あと六話。
あと六話。
落ち着かない。
緊張する。
今日は、福田さんだけを呼んだ。すずくん抜きで話したいことがある。と。
「おまたせしてしまってすみません」
「あたしが勝手に早くに来てしまっただけなので、大丈夫です」
福田さんは、真面目な方だ。
表情のひとつひとつに優しさを感じさせる。
いつの間にか、あたしは、彼に、恋をしていた。
あたしは福田さんへ、すずくんへ向けるのと同じ親愛を抱いていたと思っていたのに、そうではなかった。
あたしはこの人が好き。愛している。
たった、数ヶ月前に出会ったばかりなのに、だれよりも深く愛していると、自信を持って言える。愛、なんて使い古された言葉で表していいのかと考えるくらいには、あたしは、恋に落ちていた。
わかってしまった。自覚してしまった。
でも、それは、今日でおしまい。
「あたしは、福田さんとすずくんに出会えて、良かったです。おふたりと過ごした時間は、かけがえのないものでした」
本当に。ふたりといる時間は、キラキラと輝いていて、あたしの大事な大事な宝物だ。
「福田さん、あたしともう会わないでください」
「なにを、言っているんですか?」
「あたしは、あと数ヶ月で、死にます」
さみしそうではなくなった目が、また、逆戻りだ。
本当は、こんなこと告げて、別れを言うつもりはなかった。
なにも言わずに、フェードアウトしようと思っていた。
でも、あたしは自分勝手だ。自己中心的だ。だれかの記憶にあたしという存在を残したいと。
残された人のさみしそうな目は、散々見続けたのに。
あたしのわがまま。
「あたしは病気で。末期のガンで。治らなくて。来年の夏までに生きていることはできなくて。それは、今年の初夏にはもう知っていて。それなのに、あなたたちに会って。ダメだと思うのに、また会いたくなって。すずくんの母親と同じように、あなたたちを、あたしは置いていくとわかっていて。これ以上仲良くなったら、サヨナラが辛くなるだけだったのに」
あたしの言葉を止めるように、福田さんはあたしの握りこぶしをあたたかい手で包み込んだ。
「ありがとうございます」
「なぜ、お礼を言うの。ののしっていい場面なんですよ」
「どこに、そんな場面があるんですか。木藤さんは私たち親子の恩人です。あの日、助けていただいた。心が離れかけていた私たちを、繋ぎ合わせてくれた。そのあとも、どこか私に遠慮がちなすずが、あんな風に笑って、しゃべる姿は、木藤さんに会うまで、見たこともなかった」
「病気で、辛くて、私たちのことまで考えて悩んでいたにもかかわらず、私たち親子と、これまで縁を切らずに、いてくれた。何度、お礼を言っても、足りません。ですが、これからあなたと会わない、というのは、できません。聞けません」
「なぜ、ですか」
「あなたは、私たちを救ってくれた。支えてくれた。今度は、私たちが、あなたを支える番です」
「それは、そんなことは、させられない」
「いいえ、します。やらせてください。あなたが、ひとりで立てる立派な方だということは存じ上げています。でも、私だって、あなたの助けになりたいのです」
急に、視界がぼやけたと思ったら、自分の目から水滴があふれた。
涙。涙。涙。
なぜ、涙が落ちていくのか、わからない。
止める方法もわからない。
こんなことなら、泣き虫な後輩の新谷さんに、涙の止め方を聞いておけば良かった。いや、新谷さんは涙が止められないから泣き虫なのか。ダメだ、使えないなぁ。あはは。
「がんばっていたのですね、木藤さんは。病気を隠して、元気ではない日も、元気なフリをして。お仕事はされていましたよね? 大丈夫なのですか?」
「し、仕事は、辞めてきました」
「そうですか。今までお勤め、おつかれさまでした。木藤さんはすごいです。偉いです。尊敬してしまいます。どうか、私たちに、あなたにお礼をするチャンスをください。もう、会わないなんて言わないでください」
はい。と言う以外に、なにか言えることがあっただろうか。だれか知っているなら、教えて欲しい。
ハンカチを優しく目元に当てられ、視界が開けた。
「木藤ハナさん、結婚を前提にお付き合いをしていただけませんか?」
はい?
