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暦は九月二十四日。北国は早くも冷え込み、あとひと月もしないうちに雪が降り出すだろう。
暖炉の薪の準備をする家庭も増えた頃、すっかり雨は降らなくなっていた。
九月になり、シュビアーノ国は一か月という短い乾季を迎えていた。その後は雨季に入る二月までふた月ほど降雪期となる。
冷たく透き通るような空気の中、ダーヴァス医院の敷地では賑やかな笑い声が飛び交っていた。その賑やかさは室内のダイニングではなく、外から聞こえてくるのだった。
その声を追っていけばフィルがヨエルの手に引かれる姿が見える。たっぷりの厚着を心配性のアーサーに着せられた二人は花壇の傍でその草花を見つめている。
「これは雪啼き草だろー? それからこれが枯れちゃった夏いちごの苗……でも四月になればまた根からまた芽が出るんだぜ。だから抜いちゃだめなんだ」
ヨエルは嬉しそうに声を弾ませて、咲いている草花の名前を読み上げた。
二人が体調のいい日はこうして少しの時間外に出ることが許されていた。フィルはここにきて初めて気兼ねなく外を歩き回れるようになり、土や草、花と戯れることが楽しみになった。
地面に生える草や花などはどれも見たことがなく新鮮で、それらに詳しいヨエルが手を引くたびに心が高鳴った。例えそれが名もない雑草であっても触れあい、時には摘んで帰りリナに飾ってもらうのだった。
土の匂い、冷たい風、鳥や小動物の鳴き声。フィルにとってどれもが最高の教科書であり、おもちゃでもある。たまに住人の皆でやるカードゲームよりも楽しい物だった。
そして自然を満喫した後、医院に戻る前には決まって家族たちの墓の前に来ていた。
「ダン、ゆっくり寝てるか? こっちではもうすぐ雪が降るんだぜ。外だと寒いよなー」
「でもみんなもいるからきっと暖かいね」
ヨエルは墓石に向かって話しかける。フィルはぼろき布でダンの墓石を拭いてやっていた。
といっても、いつ来ても墓石たちは綺麗だった。年月が経ち、雨で削れ文字が読めなくなっているのもあるが、状態はとてもいい。
それはアルダートン医院の主であるダーヴァスが定期的に掃除しているからで、しかしそのことを知らない二人は今日も家族たちの眠る場所を磨いていった。
急にヨエルが立ち上がると、きょろきょろとあたりを見回す。フィルは屈んだまま彼を見上げた。
「フィル、なんか聞こえないか?」
ヨエルは眉根を寄せてフィルに尋ねた。
フィルは立ち上がると辺りを見渡すと目配せをして耳を澄ませた。
その音は玄関のそのまた奥、街に続いている細道からするようだった。
カラカラと回る滑車の音。それと微かに動物の鳴き声。
「……なんだろう? もしかして馬車かな?」
「馬車? フィルがやってきて以来馬車なんて来ていないのに!」
ヨエルは髪の色と同じ真っ赤な眉の下にある双眼を輝かせて細道を凝視した。
ここアルダートン医院を訪ねてくるものは非常に少ない。貧しいものはスラムで野垂れ死に、貴族であっても病人は見殺しにされてしまうことが多いからだった。
フィルが入院したのも実に三年振りだったという。
ダーヴァスは馬車を使わないし、今はアーサーの診察をしている筈だった。
そもそも馬車というのは貴族の乗り物であり、一般市民は到底手に入らないものだった。ヨエルは絵本で見た馬車や乗り物に惹かれ憧れていた。
輝く瞳のヨエルを連れて墓地から門の方に移り、レンガの壁から寄り添ってその道を凝視する。
時間が経つほどその音ははっきりと明確に聞こえてくるのだった。
「見ろよ! やっぱり馬車だ! 誰だろう? 今日リナは来ない筈だし……」
「ジャロさんは?」
