50.赤と黒の旅立ち
赤いドレスをまとう女が、黒いドレスの少女に投げたのは袋だった。
じゃらり、と心地よい音色を奏でるのは、内部に充満した金貨。
成人の頭ほどの大きさの袋は、全部で十個。これだけあれば、豪遊さえしなければ一年以上はのんびり暮らせるだけの、明らかな大金。少女はそれを、一瞬で消してみせる。
少女はただ、腕を軽く振っただけだ。
相対する女は笑みを崩さない。
目の前の少女がもしも『噂通りの魔女』ならば、現状では不可能とされる人体の空間隔離魔法式さえも、きっとたやすく行うだろう。成功? それは別問題だ。ただ挑戦するだけの話。
あれだけは、知識に貪欲ないかなる魔法使いでも行おうとは思わないという。
失敗するとわかりきっている理論。
そんなものに挑戦するのは、愚か者か――狂人だけだ。
「ねぇねぇ、ちゃんとあたくしのお話、わかったのかしら?」
女はやけに軽く甘い、媚びたような声音で問う。
「あたくしはいまからノインに行くの」
「ちゃんと聞いたよ、ルシテア。未来の旦那を惑わす小娘を始末するんだろう?」
そのための報酬なんだから、と少女は笑う。声音は低く、少年のようだ。しかし雪のような真っ白い髪に赤い瞳、白い肌を鮮やかに浮かび上げる黒いドレスは、明らかに女物。
まるでどこかの令嬢の衣服を、黒く染め上げたような衣装。
赤をまとう女と、なかなかにバランスがいい。
それもまた、女の気分を良くしていた。バランスがいいのに、華やかさでは自分が上。つまりは目の前の少女は引き立て役だ。紅に染まる唇が、さらに笑みの色を深めていく。
「じゃあ、早速出発ね」
「しかし足はどうする? ノインは遠いよ」
「あたくしを誰だと思っているの? 特別に乗せていってあげるのよ」
赤い目を細め、女は歩き出す。さらり、とゆるく波打つ金髪が揺れた。女は少女の隣を通り過ぎて、部屋の突き当たりにある扉を開く。その向こうにあるのは、外に面したベランダだ。
女の機嫌は、実はかなり悪い。
しかし少女の存在が、気分だけだが持ち上げている。
誰だって気分が悪くなるに決まっているわ、と女は心の中で笑った。
まったく笑みがこもっていない声で、笑った。
未来の伴侶が、よりにもよって許婚である自分をないがしろにし、簡単にひねりつぶせる貧相な小娘を相手に選んだという話。彼の両親も怒っているが、女の怒りはもっと深い。
女は半月前に成人の儀式を終えて、すっかり妙齢の美女となった。
この姿なら、彼もきっと惚れ惚れしてくれるはずだった。それこそ寝る間も惜しんで、女のすべてを愛してくれるはずだったのだ。なのに、なのに。それなのに。
彼が選んだのは自分ではなく、それどころか同族ですら――なかったのだ。
「ふふ、くくく……早く八つ裂きにしてあげなきゃね」
笑うドレスの女は赤いドラゴンへと変じ、その背に少女を乗せて飛び立った。その姿を見ていたものは数多くいれど、それほど意識に留めることでもなかった。
いずれ自分たちの王となるものに、添うことが決まっている姫なのだから。