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Blood ROSE -新芽再演 緑薔薇生誕編-  作者: 鈴毬
第三幕 過ぎれば新芽只嘆く
11/12

2

 ずしり、胸部に圧を感じる。その言い知れぬ不快感にフィルは瞼を開けた。

 視界のほとんどを占めたのは今にも泣きだしそうに顔を歪めたヨエルで、目が合えばその大きな瞳から涙があふれる。


「フィルのばかやろう。心配したんだからなぁ……」


 腫れた瞼には涙が伝っていく。責め立てるようにフィルの体に傾れれば、これが胸部の違和感だったのだと理解した。何故、ヨエルは泣いているのだろうかとその答えをきょろきょろと探してみれば、奥には風邪で寝込んでいた筈の老爺、アーサーの姿が在った。彼はヨエルとは一転、落ち着いた、安心しきったという微笑みでヨエルをフィルから引きはがした。


「驚いたよ。私の風邪が治って下に降りてみれば今度はフィルが倒れたと言うではないか。あれから1日と半日が過ぎたのだよ」


 アーサーはヨエルを片腕で抱き留めて詳細を教えてくれた。

 どうやらリナの手伝いをしようと立ち上がったときに急に発作が起きて倒れたらしい。ダーヴァス医師の処置が終わってもなかなか目覚めず、丸1日眠り続けていたようだった。

 何日も眠り続けることが珍しくもないフィルだが、他の住人にとっては衝撃的で、絶えず誰かが見舞いに来ていたらしい。そういえばここに来て大きな発作も少なくなったな、と今までの生活をフィルは振り返った。


「心配かけてごめんね、ヨエル。僕は大丈夫だから」


 まだ少し重たい肺を押さえてヨエルに語りかける。

 どんなに重い発作が起きようとフィルは死なない。あと528日はどんなことがあっても死なないのだ。

 だから何も心配はない、そうヨエルに言うことはできないがフィルは精一杯にヨエルを宥めた。

 弟分を宥めているうちに喉の渇きを覚え、まだ痺れの感じる足でふらりと立ち上がる。靴を履いて、部屋を出ようとすればそれをアーサーが遮った。


「今は行かない方がいいかもしれない」


 少しばかり怒ったようにアーサーは言った。


「もちろん外には行かないよ。少し喉が渇いちゃったんだ」


「そうかい。……すぐに戻ってきなさい」


 珍しい、フィルは直感的にそう思った。

元軍人である老人のアーサーは常に刻まれた眉間の皺や、傷だらけの顔で厳格そうに見えるが、怒るそぶりを見せるようなことはなかった。見た目とは打って変わりとても穏やかな人なのだ。ヨエルがどんな無茶苦茶な我儘を言っても宥めることはあれ、止めたり怒鳴ったりすることはなかった。

 そんな彼が初めて強くフィルの行動を制止した。僅かな違和感を覚えながらもフィルはにこりと笑いかけた。


「うん、わかったよ。水を飲んですぐに戻ってくるね」


 まだよろめく体を壁に手を当ててつたいながら自室を出る。いつもなら雛鳥の様に後をついてくるヨエルもこの時はしっかりとアーサーの膝に座ったままだった。

 不思議に思いながらもすっかり冷たくなった壁をつたいゆっくりと下に降り、キッチンに歩を進める。

 そこにはお手伝いのリナどころかダーヴァスの姿もなかった。

 リナは手伝いの日ではないとして、ダーヴァスは買い出しにでも行ったのだろう。

 夏とはいえ、気温が上がらずひんやりとした部屋は誰もいないのもあってかひどく寂しく見えた。

 誰もいないからアーサーの目の届くところにいろと言うことなのだろうか。皆のいないこの場所はすっかり寂れた廃墟のように見えた。早く戻ろう、そう流しのコップを取ったとき、上から声が降ってきた。


「これはこれは。こんにちは、坊ちゃん」


「ヒッ!」


 手から滑り落ちそうになるコップを必死に捕まえる。

 その声は幼いヨエルのものでも老いたアーサーのものでも、しわがれたダーヴァス医師のものでもなく、若い張りのある男の声だった。

 警戒をして恐る恐る振り返れば、そこには半年ほど前に見た姿が在った。

 倒れる前に、リナと話をした男……名前は葬儀屋のジャロ。黒のマントに黒のシルクハット。シルクハットにしては大きすぎるつばが、彼の顔をほとんど隠してしまっていた。


「すまない、驚かせてしまったね。わたしは葬儀屋のジャロ、先生を訪ねて来たんだけど」


 帽子から覗く口が笑う。


「フ、フィル・べインです。先生は多分お出かけかと。先生の鞄がないので……」


 以前会った時には気が付かなかったがジャロという男は随分背が高い。父くらいかもしれない。それよりも高いのかも……その答えを見失うくらいにフィルにとって父との思い出は色あせてしまっていた。