「あいつは馬に乗ってくるから馬車は使わないんだ」
ジャロの名を聞いて顔を顰めたヨエルは道の先を再び見つめた。
フィルはもしかして、とありえない考えが頭に浮かんだ。どうもこの音に聞き覚えがあったのだった。
やっと見えた馬車は漆黒の馬二頭が引いていて、手綱を握る御者には確かに見覚えがある。
「……なん、で?」
不安から言葉が滑り降りる。門に入ることなく敷地から少し遠くに止まった馬車は間違いなくべイン家のものだったからだ。
御者が恭しく荷台のドアを開ける。そこから小さな影が飛び出した。
品のいい深い赤のショートドレス、ヨエルと同じくらいの背丈の小さなレディだった。
「フィル? どうしたんだ?」
唖然として固まるフィルをヨエルが揺らす。
そこにいたのは半年以上前にさよならも言わずに別れた妹、メアリー・べインの姿だったのだ。
思わず壁に寄り添い身を隠した。何故妹から隠れてしまったのかフィルには分からなかった。
メアリーは貴族らしからずドレス、そしてほんの少し高いヒールのまま走り出し、二人の姿に気付くこともなく玄関の扉を何度も叩いた。
「こんにちは! ごめんくださいまし」
何度も叩いていると、ダーヴァス医師が出たのかぼそぼそと話し声が聞こえる。
「なんだ? フィルの客人か? そんな隠れてないで戻ろうぜ」
「う、うん……少し待って」
フィルは大きく深呼吸すると不思議そうに眺めるヨエルを連れて改めて玄関の方に戻った。
「先生、ごめんなさい。もしかしてうちの妹が……」
「フ、フィルお兄様……!」
言い切る前に、妹メアリーに抱きつかれる。その衝撃は貧弱なフィルの体では受け止められなく、後方に倒れていった。
尻もちをつくフィルに構うことなく、メアリーは兄にしがみつく。宥めようと頭を撫でようとも、彼女の涙の方が先に溢れてきてしまっていた。
「とりあえず、お入りなさい」
ダーヴァスは泣きじゃくるメアリーを立ち上がらせて、室内に招いた。
「先生、あの……妹と二人で話がしたいんです。部屋に招いてもいいかな?」
「ええ、いいでしょう。私たちは下にいますから、何があったか聞いてあげてください」
言葉にならない声をあげ、泣き続けるメアリーの手を引きながら自分の部屋へと向かう。状況が分からず後ろから追おうとするヨエルはアーサーの大きな手で止められていた
部屋に招いて、ベッドに座らせる。生憎フィルの部屋には来客用の机は置いてなかったのだ。
落ち着いた妹にフィルは此処に来た経緯を聞きだすことにする。二月にこの病院に入ってから半年以上、誰一人べイン家の人間はここに訪れることはなく、突然の訪問が不思議で仕方がなかったのだ。
「メアリー、いきなりの訪問に驚いたよ。どうしたんだい?」
「二月のあの日を境にお兄様がいなくなって、パパもママも何も喋ってくれなくて。でもお兄様に会いたいから私、結婚を辞めるって言ったの」
言葉を落とすようにメアリーは話し始めた。
メアリーはフィルに会えないのなら婚約を取消し、兄が生きていると公言すると騒いだようだった。観念した父が一年に二度ならアルダートン医院に行くことを許可したらしい。本当に貴族らしからぬ娘だ。破天荒で活発で、せっかくきれいに仕立てた服だって今はもう皺だらけなのだから。
「会いに来てくれたのは嬉しいよ……遠かっただろう?」
「馬車にたくさん乗ったのよ。少し退屈だったけれどご本があったから大丈夫よ」
弾けるような笑顔のメアリーはほんの少しだけ大人びた気がした。あれからまた誕生日が過ぎてもう十歳になったのだ。
あと十年も過ぎないうちに彼女は成人の儀を迎える。それと同時に同じ時を生きられないことがフィルの胸を苦しめた。
「サマンサは……元気かい?」
