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丸尾くんと黒須さん

勝ったら結婚してあげる

「勝ったら結婚してあげる」


 黒須さんが缶チューハイを開けながら言った。

「は?」

 僕は聞き返す。

「あって。あんた、私のこと好きなんえしょ?」

 ダ行の発音に失敗しながら、黒須さんは言った。

「そりゃまあ……一目惚れだったよ」

 僕は黒須さんの前に置いてあるワインの瓶を取りながら言う。だがその瓶は途中で黒須さんに、がしっと掴まれてしまった。

「まぁ入ってる」

 仕方なく僕は、隣の空のビール瓶を片付けるべく手を伸ばした。

「しかしだね……出会って二ヶ月、君の印象はだいぶ変わったよ」

「おぉ変わったって言うのよぅ」

「見た目は綺麗で上品なお嬢様だが、中身は飲んだくれ親父だ」

「失礼ねい。れいいを、れいい……」

「レディの発音もできてないじゃないか。呂律が回らなくなるまで飲むレディはいない」

「あんたも飲みなさいよ。しんしゅうらしてないれ」

 紳士面、と言いたかったのだろうなと僕は思う。彼女は危なげな手つきでぐいと瓶をこちらに向ける。僕は首を横に振った。

「やめとくよ」

「グラスをあしなさい。れないと……」

 そう言って彼女は何も無い空中に瓶を傾けていく。

「おい」

「ほら、早くしないと絨毯に落ちないシミがえきちゃうわよぅ……」

「わかった、わかったからやめろって」

 仕方なく僕はグラスで瓶からこぼれ落ちるワインを受け止めた。……彼女は覚えていないようだが、この絨毯はもう三回くらい寝ぼけた彼女が蹴飛ばしたワインによって汚されているのだが。

 あはははと彼女は笑う。

「さて、じゃあやろっか。○×ゲーム」

 彼女は壁にかかっていたホワイトボードを下ろして、床に置いた。キュポンと音を立ててマジックの蓋を取る。

「やれやれ……」

 黒須さんは僕と同じで20代半ば。ポニーテールに花の髪飾りがよく似合う、見た目はお嬢さんだ。アパート「福寿荘」の202号室、つまり僕の部屋の真上に住んでいる。何のつもりかちょくちょく僕の部屋に遊びに来ては酒を飲んで酔っ払って帰っていく。もしくは、帰らないで朝まで死んだように眠っていく。

 最初に会った日に、僕は彼女に告白している。返事はまだ貰っていないが、僕の部屋にしょっちゅう来ては時に泊まっていく(というか酔いつぶれて帰れなくなっているだけだが)のだから、彼女が僕に好意を寄せていると考えてもバチは当たらないだろうと思っている。しかし告白の返事は無い。そのあたりの話題を振ると、途端にはぐらかすのだ。

 人の部屋で無防備に寝こけても僕が手を出さないと安心しているらしいが、まあ事実、僕は寝ている彼女に手を触れもしなかった。シラフの女性も、酔った男の友人も、どちらもうまく扱えない僕が、酔った女性をどうしてどうこうできようか。

 今日も夕方、僕が大学から戻ってすぐ彼女はやってきた。真下だから物音ですぐわかるのだろう。酒瓶と缶チューハイを片手に美女がやってくる部屋。二ヶ月前彼女が訪れた頃はなんていい物件を選んだものだと思ったが、今はもう少し調査が必要だったと後悔している。

 彼女は今日も、やれ友達に子供が生まれただの誰それが新婚旅行に行っただの、僕がさして興味のない昔の友人の情報をひと通り語った。そして話題も尽きた頃、○×ゲームをやらないかと言ってきた。

