2
フィルの意識がはっきりしたのは小鳥の声が聞こえたからだった。天窓を見上げれば曇り空で、いつでもそこから雫が落ちてきても不思議ではない。
小鳥の声で朝が来たのだと感じたフィルは、昨日悲鳴を上げていた胸をトントンと軽く叩いた。
隣にはうっすら隈を作ったサマンサがフィルの目覚めに気が付いて、そのふくよかな頬を持ち上げた。
「坊ちゃま、おはようございます。体の調子はどうです?」
「うん、大丈夫みたい……少し胸が重いけれど」
掠れた声に、サマンサは嬉しそうに笑ってフィルの細い体を起こすのを手伝ってくれた。
テキパキと服を着替えさせられ、暖められたタオルで顔や手足を拭かれる。
昔から身支度をさせるのは乳母であるサマンサの仕事だ。しかし、その準備は伯爵家の長男がする仕度とは大きく違っていた。
着替えが終わるとシーツ布で体を巻かれ、麦を入れる袋に自ら入る。すぐにフィルが入った麻袋がサマンサに持ち上げられる。フィルはこの部屋から出る時は決まって荷物として運ばれるのだった。
「さぁ、坊ちゃま。ダーヴァス先生の所へ」
「僕はもう十五、三年後には成人だと言うのに恥ずかしいね。重いでしょう?」
恥ずかしさに消え入りそうな声で言うと布の上からサマンサの手がポンポンと背を撫でた。
「いいえ、坊ちゃま。サマンサは嬉しゅうございます。いつまでも我が子の様に坊ちゃまを抱けるのですから」
そう言うとゆっくりと歩き出した。
他の使用人にフィルの存在が発覚してしまうのも問題だが、発作が起きると筋肉が痙攣し、翌日は自力で歩くことができない為いずれにせよ荷物として運ばれなければならない。それに、いつも雑穀や麦の束を運んでいるサマンサからすれば、その荷物と同じくらい、否フィルの方が軽くさえ感じるのだった。
「あら、サマンサ。旦那さんと出かけるのかい?」
「そうなんだ、ちょっと遠くに買い付けに行くのさ」
暫くの規則的な揺れの中、他の使用人に挨拶をするサマンサの声をぼんやりと聞いていた。幼い頃はばれやしないかとびくびくいていたが、幾度も繰り返していくうちにこの状態にも慣れてしまっていた。
暫くして、フィルは優しく降ろされた。フィルの視界は尚も暗闇が広がるが、濡れた土の匂い、馬の息使い、そして、袋越しに伝わる板の感触から馬車に積まれたことを理解した。
隣のぬくもりは、寄り添うようにして乗車したサマンサのようだ。
「馬を出してくれ」
前方から父の声がすると、ゆっくり馬車は動き出す。
カラカラと滑車が回り、時に馬の鳴き声がする。地面が余程ぬかるんでいるのか、車輪は悲鳴を上げ、馬も足を取られ不機嫌そうに息を吐く。
何度も回る車輪の音を聞きながら揺られていると、麻の袋が開き光と共にサマンサの顔が見えた。
「もう、大丈夫ですよ。苦しかったでしょう。お顔を出してくださいまし」
フィルは冷たい新鮮な空気を吸うと急な光で霞む目をぱちくりと瞬きをした。光に慣れればそこは荷台で、一緒に乗っている筈の父の姿はなかった。
「父様は前に乗っているの?」
「ええ、御者と話があるんだそうですよ」
サマンサはそういうといつも持ち歩いている手さげ袋からライ麦のパンを出す。
「あと半日は乗りますから、少し食べてくださいな」
「……あ、ありがとう」
フィルはなんとなくだが、父は御者に話があるわけではないと悟った。
それでもそのことを口にしなかったのは、サマンサの顔から笑顔を奪うのが嫌だったのだ。
決しておいしいとは言えないライ麦パンをかじりながら、寒さに耐えきれずフィルはサマンサに身を寄せた。
そうすると彼女は嬉しそうに、身を寄せてきたフィルに薄い布切れを掛けてやるのだった。
北国の一部の国の雨季は二月から九月までの長い期間だ。今は雨季始まり、極寒の二月初旬。フィルの纏う服だけでは寒さを凌げなかった。寄り添うサマンサの体温だけが、それを癒してくれる。
少し突けば泣き出しそうな雲の下、荷台を引いた馬は暗い森へと入っていくのだった。
「……旦那様、本当に坊ちゃまをあのような場所に置いていくのですか?」
ぼんやりとした意識の中、隣にいるサマンサの怒りの混じった声が聞こえる。しかしそれは不安に消え入りそうで、普段穏やかな笑顔しか見せない彼女からは想像もつかない声だった。
フィルの正面にはもう一つの気配。そこで自分は今まで寝てしまっていて、目の前に父がいるのだと自覚した。
フィルは咄嗟に目を瞑り、寝息の様に深く呼吸をする。
「ああ、大丈夫だ。この子は先生によく懐いている」
「し、しかしです、旦那様! まだ坊ちゃまの容態はそんなに悪くない筈です」
叫びとも取れるサマンサの声はすぐに鞭がしなる音と馬の声に消される。
「もう決めたことだ、サマンサ。口答えをするな。もうすぐ到着するからこの子を起こして袋に入れておいてくれ」
「…………はい、旦那様」
淡々とした言葉を残してすぐに父の気配は消えた。
それからフィルの頭に何度かぬくもりを感じる。それはサマンサの手のひらで、慈しむように何度も何度も彼の頭を撫でていたのだった。まるで幼子を子守唄で寝かしつけるように。
その手が止まると、いつものように明るい声が降ってくる。
「坊ちゃま、起きてくださいまし。もうすぐお運びいたします」
何度か肩を揺すられると、フィルは瞼を上げた。わざとらしく伸びをし、目を擦りながらサマンサを見上げる。
「うぅ、わかったよ。僕は眠ってしまったみたいだね」
「ええ、ぬかるみで馬車も揺れておりましたので、寝ていて正解でしたよ」
フィルは自ら麻の布袋に入る。中には毛布が敷いてあって、万が一に落としても衝撃が少なくなるようになっていた。
わずかに麦の匂いが残るその袋の中で、フィルはサマンサと父の会話の真相を探していた。
そんな中、馬車の揺れはなくなりぴたりと止まる。
「サマンサ、着いたぞ。早く荷物を降ろせ!」
父の厳しい声が荷台に響いた。
自らの体が浮くのが分かり、そして土を踏むサマンサの靴の音。御者と父の声、そして馬の鳴き声も段々に遠ざかっていく。
フィルには自分がどこに連れられているのかが分かった。
馬車の音が遠ざかると、麻の袋が開けられる。
視界に広がったのは木の内壁と大きなレンガ造り暖炉だった。
袋を脱ぐようにして抜け出したフィルに手を差し伸べたのは、乳母のサマンサではなく真っ白な髭を蓄えた老爺だった。
ここはアルダートン医院。またの名を“終着の家”。
フィルは情けなくぽっかりと口を開けながらその老爺の手を掴んだのだった。