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ここは北国、シュヴィアーノ。高い山々に囲まれたこの小国は、貴族たちが政治を握る少々変わった国だ。そんな誇り高きシュヴィアーノは世界でも有数の長さを誇る雨季、その長雨が始まったばかりだ。
しとしとと止むはずのない雨音の中、貴族たちが揃って家を構えるある街でひとりの少年は苦しんでいた。
その少年は寒い中額に汗を滲ませ、瞳にも涙を溜めている。
じめじめとした石作りの倉庫のような部屋で彼は胸部を激しく上下に動かしていた。
「く、苦し……い……パ、パ…………ママ……」
少年の口から洩れた声は、最も傍にいてほしい人物を呼んだ。
絞る様に出された声は微かに震えて、そして雨音に溶けて行った。
「ごめ、ごめん、なさい」
何も悪いことをしていない筈の彼は頭をベッドに付けて懺悔する。それは法を犯した罪人が教会にて神に許しを請う様によく似ている。
そんな彼は空気を伝うことのできない声でこう言ったのだ。
――もう、悪いことはしません。だから神様、呼吸をさせてください。
フィル・べイン、それがこの哀れに懺悔する少年の名である。
べイン伯爵家の長男として生を受けた彼は、皆に祝福されフィルという偉大な名前を付けられたのだった。
フィル・シュヴィアーノ……強国に囲まれた痩せた土地を北国 シュヴィアーノとして建国した偉大な貴族の名前である。
この国では赤子でも知る著名人の名を付けられた少年は、彼の様に偉大な貴族になるはずだった。
その期待を打ち砕いたのは二歳になった時、フィルの肺には重大な欠陥がみられたのだ。
祖父は怒り、父親は落胆した。
それはシュヴィアーノでは病人に対しての差別はひどいものだからである。
貴族が治めている国と言え、怠惰を悪とし、働き者が称賛される民族性なのだ。
三十年前シュヴィアーノ国は西国四強国との戦に敗戦、そのため東西南北の地区が四つの国によって支配されることになった。
その中でべイン家は西にある一つの地区を統治を任される由緒ある伯爵家だ。
敗戦しても尚、病人は兵士にも主君にもなれぬ厄介者だと差別されるこの時代で、伯爵家に病人がいるとなれば民への示しがつかないのだ。
そのためフィルは3歳の時に不幸の事故で死んだことになり、今は使用人室の隣に隠されている。
フィルは一度自分を殺してくれと頼んだこともあった。それを聞いた母は泣き叫び、そのまま心を患った。母もたくさんの重圧や非難があったのだ。それでも頭を下げて、命を助けてくれたのは母の懇願あってこそとフィルが知ったのはつい最近のことだった。
自身の葬式から十二年間、彼は肺を蝕みながら息をしている。
呼吸は時計の針が進むごとに酷くなり、溢れ出る涙がシーツに滲んだ時、フィル隣の布団がピクリと跳ねた。
「お兄様……? フィル兄様! っ大変! 早くパパとママを……!」
それはただ一人の妹、メアリーだった。絶叫するように何度か名前を呼んで勢いよく部屋から出て行った。
フィルの代わりに世継ぎとして生を受けたメアリーは二歳の誕生日が来ても何事もなく元気で、今年九つになる。フィルとは正反対の薄い色素の髪を揺らして、部屋から出て行ってしまった。
まだ幼い彼女は何事にも興味を示し、純粋に愛らしく成長している。
彼女は何日かに一度この狭く埃っぽい部屋に眠りにくる。こんな部屋より広くてきれいな自室があるにもかかわらず、兄のベッドに寝に来るのだった。兄らしいことは何一つしていない。読み書きだってもうメアリーの方がうまくできる。それなのにメアリーは兄を蔑んだり、避けたりすることはなかった。
彼女は貴族らしからぬ娘なのだ。
強くなる雨と共に気管が狭くなっていく。フィルはボロボロになった枕にしがみついて、再び神に懺悔した。心の中で神なんていないくせにと悪態をつきながらも、彼にはそれしか息を楽にする方法が分からなかった。
遠くから複数の足音が聞こえてくる。それは両親のもので、残り二つの足音は妹のメアリー、それから唯一この少年の生を知っている乳母のサマンサだろう。
「フィル! ああ、呼吸が……サマンサ、薬を。それとアナタは先生に連絡を……」
「無理だ、この雨じゃ馬も走らせられない。明日雨が上がったら朝一番で連れて行こう」
「このままじゃフィルの呼吸が止まってしまうわ! まだアナタはお爺様の言うことに従うの? もう戦争は終わったのよ!」
父親の言葉を聞いた母が顔を真っ白にして叫んでいる。
夜更けに従い雨は更に強くなる。このまま馬を走らせても馬車の車輪がぬかるんだ土に埋まってしまうのは明白だった。
「この子を生かせてもらっているだけ感謝したらどうなんだ!?」
父の怒鳴り声に更に気管が狭くなる。くらくらと回る意識の中、メアリーが泣きながらフィルの腕にしがみつくのだけは認識できた。
言い争いは続き、フィルの呼吸は雨が強くなるにつれ、両親の声が大きくなるにつれ激しくなる。
フィルが咳こむのも無視し、両親は遠くで喧嘩をしている。
父の怒鳴り声、妹の泣き声、母の絶叫……音が飽和し、それは雨音と風音に融解していった。
「旦那様、奥さま。薬の準備が出来ました」
フィルの意識は薬を飲ませるサマンサの手を見ながら途絶えた。
遠くではまだ両親が喧嘩をし続けていて、そこから遠ざけるようにサマンサが静かに自らを抱きしめる暖かな感触がする。
フィルは自分が原因で何回も母親の涙を見てきた。それを見るたびにどうしたら自分を見て笑ってくれるのだろうと頭を悩ませる。
そんな時に見る夢は決まって空想の父と母が笑っている夢なのだった。