 ○×ゲーム。要するに、3×3のマス目に互いに○と×を書き入れて、3つ並んだら勝ちというゲームだ。

「やれやれ。どうせ明日の朝には覚えちゃいないだろうにな……。勝ったらホントに結婚してくれるのか?」

「するする。何えもする」

「いきなり結婚というのも早いからまずはお付き合いをだな……」

「やんの。やんないの」

「わかったわかった。やるからコップを振り回すな」

 何でもするというなら、むしろ今すぐ全部片付けて明日シラフで来てくれと言いたい気もした。こんな状態の彼女は、大抵翌朝にはもう何を言ったか思い出せない。

「しかしなんで○×ゲームなんだ。よほどのアホでもなけりゃ引き分けにしかならんぞ」

 そうだ。3×3という小さなマス目では単純すぎて、ミスをしなければ引き分けにしかならない。それは子供でも知っている。結婚を賭けるにはあまりに決まりきったゲームだ。

 黒須さんはペンで二本線を描き、それに直交するようにまた二本の線を描いた。酔っているせいかマスの大きさにだいぶ偏りがある。

「当然丸尾くんが○ね。私が×」

 何が当然かと言うと、僕の苗字が丸尾だからだ。で、彼女、黒須さんはクロスだから×という訳だ。それはそれとして。

「いいのか? 圧倒的に○が有利だぞ」

 一応、そう言った。○が先手だからだ。とはいえ必勝ではない。×が間違えさえしなければ結局は引き分けにしかならない。問題は今の黒須さんが酔っ払いすぎて凡ミスを連発しそうなところだ。

「うっさいなぁ。早く描きな」

 彼女はまた缶ビールを開けた。そうやってちゃんぽんで飲むから悪酔いするというのに。

「ところで君が勝ったらどうするんだ?」

「私が勝ったら? そうねぇ。焼肉おごってもらう」

 ……安くみられたものである。黒須さんにとってあれか? 僕と結婚することは焼肉を食べるかどうかと同じくらいの問題なのか。

「ま、君がいいならいいが……。焼肉くらい何がなくともおごったって構わないけどな」

「無理しないの。学生さんが」

 彼女はこないだまでフリーターだったが、この春からどこかの事務所で働き始めたらしい。社会人一年目。僕は大学院に在学中。黒須さんだってそう裕福な訳じゃない筈だが、何かと社会人だからと口にする。稼いだ金を悉く酒に使ってるようにも見えるけれど。まあ持ち込んでくる酒を自分で買ってくるのだからそこはまあ、偉いとは思う。

「どうせ引き分けにしかならないのになぁ」

 彼女からペンを受け取って、僕は○を描いた。真ん中に描いた。

「あらいいのぉ? 随分考えもせずに……」

「そりゃなぁ。考えてもしょうがないだろ」

 黒須さんは角に×を描いた。

「ほら、もう引き分け確定だぜ」

 僕は黒須さんの描いた×とは対角に○を描く。

「なんでよ」

 そう言って黒須さんは別の角に×を描いた。

「だって、ほらそしたらここに○を描くしかないだろ」

「そうするとここが×ね」

「で、ここに○を描くとな」

「ここを×にするしかないわけね」

「そう。すると残るマスに○を描いて終わり」

 ○○×

 ×○○

 ○××

「引き分けね」

「な? ほら、こんなの子供でもわかるよ」

「そーねぇ」

 黒須さんは焼酎の瓶に手を伸ばした。

「今日はいつにもまして飲むな……」

 酒には強いほうらしく、酔うのは早いが飲む量も多い黒須さん。ただ今日は、ちょっといつもよりペースが早い。僕の方はあんまり飲んでないのに。

 僕はふと、言ってみた。

「なんだかなぁ。ヤケになってるのか? もしかして、誰かにフラれたとか?」

 冗談で言ったつもりだった。だって今、誰かとつきあってるだなんてことは無かった筈だ。僕の知る限り。

 だが、怒り出すか笑い出すかすると思った僕の予想は裏切られた。

 黒須さんの動きが止まった。

 焼酎をグラスに注ごうとしていたその手を止め、五秒ほど。

 僕は言ってはいけないことを言ったのだと悟った。だが、まさか、本当にそうだとは思わなかった。僕の知る限り、は所詮、僕の知る限りでしかなかったらしい。

「悪い?」

 黒須さんはグラスを置いた。瓶も置いた。

「いや…………別に悪くは、ない」

「悪くない訳ないでしょ。じゃなんでフラれる訳?」

 おっと。参ったな。

「……こいつはやぶ蛇どころじゃないな」

「何か悪いところがあったからフラれた訳でしょ?」

 黒須さんはグラスに注がずに直接瓶を口につけた。

「っていうかちょっと待てよ。黒須さん誰かとつきあってたりしたのかよ。いつから? え? ていうか、彼氏がいるのに僕の部屋に遊びにきてどういうつもりだよ」

 僕は少し遅れて怒りが湧いてきた。なんだそれ。黒須さん、他に好きな奴がいたのかよ。なんだ、じゃあ僕の期待は何だったんだ? とっくにフラれてた訳か? 勘違いさせるようなマネしてんじゃねえよ。