 物心ついてから若い男に会う機会が全くなく、今現在も触れ合うことはない。フィルは若い男の力強い雰囲気と背の大きさに圧倒された。

 ジャロの印象と言えば葬儀の時に見た姿で、暗く大人びて見えたが今現在対面すると口調は明るすぎるくらいで、死を司る仕事に就いている者とは思えなかった。

 ダーヴァスは買い付けで外に出ているとなると、もうしばらく帰ってこないだろう。

 そのことを話すと困った、という様にジャロは顎に手を当てた。


「そうかい、それなら少し待たせてもらおう」


 覗いた口がにっこり笑った。初対面の暗く怖いと言う印象がが少しだけ薄まっていった。

 フィルは客人を一人にするのも失礼だと思い、ダーヴァスが帰るまで一緒に待つことにした。

 それでも初めての客人にどうしたらよいのかが分からず沈黙の時間が過ぎる。時計の針や暖炉の薪が跳ねる音がフィルに何か話せと急かしているようにも聞こえた。

 気まずさに、視線を泳がせればジャロは不意に口を開く。


「フィル、上に戻らなくていいのかい?」


「えっと、なんで……ですか?」


 フィルがジャロを見てもシルクハットでその表情は見えない。しかし、その声色は心配しているように聞こえた。


「どうやらわたしはここの住人にはあまり好かれていなくてね。“死神”だと思われているんだ」


 死神……確かにそう見えなくはない。彼は靴からシャツまで全身黒ずくめで白いのはハットから覗くその肌と、手袋だけだ。

 そういえば、とフィルはダンの葬儀の時にヨエルがジャロを睨みつけていたことを思い出した。先程のアーサーとヨエルの違和感は下にジャロが来ていることをわかっていたからなのだろうか。


「死神って……全身真っ黒だからですか?」


「ふ、はははは! 面白い発想だね。そうかもしれない」


 ジャロはシルクハットを押さえながら随分笑った。

 ひとしきり笑って落ち着けば、彼は口を歪めて明るい声色でこう言ったのだった。


「わたしは葬儀屋だ。わたしが歩けば死を運んでくると言われているからだよ。とくにこの国は死を一番恐れている。皆、わたしが化け物のように怖いのさ」


 ざわり、フィルの心臓が逆立った。明るく言い放ったその言葉に恐怖を感じたのだった。

 彼の表情は已然見えない。

 笑っているのか、悲しんでいるのか僅かに緩められた口元だけでは判断が出来なかった。

 シャツからわずかに覗く肌と首がやけに白い。その無機質な肌がダンの最期の姿を思い出させ、余計に恐怖を感じる。


「ごめんごめん、怖がらせてしまったようだ。葬儀屋なんて人に好かれる仕事じゃないさ。……わかってるんだ。でも今、君がこうやって隣に座ってくれたことが嬉しかったのサ」


 シュヴィアーノは戦後混乱の時代だ。敵国となる西国に敗れてから、その敵意を国内の誰かに向けている。働くことのできない病人も、それを世話する医者も、そして死者をあの世に送る葬儀屋もだ。

 悲しき日常は人々の普通となり、苦しむ者の声を無視する。残酷な真実は国を営む上では仕方ないことだった。

 フィルはなにか声を掛けようと思ったが、こういう時に決まって何も言うことが出来ないのだ。その些細な優しさが人の心を抉り、傷つけてしまうのではないかと今一歩のところで自分の言葉を口から出すことが出来なかった。


「あの、ジャロさん。僕は……」 


 フィルが言いかけた時、玄関の木扉が静かに開いた。

 ダーヴァスが街から帰ってきたのだった。彼は食材の入った大きな紙袋を抱えて、ゆっくりと入ってきたのだった。


「おや、ジャロ。来ていたのですね。それにフィル、目を覚ましていたのですね」


「さっき目が覚めて、下に降りたらジャロさんが来ていたの」


 立ち上がって体調の回復を示すと、ダーヴァスは安堵したように頬を緩めた。


「わたしは裏庭に眠るみなさんの花を届けに。もう倉庫に納めてきました。さあ、先生。ここにサインを」


 ジャロはマントから紙切れを出す。


「ご苦労様でした」


 ダーヴァスはさらさらとサインをすると大きな紙袋を抱えキッチンに入っていった。


「それでは、フィル。またどこかで。楽しい時間をありがとう」


 ジャロは右手の手袋を外すと、その細く筋張った指をフィルの髪に絡めくしゃくしゃと掻き交ぜた。

 ひんやりとした感触がフィルの頭を冷やす。


「は、はい。また……」


 遠慮がちに手を振れば、彼は風の様にその場から去っていった。

 “楽しい時間をありがとう”話したことは一言二言なのに本当に楽しかったのだろうかと頭を捻る。不思議な男の記憶と疑問はその後のヨエルとアーサーの豪快な足音によってかき消されていくのだった。

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