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くたびれた白衣を着た老爺は、小さな眼鏡を上げて驚く様子もなくフィルに笑いかける。
しわくちゃの手を掴んだフィルも同じく笑顔を返した。
「やあ、フィル。昨日は随分な発作を起こしたようですね」
丁寧な物腰の老爺は、まだふらつくフィルを軽々と支え椅子に座らせる。
「うん、でももう大丈夫だよ。ダーヴァス先生」
ダーヴァス・アルダートンはこの世に存在する医者の中で最も変わった医者だった。
ダーヴァスはこの国で唯一患者から金をとらない医者なのだ。
シュヴィアーノでは病人への差別が厳しく、医者も医療費は高額に取る者が多かった。国柄、病人が少なく患者が少ないのがその背景にあるのだ。
それなのに、ダーヴァスは弱き者を蔑み、見殺しにすることはしなかった。例え三日以内に命を落とす浮浪者であっても、躊躇いなく医院に迎え最期を見送った。
その慈善的な老医者の行動はこの国では異端な物であり、称賛されるどころか掃き溜めの行く場所だとかゴミ捨て場というように言いたい放題にされている。
フィルは自身の葬式から大きな発作があると、必ずここに診察に来た。
ダーヴァスは変わり者だと言われているが、どんな特殊な事情があっても患者を見捨てることはしない。フィル自身も、全く愛情を傾けない祖父の代わりにダーヴァスのことを祖父の様に懐いていた。
木で作られた簡素な椅子から横を向けば大きな暖炉がぽっかりと口を開けている。その中にはオレンジの炎が家の中を優しく暖めていた。周りにはもう行く宛てのない患者たちがその光を囲んでいた。
下はフィルより小さい子供から老人まで、赤の他人である彼らはまるで家族の様に寄り添っていた。
床に座りある者は本を読み、ある者は歌を口ずさんでいる。皆、孤独なひとり身であるはずなのに共通するのは、とても穏やかな表情をしていることだ。
現在この病院にいるのはフィルを含めて5人の患者のようだ。
その中でもとびきり穏やかな表情をしているのは此処の家主であるダーヴァスであり、その笑顔を湛えてフィルに尋ねた。
「フィル、今から少し診察をしてもいいですか?」
「あ、うん……でも」
フィルは隣に置かれた大きなトランクを見つめた。この中に入っている物は想像がつく。フィルの衣服だろう。予感が当たっていればフィルは終着の家に置いて行かれたということになる。
「トランクの中が気になりますか?」
「僕は捨てられてしまったの?」
馬車の中でずっと塞き止めておいた不安がぽつりと漏れる。
「フィルは捨てられたと思っているのですか?」
ダーヴァスは確信に触れず再び質問で返してきた。
「もう、父様はいつもみたいに迎えには来ないような気がして。昨年、妹に婚約者が出来てから僕への態度がより冷たくなったから」
メアリーが8歳の誕生日に隣町の公爵の二男をベイン家の婿に迎えることが約束された。結婚が出来る14歳まではメアリーにより質の高い教育を施されることが決まったのだった。
元々当たりのきつかった父がその日を境により厳しく当たるようになった。
世継ぎが決まってしまえばフィルはますます邪魔になるだけなのだ。
「先生は君を捨てる、とは聞いていないですが、どのような事情にしてもこの場所で穏やかに治療に専念してもらいたいですね」
「そっか……」
「先生と一緒にいるのは嫌ですか?」
フィルは慌てて首を横に振った。それを見たダーヴァスは目じりの皺を更に深く刻んだ。
「やはり、診察は夕食後にしましょう。長く馬車に揺られて疲れたでしょう。何かお飲みなさい」
そういうと、ダーヴァスはフィルを置いて奥の部屋に消えていく。そこは簡素なキッチンでお茶を淹れるために離席したようだ。
それを見計らった子供がダーヴァスにお菓子をねだろうと駆け寄る。
そんな様子を見て、フィルの中では寂しさや悲壮よりも心地よさの方が勝ったのだった。
暫くしてダーヴァスはガラスでできたティーポットとカップを持ってきた。
そのガラスの中ではハーブが踊っていて柔らかな緑で湯を色づけていた。
「ダーヴァス先生! お菓子! お菓子ちょうだい!」
妹のメアリーと同じ年くらいの少年がダーヴァスの膝にかじりついていた。
「こらこら、あと1時間ほどでお夕食ですからいけません。その代わり食後にミルクを温めてあげましょう」
「ほんと? シナモンスティックも?」
「ええ、だからあと少しお待ちなさい」
少年は勢いよく返事をすると、揺り椅子に座る老人の元に駆け寄っていった。
「あの子はヨエル、12歳で歳も近いから仲良くしてやってくださいね」
「えっ! あの子12歳なの? もう少し歳が下だと思っていたけれど……」
フィルはヨエルの方にちらりと目をやった。たくさんのそばかすに負けないように目立つ赤髪の少年は細い声で歌う老人の膝に座り、自らの歌声を重ねた。
その体格、表情、喋り方を見ても幼い子供にしか見えなかった。
「彼は心臓に病を抱えていて、体の発育は人より少し遅いのですよ」
「そっか。それでも元気いっぱいだね」
フィルは茶の注がれたカップを受け取る。蒸気からはすうっと通るようなさわやかな香りがして、ミントといくつかのハーブが調合された薬膳茶のようだった。
一口飲み込むと、ほのかな甘みと清涼感がフィルを満たした。
「先生、ありがとう」
「いいえ、もうすぐ夕食になりますからその時にみなさんを紹介しましょうね」
ダーヴァスはフィルの飲み終えたカップを受け取るとまたキッチンの方に消えていった。
フィルは手持無沙汰になり、ダーヴァスを手伝おうと立ち上がろうとする。
その想いとは裏腹に、がくりと膝が折れ自立できなかった。
何とも情けなくなり、椅子に這うようにして座り直す。まだ完全に発作の後遺症が治っていなかったのだ。
賑やかな暖炉前を見つめ、小さくため息をつく。
薪がパチパチとなる音さえ、ゆっくりに感じて言い知れぬ焦燥感がフィルを襲った。
せめて、賑やかなあの場所に行ければ……そう願う時間はたった数分なのに、外で遊ぶことを渇望した10年間と重なる。
うっすらと双眼が涙で潤った時に、ダーヴァスが食器を抱えキッチンからゆっくり現れた。
「さあ、夕食にしましょうか」
フィルにとって、ダーヴァスの言葉はまるで神の救いに感じたのだった。