「彼氏? ばーか。彼氏になんてなってませんよー。ていうか別にあんな男好きでもなんでもないし」

「……いや、え? もう訳わかんねえよ。彼氏にもなってないって……告ってフラれたってこと? 好きでもないのに告白したのか?」

「…………えっとね」

 突然黒須さんは僕のほうにぐっと顔を近づけた。

「な、何だよ」

「……あんた、私のどこが好きなわけ?」

「は? いきなり話をそらすなよ。君の……」

「どうせあれでしょ、私の見た目でしょ? わりと美人だしね」

「うわ。自分で言うか? 自意識……」

「別にアイドル並みだとか言ってやしないわよ。それでも二十五歳まで女の子にモテたことの無い男がトキメいちゃうくらいには可愛いんじゃないの? 知らないけど」

「なんだそれ、僕のことか?」

「そうよ。だってあんた、私の性格を知ってて好きになった訳じゃないでしょ? 出会ったその日に告白だもんね。見た目に惚れたんだもんね。違うとは言わせない」

 ああそうだ。出会った日からわりと黒須さんは地が出ていた気はするが、見た目は関係ないとは言えない。

「違わないさ。そうだよ。君は好みのタイプだ」

「そ。あんがと。つまり見た目が好みなら、他の誰でも言い訳でしょ? 私もそれとおんなじ」

「誰でも? バカにしてんのか? 君も同じってどういう意味だ。えーと……」

 少し頭を回す。くそう。酔っているせいか思考が鈍い。

「つまり君は好みのタイプのイケメンに告白してフラれたってことか?」

「惜しい」

 指を立ててこちらに向けてくる。なんだか、今日は酷く質の悪い酔い方をしているらしい。

「私はね、見た目に好みなんて無いの。男はお金よお金。しっかり稼いでくれて、私を楽させてくれる男がいいの」

「そういう男がいたのか」

「いたよ。一杯いた。パーティーなの。男の参加資格に年収が関係するような、ね」

 パーティー? 鼻眼鏡をかけてとんがり帽子をかぶってクラッカーを鳴らすタイプのパーティーが浮かんだが、たぶん違うな。

「そういうのがあるのか。ていうかそんなの行ってるのか黒須さん」

「一回興味で行ったのよ。職場で知り合った人に誘われてね。行ったらおじさんばっかりだったけど、さすが肩書きは凄かったわ。えーと、ヤングエグ何とか? みたいな」

 ヤングエグゼクティブか。青年実業家か。それは肩書きではないし、あと言い方古いな。

「女性も三十過ぎくらいが多かったから、そこじゃ私は若いほうだったのよねぇ。こう言っちゃなんだけど、会場じゃあ随分チヤホヤしてくれるもんだから、モテモテだと思ったのよね。でもさ、その後誰一人として連絡もしてこないの」

「……」

 想像が追いつかない。えーと、お見合いパーティみたいなものか? 会場? 僕の頭の中では、結婚披露宴みたいな風景が広がった。男も女もガッチリ着飾っている感じだろうか。でも……そういうとこでメアドの交換とかするのか? なんかイメージが合わないな。

「で、しょうがないからこっちから連絡してみた訳ね。こないだは楽しかったですね、とか、今度お食事でもどうですか、とか」

「へぇ……それで?」

「そしたらさ、途端に手の平を返したようなメール。まさか僕のことを覚えていてくれるとは思いませんでした、ぜひお願いしますとか何とか。だったら最初から誘ってきなさいってのよ。ねえ、そう思わない?」

