32.お肉の美味しい食し方 食べ編
どれくらい時間が経っただろうか。
ただ、オーブンを見つめつつ、時々火加減を調節するだけだった時間。
日々の菓子作りで、すっかり慣れた作業。
外はすっかり薄暗く、身体はかすかとは言えない程度の空腹を訴える。
そんな僕をあざ笑うように、家の中にはその香りが満ちていた。思わず、ごくりと唾を飲み込んでしまう。いつの間にか肩に乗っていたお師匠も、同じように目の前の物体を見つめた。
そこには――こんがりと焼きあがった肉。
絶妙な焦げ目をまとい、今もわずかに油が爆ぜている肉。
「……弟子くん」
いつの間にか駆けつけていたお師匠が呟く。
「すごく……おいしそうだね」
「そうですね……」
「……お夕飯の準備、しよっか」
「了解です。サラダですか?」
「そだね……柑橘風味の、さっぱりしたドレッシングにしよう」
「じゃあ、早速もいできますね」
後ろ髪を鷲掴みにされるような思いを振り切り、僕はその肉から視線をそらした。
なんて……なんて目に毒なんだ。
毒なんてモンじゃない。
思わずかぶりつきたくなってしまう。
お師匠がいなかったら、もしかしたら……。
限りなく草食系だと思っていた自分の、隠された一面に僕は恐怖すら覚える。だけどあの肉に抗えるヒトは、きっとそういないはずだと思う。ましてや僕ぐらいの年齢だと……うん。
とりあえず外に出た僕は、かすかに香る焼けたハーブなどの香りに愕然とした。
――逃げ場が、ない。
さほどおなかはすいていないと思っていたけど、今は極限まで飢えた心地だ。
精神的な空腹感が、人生初の、ヤバイ域に達しつつあった。
「弟子くうううん! はやくううううう!」
「はっ」
家の中から聞こえる悲痛な声。
そうだ、僕にはまだやらなければいけない仕事がある。
食べごろの果実を一つもぎ、家の中に戻る。それから塩とコショウ、油と果汁で、シンプルなドレッシングをささっと作り、お師匠が用意していた野菜にかけてしっかり混ぜ合わせる。
その間にお師匠は食卓の準備だ。
二人分の皿を数枚に、フォークやナイフといった食器類。
事前に作っておいたクリーム系のスープ。
焼きたてのパン。
そしてテーブルの中央に、あの肉を。
僕とお師匠はしばらくセッティングされた食卓を眺め、最後に手をしっかりと洗って。
「いただきまーす!」
「いただきます」
いつものように椅子に座って、食事を開始したのだった。
あれほどに誘惑された香りは僕ら二人の身も心も満たしつくし、想像すらしたこともないような幸福感をもたらす。……まぁ、要するにびっくりするほどおいしかったわけで。
決して食べる方ではない二人なのに、肉はあっという間に消えてしまった。
ごちそうさまでした。