34.ある魔女の話
ノイン王国の傍らに、エルディア王国という小さな国がある。首都と片手でがぞえられる程度の集落がある、国土のほとんどが大小様々な湖に占められているのどかな水の国だ。
山深い湖に、その魔女は住んでいる。
湖の中心に立てられた、かわいらしいデザインの小さな家に。
――カグヤ・ヒメモリ。
その家、アトリエに住む魔女は、そんな名前の魔女だった。
黒い髪に黒い瞳、そして色白の肌。髪は結わねば身長よりも長い。ヒトにはよく魔法式的に意味があるのかと問われるが、髪の長さは完全に、寸分の狂いも無く彼女の好みの反映だ。
「カグヤ、そろそろ起きろ」
それらを、戯れるように撫でているのは、長身の青年だった。普段はしなやかな黒猫の姿をしているカグヤの使い魔の、ゼロ。今は耳の長いエルフ種の姿をとっている。
彼は長い銀髪を無造作に結い、湖のそれによく似た青い瞳を細め。
「カグヤ、客だ。起きろ」
「……ヤダ」
「仕事だぞ?」
「ヤダ」
「カグヤ……」
「ヤ・ダ」
ぼふん、と毛布の中にもぐる。それでも収まらないほど長い髪が、隙間から流れるように零れ落ちていた。そして、誰も何も言っていないのに、ひたすら『ヤダヤダ』と繰り返す。
青年はため息をひとつこぼし、立ち上がった。
居間で待たせている客人の所に向かう。
ソファがおかれた居間には、小柄な少女一人だけ。
薄く、淡い緑の髪を長く伸ばした、カグヤとは同門で同期の魔女。
「やぁ、セラ」
「やっほー、ゼロ。カグヤはやっぱりヒキコモリだね」
「すまないね。……それで、師に何か?」
「カグヤの師はピンピンだよ。ただね、セラの師匠が死んじゃったんだよね」
「そうか……ずいぶん、ご高齢だったからね」
手早く紅茶と茶菓子を用意し、セラの前に並べる。
「そ。だからセラ、師匠のアトリエを継ぐんだ」
紅茶を一口飲んだセラの一言。ゼロはかすかに目を見開き、家の奥からも音がする。扉を開けたままだから、彼女まで声が届いているのだろう。その言葉の内容も、意味も。
「……ノインだったかな、あなたの師が住まったのは」
「そだよ。だからまぁ……ここにはもう、めったにこれないかもね」
今まではそう離れていない、一門の里にいた。同じ国内にあって、『魔女宅配』の担当も同じという距離だ。徒歩で行き来し、目的地で数時間ほどを過ごしても、余裕で日帰りできる。
だからここに通うのも、そう苦は無かった。
しかし国境を越えてしまえば、国が変わってしまえば。よっぽどのことが無い限りは、行き来するのも難しい。単純に移動距離も伸びるし、国境を越えるのも手続きなどがある。
つまり、これは――。
「お別れの挨拶、というわけか」
「まぁね。……一応、里の行事には出たいなぁとは思うけど、カグヤ、来ないしね」
決して家から出ようとしない、筋金入りのヒキコモリ。
家でなら誰とでも会うけれども、気分次第では湖に叩き落すこともある。
生活のすべてを使い魔のゼロに任せ、日々魔法式だけをいじる生活。ある意味で、もっとも魔女らしい魔女カグヤの、数少ない――もしかするとたった一人しかいない友人が遠くに。
にもかかわらず、それでも出てこない主に、ゼロが心の中でため息をこぼした。
その瞬間。
「セラ」
枕を抱え、乱れた髪もそのままのカグヤが、居間の入り口に立っていた。
彼女はその枕を使い魔に投げつけ、ソファに座ったままのセラに飛びついた。そのまま子供が母親にするように、抱きついて肩を揺らし、ぐりぐりと顔を押し付ける。
「バカ、バカバカ、バカバカバカ」
「はいはい。カグヤいいこいいこ……ほら、泣かないのー」
「……ちゃんと、来るのです」
「ん?」
「ちゃんと、また、ここに、きやがれです。でないと、でなきゃ」
こっちから、と呟いて、カグヤはセラをさらにぎゅうっと抱きしめる。
結局、その強引な抱擁はセラの迎えが来るまで続いた。引っ越す地域を担当している『魔女宅配』が、わざわざ迎えに来てくれたのだという。ゼロの予想に反し、その魔女は若かった。
すでに荷物は別ルートで運んでしまい、後は身一つでアトリエへと向かうだけ。
カグヤを無理やりセラから引き剥がしたゼロは、主を抱えて見送りに出る。
「離して」
「出発を邪魔しないなら」
「……」
セラがよく見えるように、抱きかかえなおす。
彼女はちょうど、ドラゴンの上にいる配達員の胸元にすっぽりと納まっていた。妖精種である彼女は、手のひらに乗るほどの大きさが、本来の姿だという。
こういう時は便利そうだな、とゼロは新たな姿はあれにしようかと考える。
「じゃ、カグヤ元気でね。ゼロに迷惑かけないよーにね」
「……う、うるさいのです。セラも、気をつけて暮らしやがれです」
一通り挨拶をした頃合を見計らって、ドラゴンは大きく翼を動かす。ゆっくりと細身高が重いであろう身体が浮き上がり、あっという間に家よりずっと高いところまでいってしまった。
何度か湖の上を旋回し、セラを乗せたドラゴンは飛んでいった。
しばらく見送って、二人は部屋に戻る。
カグヤは髪を結うのか、自分の部屋に戻ろうとしていた。
そのどこか元気の無い背に向かい、ゼロは。
「会いに来いと念押しするよりも、自分から会いに行けばよいのではないかな?」
「それは癪だから却下」