「思うわけあるか」

 僕を何だと思ってるんだろう。

「でさ、一応何回か食事をしたりしたわけよ」

「どんな男なんだ? 顔は」

「顔はよく覚えてないけど」

 おい。

「一流企業の出世株みたいよ。35にして部長だって」

「それって凄いのか?」

「たぶん。結構名前も聞く企業だし」

「しかし35って一回り近く上だな。年上好きなのか?」

「結婚に年は関係ないでしょ」

 まあそうだが。というか愛には、だろ。

「で、フラれた訳か。だがとにかく君は、そういう男がいながら僕のとこに来てた訳だな」

「あいつ言うわけよ」

 黒須さんはすでに僕の話を聞いていない。

「あなたほど綺麗な方なら僕なんかよりもっといい相手がいると思います、とかさ。もっと年齢が釣り合う人がいいんじゃないですか……とかさ」

「なんだ。良い人じゃないか。角が立たない言い方をしてくれてる」

「本音を言えってのよ。ニ、三回食事しただけでほとんどお互いのこと知りもしないのに、何が気に入らない訳?」

「そいつのこと好きだったのか?」

「全っ然」

 僕はため息をついた。またそのパターンか。

「あのなぁ……。ならいいじゃないかどうでも。黒須さん、前も似たようなことあったって言ってたよな。あんまり好きでもないのにつきあうの、やめたほうがいいんじゃないのか」

 僕と出会った二ヶ月前にも、別になんとも思ってない相手にフラれたと言っていた。

「ふーん…………そういうこと言うんだ」

 黒須さんは目を細めた。嫌な顔だ。嘲笑するように僕を見ている。

「なんだよ」

「少女漫画に出てくる女の子みたいに、大好きで大好きでたまらなくて心臓が破裂しそうなくらいドキドキする相手じゃないと、つきあっちゃダメなの?」

「そこまで大げさに言う訳じゃないが……。それでもその、恋の芽生えというのか何というのか、予感みたいのはあるだろ? それも何にもなくて、ただ収入とかだけで男を選ぶなよ。そんなの最低だろ」

「最低……?」

「だよ。後悔するだけだぞ」

「そうよ。最っ低。面食いのあんたと同じくらいね」

「おい、僕は誰でもいいなんて思ってやしない」

「私だって誰でもいいなんて思わないわよ!」

 彼女はいきなり缶を僕に投げつけた。ビックリしてよける。中身は入ってなかったらしく、カンと壁に音を立てて、床に転がっただけで済んだ。

「でも、しょうがないじゃん! そんなに好きになったことなんてないもん! わかんないよ! 何? 待ってれば訪れるわけ? 王子様が現れて、一目で恋に落ちるわけ? この人しかいないって思えるわけ?」

「お、おい、落ち着いてくれ……」

「あんたのこともさ! 残念ながらそんなに好きになってないの。わかる? 大して好きじゃない相手とはつきあっちゃダメって? あそう。なら、私とあんたは一生つきあえないよね!」

「……」

「私だって、好きになりたいよ。誰かを好きになって、この人じゃなきゃダメっていう気持ちになりたい」

 ああ……僕は黒須さんの涙を再び見ることになったのだった。

「ホントのこと言って下さい、私のどこが気に入らないんですかって、聞いてみたのよ。私。ちょっと強い口調でね。そしたらさ、君は僕のことには興味がないみたいだ、ですって。そらそうよ。興味ないもんクラシック音楽の話とかされてもさぁ。でも、興味ある振りしてさ、相槌打ってさ、ちゃんと演技したのに。バレてた! でもバレてたとしてもさ、努力を評価してくれてもいいでしょ」

 黒須さんは膝を抱えた。

「私さ、学生の頃さ、何度か告白されたこともあったの。でもさ、それでつきあい始めるとさ、必ずフラれるのは私の方」

「……」

「告白したほうってさ、案外フる時には罪悪感ないんだよね。僕の事、そんなに好きじゃないでしょ? だって。いつもそう言うの。そしたら私、うんって言う。言うしか無いじゃん。そしたら相手はほっとした顔して去っていくんだもの」

「でも……じゃあ君は好きだったのか? 好きじゃなかったんだろ」

「わかんない。でも好きかどうかもわかんないんだから、きっと何とも思ってなかったんだよね。そして結局、主導権は向こうなの」

 黒須さんは、ひっくひっくとしゃくり声を上げ始めた。

 僕は、しばらく声もかけずにいた。

 この人はずっとこうで、ずっとこうなのはどうしてなんだろう。僕がずっとこうで、ずっとこうなのはなぜなのか。それと同じなのか。違うのか。僕たちは同じ部屋にいて、それなのに違う世界で生きているのか。