「了承していただけるんですね? ああ、良かった」
いや、今の、はいはそっちのはいではないです。
「待ってください!」
「どうしましたか?」
「あの! あたしの話をちゃんと聴いていたのですか?」
「はい。聴いていましたよ」
「あたし、もうすぐ死ぬんですよ? 病気なんですよ? 入院しちゃうんですよ? なのに、結婚? 結婚って? 結婚を? 前提に? お付き合い? お付き合い? 交際?」
「落ち着いてください」
「落ち着けません」
「では、段階を踏みましょう」
「段階?」
「私は、木藤ハナさんのことを愛しています」
「……うそ」
「本当です。なので、私は、木藤ハナさんと結婚を前提に交際の申し込みをしたいです」
「うそだ」
「本当です。すずも喜びます」
「死ぬのに?」
「生きます」
「あ! わかった! あたしの財産が目当てですね? わかっちゃいましたよ。ふふん」
「違います」
「でも、残念ながら、入院費やお薬代、治療費などで、財産という財産は残らない計算なんですよ。土地も家も持っていませんし。むしろ、死亡後の葬式で赤字になる可能性もあるんです」
「財産目当てではありません。せっかく、段階を踏んでみたのに、これでは意味がなくなってしまったではないですか」
「はあ。すみません。あ! でも、保険はかけておいてあるので、死亡後に保険金が入ります。それですか?」
「それでもありません」
「はあ。そうですか。なら、あたしが福田さんのことを好きすぎて、夢を見ているのですね」
「はい?」
「これだから、恋を自覚してしまうのは、ダメなのですねぇ。恋は盲目と言いますからね。この歳になってから初恋ですからね」
「木藤さん!」
「はい」
「木藤さんは、私に恋をしているのですか?」
「はい」
「両想いですね。結婚しましょう」
あ、あぶねー。思わず、はいと言うところだった。
というか、なんだこの状況は。
頭の中の会話のログを見直す。
あああああああやってしまった! なぜ、自分は恋していると、相手にバラしてしまったのか! それも初恋! ババアな歳になって! 引かれるだけだろうそれは!
違う違う、問題はそこではない。
あたしは福田さんに結婚を申し込まれた。
なにがどうやって、そうなったのか。
「福田さん、正気ですか?」
「正気です。真剣です。真面目です」
「真面目なのは顔だけにしてください」
「それは、私にバカになれ、と?」
「いえ、違いますなんでもないです。とりあえず、結婚は横に置いておきます」
「置かないでください」
「置きます。それで、確認なんですけど、これから要介護になる予定のあたしと、交際をしたい、ということでよろしいのですか?」
「よろしいです」
「すずくんには、どのように説明するのですか?」
「付き合っている間はこれまで通り、三人で会いましょう。同居するときや、結婚するときは、すずに私から話をします。あなたが入院をしたら、あなたが病気になってしまった、ということだけを伝えようと思っています。そしてふたりであなたの側にいます」
「死んだときは?」
「亡くなったことをきちんと説明します。すずならわかってくれます」
「……哀しませたくありません。福田さんも、すずくんにも」
「いいえ。哀しませてください。哀しんで、あなたを想い、あなたが残してくれた想い出を糧に、すずと生きていきます」
これは、果たして、現実的な話なのか。混乱したままのあたしの脳みそでは、判断ができなかった。
なんやかんやあって、交際することになった。結婚の返事は保留だ。
「すずくんのお父さんは、なかなか大胆な人だね?」
「だいたん?」
「すごいってこと」
「とうさんはすごいの?」
「うん。すごいねぇ」
仕事を辞めたので、一日暇になった。
暇になったので、すずくんと過ごす時間を増やした。保育所からの送り迎えはあたしがやって、福田さんの家で福田さんの帰りをすずくんと待つ。
夕食はそのまま福田さんの家で食べる。
夜はあたしの家に車で送ってもらう。
福田さんは、何度も同居しようと提案してくる。あたしが自宅で倒れて、助けも呼べない状況に陥ったら怖いらしい。すずくんもあたしと離れ難いようだ。
でも、これ以上は迷惑がかけられない。あと少ししたらもっと迷惑をかけると思うと、今はまだそこまで負担にはなりたくない。
最近は、痛み止めの量が多くなった。寝ている間に、痛み止めが切れて、痛さに悲鳴を上げながら起きることもしばしばだ。もしも同居して、その悲鳴やうめき声を聞かれるのは嫌だ。すずくんや福田さんに要らぬ心配をさせたくない。
まだ。まだ。まだ。
そうやって、問題を先延ばしにできるのは、先がある人だけの特権であると、知った。
また、一ヵ月が過ぎた。冷たい風が身に染みる季節になった。
体はどこかしら悲鳴をあげている。