「ちょっと落ち込んでたけど元気よ。今日も一緒に来れたらよかったんだけど薪割りの仕事があったから……」
メアリーは少し落ち込んで見せるが、フィルは乳母の安否が確認できただけで満足だった。
フィルにとってここに来て一番の気がかりはサマンサのことだった。若いうちからべイン家に雇われてその身を尽くしているサマンサ。子供のように愛でていた坊を失くした彼女はどんな気持ちなのだろうかと。
実の母より恋しくなったのは、あのおおらかな笑顔だった。
楽しい時間は今までの時を巻き戻す様に続いた。メアリーは此処に来るまでの半年間にあったことを話し出す。
馬術の稽古を始めたとかマナーの勉強は苦手だとか。
とりとめのない、幼さの残る会話にフィルは自然に笑顔になっていった。
時間がとても早く感じて、気が付くと空は赤色に染まりつつあった。
「さあ、メアリー。あまりここに長居をしてはいけないよ。お父様が悲しむ。だけどみんなにメアリーを紹介しようね」
「で、でも……お兄様……わたし、まだお話が……」
帰りたくない、胡桃の様に丸い目がそう告げていた。その目を見なかったことにし、フィルはそっと手を差し伸べるのだった。
「とても楽しい時間だったよ。メアリー、さあ」
メアリーを連れて階段を降りる。
簡素なベッドと少しの本しかない質素な部屋。フリルとレースのドレスを纏った彼女にはあまりにも不釣り合いな場所だ。
本当はもっと話をしたい、一緒にいたい。しかしべイン伯爵家令嬢、メアリーがいるべきところはここアルダートン医院ではないのだ。
フィルは自分の心と妹に嘘を吐いてべそをかいた小さなメアリーの手を引いたのだった。
* * *
馬車に乗るメアリーを見送った後、フィルはどこか気が抜けて、火のついていない暖炉をぼうっと見つめていた。真っ暗で明かりもなく、ぽっかりと口を開けた暖炉はフィルの心そのものだった。
「とてもいい御嬢さんだったなあ」
アーサーはわずかに蓄えた髭を左手で撫で、ちらりとヨエルに目をやった。
メアリーをヨエルに紹介すれば、彼の顔は真っ赤になってしまった。いつもより静かなヨエルはメアリーが帰ってからももじもじとしていたのだった。
「あ、あーうん。そうだな、うん」
やけに歯切れ悪く言うヨエルにアーサーは老人ながら悪戯好きな少年の様に意地悪な笑みを湛えていた。
そんな中、フィルはソファーの上でうずくまって頭の中身を必死に整理していた。もう、本物の家族のことは忘れかけていたのだ。それなのにメアリーが来たことによって恋しさ、寂しさが半年前から戻って来てしまっていた。
「フィル、夕飯にしますよ」
「うん、今行くね」
ダーヴァスは皺だらけの顔で優しくフィルに笑いかけた。髪を触れられてさらりと髪が額をくすぐる。
「さみしく、なりましたか?」
ダーヴァスの言葉に肩が揺れる。いつも的確にフィルの心を読んでしまうダーヴァスが今日だけは嫌になった。
「……でも僕の場所はここだから」
少しいじけて見せるフィルにダーヴァスは困ったようにぼさぼさの眉を下げた。
「そうですね。先生はここにあなたがきてとても嬉しかったですよ。ヨエルも、アーサーも、リナも。……もちろん今は眠ったダンもね」
しわがれた声で、しかし滑らかにそういうとダーヴァスはキッチンに戻って行った。
「おーい、フィル! 早くしないとフィルの分も食べちゃうからな!」
いつもの調子に戻っていたヨエルがダイニングテーブルから声をあげる。顔を上げれば、アーサーも肘から先のない手をこちらに振っていた。
本物ではないが、本当の家族……以前感じた確かな感情を再び噛みしめる。
「待って、すぐ行くよ!」
フィルは笑顔のまま家族のいるダイニングにかけていくのだった。