 酔った頭が意味のない言葉を空中に散りばめていく。

「ねえ」

 突然声がした。見ると、ホワイトボードには新たに3×3のマス目が書かれていた。

「君から」

 マジックを渡される。仕方なく僕は、また○を書き入れる。

「……」

 黒須さんは何も言わずに×を描く。僕が○を。彼女が×を。……引き分け。

「一目惚れってどういう感じ?」

 黒須さんはまた新しいマス目を描きながら、僕に聞く。

「……うまく言えないな。案外、言葉に出して始めてそうだとわかるだけかもしれない。結局は、ただドキドキしているのに気付いたってことだよ」

「ふーん」

 ……僕が○を描き、彼女が×を描く。交互にそれを繰り返し、どこも揃わず、9マスが埋まる。引き分け。

「つきあっちゃえば何か変わるかな」

「……僕に聞くなよ」

 僕が○を描く。彼女が×を描く。ゲームはいつだって僕から始まるけれど、彼女が交わすうちに、どこにも行かずに終わる。引き分け。

「私、どうしたらいいと思う?」

「それを人に聞く女は、僕は好きじゃない」

「ひどいな」

 彼女は笑った。

 僕が○を、彼女が×を。僕が描いた5つの○も、彼女が描いた4つの×も。どちらもいびつに並び揃いはしないまま、ゲームは終わる。引き分け。

「初めは言ってくれたじゃん。僕に愛されてるからさぁって。また言ってよ」

「愛してるさ。何度でも言う。でも僕とつきあうかどうかは、君が決めることだ」

 ○。×。○。×。○。×。○。×。○。引き分け。

「決着、つかないね」

「○×ゲームってのはそういうもんだ。どっちかが諦めなきゃ、引き分け以外にはならないよ」

「諦め……か」

 彼女は手を止めた。

「……次で最後にする」

 僕は、角に○を書き入れた。

 ○



「丸尾君が勝ったら、本当に結婚してもいいよ」

 そう、黒須さんは言った。目を伏せたままだった。僕は何も言わなかった。

 ○


   ×

 彼女が×を対角に書き入れた。

「……」

 僕は息を飲む。そして○を書き入れようとして、手を止め、彼女が顔を上げるまで待った。

 彼女は顔を上げなかった。ただじっと、床を見ている。

 そして僕は、○を中央に書き入れた。

 ○

  ○

   ×

 彼女は僕の書き入れた盤面を、じっと見ていた。しばらく見ていた。

「ふーん」

 彼女は別の角に×を書き入れ、その後二人はさっさとマス目を埋めた。ゲームは引き分けで終わった。

「丸尾くん、優しくないな」

「ああ」


 *


 翌朝、彼女はやっぱり忘れていた。僕も、何も言わなかった。そして僕らの関係は何も変わらなかった。相変わらず黒須さんは僕の部屋にやってくる。

 僕が彼女にした告白も、何度か会話の端に上り、そのたびに彼女はそれを交わし、そしてうやむやになる。

 あの○×ゲームと同じだ。


 僕は考える。

 ○×ゲームというのは、一見すると先手である○が有利に見える。

 しかし蓋を開けてみれば、どちらが必勝のゲームでもない。お互いに最善手を取るならば、引き分けにしかならない。

 では、もしも負けようと思ったなら? どうすればいい?

 もちろん、二つ並んだところを見逃すというあからさまなミスをすればそれは簡単だ。でも、それじゃ負けようとしているのがバレバレだ。そうとはわからないように、自然に、相手の必勝の状況を作ってやるには?

 うまく、一手だけ間違えることだ。相手に気付かれないように、序盤の一手だけ、間違える。たった一手の応手を間違えるだけで、相手に必勝の状況を作ることができる。

 このゲームの本当の主導権は、×にある。


 黒須さんの言うとおり、僕は優しくない。彼女が諦めることを、僕は許さなかった。


 まだ決着はつかない。


 だってゲームは、引き分けなのだから。

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― 新着の感想 ―
[一言] 締めが良かったです。 安直に結婚して終わり、じゃなく その先を匂わせる感じで。 最後の厳しい丸尾君の語りがよかったです^^
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