

『……、…………』

 数人の足音と、囁き合うような声。何を言っているかまではわからなかった。

 ガタガタッ。

 シャーッ……

 掃除用具庫が開かれた。蛇口から勢いよく水が出る音も聞こえた。どうやらバケツに水を注いでいるようだ。

 ピリピリと嫌な予感がし、身体を硬直させた。

『…………』

『……、……』

『……? …………』

 蛇口の音が静まると、また囁き合う声が聞こえた。クスクスという、我慢しきれないような笑い声もだ。チャポチャポと水が揺れる音も耳に入ってきた。

 ……ゴン。

 今度は上から音が聞こえた。ドアの上方に何か重いものが当たった音だ。

 まさかと思い、顔を上げた瞬間……

 バシャーッ!

 青い掃除用のバケツから、大量の水が降ってきた。髪に、顔に、肩に、腕に、手に、腰に、膝に、足に。揺れた視界。追うようにして冷たい感覚が全身を包み込んできた。額に張り付いてきた、濡れた髪の毛。水を吸い、湿り切った制服。

 ガン!

 追い討ちを掛けるように、バケツが頭へと降ってきた。

『クスクスッ……クスクスクスッ……』

『フフフフッ……』

 抑えてはいたが、明らかに俺を笑っていた。そのままトイレから出て行った彼らは、教室で大爆笑しただろう。

 バケツの水を頭からぶっかけられるなど、中学生の時にも体験したことはなかった。ドラマの中でしかありえないような出来事が起こったのだ。しばらくの間、色々と理解が追いつかなかった。

 彼ら――クラスメート――にとって、俺は動物や昆虫と同じような存在となったのだ。いくら虐げても反撃されることはなく、誰かに咎められることもない。哀れな姿を見て、それをたのしむための鑑賞対象だ。

 ぐっしょりと濡れた教科書を手に取った。文字は透け紙は破れそうになり、最初のページには何が書いてあったかわからない。おそらく鏡を見たら、自分の姿はこの教科書のように無残なものだっただろう。

 キーンコーンカーンコーン……

 次の授業の始まりを告げるチャイムが聞こえた。

 教師には何と言おうか。トイレで転び、バケツの水を被りましたと伝えよう。ジャージも体操着もないから、服はこのまま着ているしかない。教科書はロッカーで開いておこう。

 水を掛けられました――いじめられましたと伝える気は全く起きなかった。どうせ、クラスメートに事実確認を行い、否定されるに決まっているのだ。彼らに何かしらの処分が下されることはないだろうし、今度は報復の名目でさらなるいじめが待っているだろう。

 ドアの鍵を開けた。クラスに戻ったら笑われるだろうが、もうそんなことはどうでもいいのだ。

 水が床に跡を作っていたが、気にしなかった。

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