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フィルが目を覚ましたのは、いくつもの足音が屋敷内を右往左往する喧騒がしたからだった。
栄養が足りず骨の軋む体を起こすと、そろりと喧騒の方へ足を進める。
ドアから音の先を盗み見れば声だけで、その声の主たちの姿は見えなかった。
「先生! 大変だ!」
「ヨエル、落ち着きなさい」
泣き叫んでいる声の主はヨエルで、それに被せるように宥めるダーヴァスの声がする。不安に駆られ扉を開ければ、二人の声はフィルの部屋より奥の角部屋から聞こえてくるのだった。
その扉が乱暴に空きヨエルは逃げるように飛び出してきた。フィルは咄嗟にその小さな体を抱きとめるのだった。
「ヨエル、そんなに騒いでどうしたんだい?」
「ダン、ダンが……」
顔をぐしゃぐしゃに泣き崩れるヨエルはダンの名を何度も何度も口にした。
フィルは、昨晩会釈をした口のきけない青年の顔を思い出した。昨夜は穏やかに食事をとっていた……そんな彼に何があったというのだろうか。
フィルは泣き崩れるヨエルをその場に残して、奥の扉を少し開けた。
中では大きく揺れる布団と、傍らにはそれを見守るダーヴァスがいた。
隙間からなのでよくは見えなかったが、その息遣いから発作が起きているようであり、ダーヴァスがダンを半分起こし、口を開けさせると薬を流し込んだ。
うまく飲み込めないダンに悪戦苦闘するダーヴァスの様子を見ていた。その緊迫した空気に圧倒され、目を逸らすこともその場から離れることも出来なかったのだ。
ダンとダーヴァスのことを何も出来ずにただ見つめていると、後ろからぐいっと何者かに襟首を引っ張られる。
「私の部屋に来なさい」
振り返るとそこには眉尻を下げた老爺、アーサーの姿が在った。老人、それも右腕だけとは信じられない力でフィルを引っ張ると手前の部屋に引きずり込まれる。
そこもまた、フィルの部屋と同じ造りの簡素な部屋だった。ただ住んでいる年数が長いのか小物が山の様にあり、人のいれるスペースはごく僅かだった。
ベッドに座るように促されて、遠慮がちに座ると、アーサーはその部屋には不釣り合いに立派な揺り椅子に身を任せた。
「ダンは脳を患っているんだ」
「脳を……?」
「ああ、ダンがここに来たのはたしか10年くらい前だ。成人したと同時に脳の病気になってな、言葉が出なくなった。それでここに預けられたってわけだ」
アーサーは揺り椅子を揺らしながら一本だけある右腕で大きくジェスチャーをしながら話す。
「たまに、いや頻繁にか……ああやって発作を起こすのさ。もう私は慣れたものさ。だがね、ヨエルはいつになってもダンの発作に慣れない。きっともう誰も失いたくないんだろうな」
「誰も失いたくないって?」
アーサーはフィルの質問に答えるのを躊躇った。
それでも首を傾げながらまっすぐに聞くフィルに、アーサーは嘘を吐くことが出来なかった。
「ここにいれば、家族が増える。1人モンの病人は行き場を失ったらここに来るんだ。だが、誰もが病を抱えている。ダーヴァス先生と手伝いのリナ以外はみんなそうじゃ。ここにいればいるほど、家族は増えるが、それとともに別れも多いのだ」
「ヨエルはいつからここにいるの?」
「ヨエルが5歳の時だから7年前だな。あいつは孤児じゃ、本物の家族を知らない。7年間たくさんの父、母、兄、姉、弟、妹が出来たが、残ったのは私とダンだけだ」
アーサーは古傷だらけの顔を歪めた。
廊下からはダンの部屋の前で泣き崩れるヨエルの悲痛な叫びがまだ聞こえてくる。
12歳にしては幼すぎるヨエル、綺麗すぎるヨエル。フィルは彼の人生を思うと悲しくも、そして少し羨ましくもあった。
本物ではない家族に愛されながら過ごしたのだろう、と。
「さあ、私はヨエルを迎えに行こうかな。フィルはどうする? 行くかい?」
「うん」
二人は立ち上がると、崩れ落ちたヨエルの元へ寄る。その瞬間、閉ざされていたドアが少し開いた。
「ダンの発作はなんとか納まりましたよ。さあ、安静にしている患者の邪魔してはいけませんよ。朝食にしましょう」
「そりゃあ、よかった。さ、ヨエル、フィル。行こうか」
アーサーは治療を終えたダーヴァスの後に続いた。
ヨエルはまだべそをかいていて、何度もダンのいる部屋の扉に振り返っては先に進もうとしない。朝食がどうでもよくなる程ダンの容態が心配なのだろう。
「ヨエル、もう行こう」
フィルは進もうとしないヨエルの腕を引いた。
「だって、俺たちが朝食を摂っているうちに容態が変わってたらどうするんだよ」
そう言って、頑なにその場を動こうとしなかった。
アーサーとダーヴァスはすでに階段を下って行ってしまっている。
「大丈夫だよ」
フィルは笑顔でそう言うともう一度強くヨエルの腕を引き、無言で睨み返す彼に向かって自信満々に続けるのだった。
「今日、ダンが死ぬことはないから」
「……なんでそんなこと言えるんだよ!」
声を荒げるヨエルはフィルの腕を振り払う。その目には涙が溜まっていた。
「えっと……僕、ちょっと医学の知識があってね。脳を患っている人は大きな発作で死ぬことはないんだって」
「本当か?」
「うん、医学書でそう読んだから」
そこでやっとヨエルの足が動いた。まっすぐに階段に向かっている。
ほっと溜息を吐くフィルはその後を追ったのだった。
この時、フィルは二つの嘘を吐き、一つの真実を告げていた。
一つ目の嘘はフィルに医学的な知識があるということ。フィルには医学の知識どころか、難しい読み書きは困難だった。敗戦後、様々な国の言葉が行きかうこの国では成人になるまでにそのすべての言語を習得するのだが、フィルは自国語の初等部までの読み書きで手いっぱいだ。
そして、二つ目の嘘は勿論脳を患う者は発作では死なないということ。これもヨエルを宥めるためにその場で考えた嘘だった。
その優しい嘘の中にも一つだけ真実がある。
――大丈夫だよ……今日、ダンが死ぬことはないから
この言葉だけは誰によっても覆されることはない真実なのだった。
フィル・ベインには恐ろしい秘密がある。それは誰にも、乳母のサマンサにでさえ言ったことのない重大な秘密なのだった。