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アルダートン医院にきて初めての食事は根菜のスープと白いパンだった。
今までフィルは使用人と同じメニューの食事をしてきたのでそのメニューがとても美味しく感じた。根菜のスープもだが、特に白いパンは柔らかく噛むほどに甘くなったのには感動した。
大きなテーブルに全員が座り、食卓を囲む形で各々が食事をとる。フィルとってはなにもかも初めての体験だった。
乳母のサマンサがこのメニューを食べたらなんというだろうか。フィルの脳裏にはライ麦のパンしか食したことのない彼女の笑顔が浮かんだ。
「みなさん、今日から新しい仲間が増えますよ。そちらのフィルです」
対面して座っていたダーヴァスが、皆にフィルを紹介した。
「フィル・ベインです。どうぞよろしく」
昔に読んだ絵本の真似事をしてお辞儀をした。
「俺、ヨエル! 久しぶりに年が近い奴に会ったよ。よろしく」
「うん……よろしく」
間髪入れずに挨拶をしてきたヨエルは此方に手を伸ばしてきた。フィルは首を捻るとヨエルは小さな声で握手だ、と言った。
「あ、ごめん」
「フィルって姓名があるのに握手を知らないのな」
その一言はヨエルにとって悪気のない何気ないものだった。
この国では普通より上級階級の者しか姓名をもらえない。貧しく、スラムのような場所で生きる者にとっては姓名どころか名もない人間だっている。
姓名を持つ者は教育がされているという証拠なのだ。
「ヨエル、そういうことをいうもんじゃあない」
ヨエルを軽く叱ったのはその隣に座っていた、老人だった。先程、ヨエルを膝に乗せて歌っていたその老人は顔にもいくつかの傷があり、左腕は肘から先がなかった。
歳は見たところ老医師のダーヴァスより上のようだった。
「この子はまだ幼い。傷ついたかもしれんが許してやってくれ」
「いえ……大丈夫です」
「私はアーサー、戦争で左肘から先を失くしたがまだ元気な老いぼれじゃ。よろしくな」
アーサーは左腕を上げて見せた。気のよさそうな老人はむくれるヨエルを窘めて余ったパンを分けてやっている。
「私はリナ。ここの患者じゃなくて手伝いをしているわ。常にいるわけじゃないけれど、よろしくね」
そう声を掛けてきたのは若い女性だった。ずっと患者だと思っていた女性はここのお手伝いだったのだ。
独特の顔立ちから異国人ということが分かる。言葉のアクセントも少し訛りがあった。
フィルはリナの隣を見る。寡黙そうな青年が、フィルをみて会釈をした。フィルもつられて返す。それを見た青年は何も話さず、顔を正面に戻しもそもそとパンをかじり始めた。
「彼は、ダン。言葉が不自由なのです。ダンもフィルを歓迎していますよ」
「そっか。よろしくね、ダン」
ダンは再びこちらを見て、深いブラウンの瞳を細めた。言葉も不自由なのだが、口全体が不自由なのだろう。彼の周りは食べかすがひどかった。
それぞれの早さで夕食は終わる。最初に食べ終わったヨエルは、アーサーの右腕を引き二階へと続く階段を上っていった。
ダンはリナの介助の元、半分ほどになった根菜のスープを食べ進めている。
その様子をぼうっと眺めていると食器を片づけたダーヴァスが寄ってきた。
「フィル、診察をしてもいいですか?」
「うん、いいよ」
椅子に捕まり、立ち上がる。足の痙攣はすっかり納まったようできちんと自立することができた。
「それでは行きましょう」
立てることを確認したダーヴァスはゆっくりと診察室に足を進める。当初とは違い、フィルを支えることはなかった。
診察室は夕食を取った暖炉の部屋と繋がっている。せまい部屋だが、清潔だった。
しかし、フィルは苦しい時ばかりこの部屋に来たせいかあまりこの部屋は好きではなかった。
「それでは服を上げて……」
ひんやりとした物が胸部へと当たる。聴診器とは長い付き合いだったが、最初の感触はいつになってもなれなかった。
幾度も聴診器はフィルの体を冷やし、背中を一周したところでその不快感はなくなった。
「今は随分落ち着いているようですね。今晩も発作はないでしょう」
「もう、終わりなの?」
「ええ、あなたのお部屋に案内しますよ」
呆気なく終わった診察に驚きながらも、ゆっくり歩くダーヴァスの後を追った。
暖炉の部屋に戻るとダン、そしてリナの姿もなく暖炉の火だけがそこに誰かがいたという形跡を伝えている。
ダーヴァスは手持ちのランタン二つに火を灯すと、一つをフィルに渡した。
さきほどヨエルが駆け上がっていった階段を上ると、すぐ手前の部屋に通された。
「さあ、ここが今日からフィルの眠る場所です」
ランタンを高く上げて照らされた場所は昨日まで寝ていた部屋と同じくらいの小さな部屋だった。
ひとり用のベッドに、机に椅子、それからクローゼット。棚には何冊か子供向けの本が置いてある。
フィルの部屋と違うのは、ラグもベッドの布団も埃っぽくなく、暖かそうなことだ。
「素敵な部屋だね」
「気に入ってもらえましたか?」
そういうダーヴァスの顔は暗くて見えないが、声色は嬉しそうだった。
机にランタンを置くと、フィルは階段を上っただけでくたくたな体をベッドに預ける。
「夜はランタンに火を灯して構いませんが、眠るときは必ず消してくださいね」
「じゃあ、もう消そうかな。なんだかとってもふわふわしちゃって」
「おやおや、眠くなってしまったのですね」
ぼんやりと宙を見つめるフィルの目をしわくちゃの手が覆う。
「それじゃあ、今日は先生が消しましょう。おやすみ、フィル」
「おやすみなさい」
明かりはすぐに消えて、ゆっくりと規則的な足音も消えていった。
フィルは仰向けになりながら、唯一外が見える窓を見上げる。外は雨のようでシトシトと土を濡らす音だけが鼓膜に響いた。
いつもなら、発作の引き金になるだけの嫌な雨も今晩だけは子守唄の様に聞こえる。
フィルはまどろみながら、家のこと、サマンサのこと、両親のこと、これからのことを考えた。
いつもなら冴えて一晩考えるはずなのだが、今日だけはそれをまどろむ意識に邪魔をされる。
「まぁ、いいか……」
そうつぶやいた瞬間、フィルの意識は深い睡眠の中に旅立ったのだった。